第7話

 会社員時代の仕事環境は、酷いものだった。記事の作成は常に締め切りとの勝負であり、記事として取り扱う題材によっては、古傷を抉ったりまだ傷の癒えていない相手を更に傷つけなければいけない様な、そんな仕事も少なくなかった。

 それがなければ務まらない。この仕事を選んだ以上は避けて通れない。それで遠慮してたらこっちが給料を貰えなくなる。自分の為にする仕事なら、相手を地獄に落とすつもりでやれ。食うか食われるかの世界で、食われる側に回った奴が悪い。

 先輩達には入社当初からそう教わってきた。恐ろしい事に、大学を出たばかりという社会を知らない青二才は、それが厳しい大人の社会の仕組みなのだ、と半ば無意識に洗脳され、それを常識と思い込む。食われたくないなら、食ってやるしかないじゃないか。そうして自分を正当化して、仕事をする。マスコミや営業職は特にその傾向が強いな、と薫は当時、スーツに身を包みながら漠然と考えていた。

 自分は、何をしているのだろう。

 大好きな仕事という訳ではない。心から目指していた仕事という訳でもない。ただ、自分の能力が比較的活かせると思えた職だったから、他の可能性を考えずに飛び込んでみただけで。

 深い考えは、薫には無かった。

 仕事はそつなくこなし、しかし取り立てていい業績を残す事も出来ない。人の心の揺れ動きや内面の心情を気にする性質の薫には、読者の感情を煽り、一方的に世論が悪と見なした存在を一方的に攻撃する様な仕事は、肌に合わない様だった。加えて、社内営業で誰かに媚を売りゴマを擦る、そんな自己評価を上げる努力をするのも性に合わず、そしてその性格や性分を変えてまで、仕事というものに情熱を傾ける訳でもなかった。その所為であろう。昇進や昇給は、勤続年数のお情けで引き上げられるだけの、『取り立てて目立つ仕事をしない、居ても居なくても影響の無い男』として仕事をしているだけに過ぎなかった。悲しい事に。

 疲れた彼が、日曜日の夕暮れに立ち寄ったのが、凪の働くバーだった。

 何となく店を選んで、何となくその時間に入り、何となくピアノの良く見えるカウンター席に座って。


 そこで、凪を。凪の演奏を見て、聴いた。


 バーの客が一部でも会話を止め、その演奏に目を奪われているのを見つける。他にも、ちらりちらりと、本来注意を奪われてはいけない筈のウェイターまでもが時折、凪の方へと視線をやるのを確認した。暖色の店内ライトが優しく店と人を包み込むこの空間で、凪は今まさに、店の中心であった。

「あの人は?」

 酒を飲みながら、薫はバーでカクテルを作っている男に尋ねた。名札には「井森」とあった。井森は凪の方を見ずに答える。それは、あまりにも一見の客に同じ事を訊かれ慣れているからなのだろう。微笑を湛えながら、お決まりの文句の様に言う。

「うちの看板です。とても、いい演奏をするでしょう?」

 それだけ言う。そして、それで十分だった。演奏とその立ち居振る舞いの美しさに目を奪われた薫だったから、演奏に合わせて揺れるセミロングの髪にも、鍵盤を静かに、微笑みながら見つめるその仕草も、すらりと伸びてとても丁寧に手入れされた脚も、薫の気を引くには十分な魅力であった。

「素敵ですねぇ」

 酒に強くない薫は酔いながら、ぼんやりと正直に思った事を口にした。だが、井森がその言葉を耳にしてグラスを拭く手を止め、え? という顔をする。

「失礼、何か今?」

「え、ああ、いえ」

 薫は少し頭を冷まし、かぶりを振った。いくら何でも、入った店の先で初めて見た奏者の立ち居振る舞いの美しさを突然に褒めるのは、不躾だったろうか。そう考えたが、いや、特に話と場の流れで、客と店の人間という事を考えても、特に大きく礼を失した事は無いのではないか、と考え直す。

 では何故、井森という男は驚いた様に訊き返したのだろうか。

 疑問には思ったが、オーダーを受けにその場を離れた井森にわざわざ声を掛けるのも忍びなくて、薫はネクタイを緩めて、カクテルの残りを飲んだ。

 また、来よう。そう思った。

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