第5話
凪の演奏を聴きながら、薫は酒を煽る。それまで各々がふけっていた雑談を切り上げ、客の幾つかのグループは、凪の演奏を見守っていた。
その光景に誇りと一握の嫉妬心を抱いて、そして自己嫌悪する。そうして、自問自答をしたくなって、しかし自分では答えを見つけられる筈もなくて。だから、井森に声を掛けた。
「井森さん。凪は、幸福で居てくれてるんでしょうか」
その言葉の意味を理解しあぐねている様に、井森はすぐには答えず、拭き終わったグラスを片付けてから布巾を掛け、キッチンに両手を広げてついてやや体を前のめりにし、問い返す。
「どういう事だね」
「……今日、仕事上がりの大学時代からの友達と会って、飯食べたんですよ。私服の俺を見て、やっぱり色々訊いてきたんです。どんな仕事してるんだとか、今どうしてるんだとか」
「社会人になったら話のタネなんて、そんなもんだろうからね」
「それは、いいんですよ。俺だってちゃんと仕事してるし。何なら、下手なトコ就職した奴よりも稼いでる。凪の収入と合わせれば、十分すぎるとは言えなくたって、ギリギリの生活なんかじゃない。ちゃんと余暇の余裕もあるんだ。……でもそいつは、そんなんでいいのか、って言ってきたんです」
彼からすれば、薫に対する強い心配をしての言葉と態度だったのだろう。彼は言ったのだ。ライターなどという不安定な職は早く卒業して、もっと安定して稼げる仕事を探した方がいい。夜遅くまでの仕事の恋人に合わせて生活リズムを乱すなんて不健康だ。今のままじゃヤバいぞ。もっと真面目に将来を考えた方がいい。二人の為を思ってこんな事を言ってるんだ。同棲しているならちゃんとしなきゃ。
そして、極め付けはこうだ。
『お前に負担ばかり掛ける恋人なんて、お前達お互い幸せなのか?』
元々酒にそう強くない薫だったが、既に四杯のカクテルを空にしており、視界は揺れていた。ついでに、思考も少し危うい程度にふらふらとしており、素面であれば隠し通してしまう様な本音まで、ゆっくりと垂れ流してしまう。そんな状態だった彼は、友人とのやりとりをゆっくり、井森に話した。
一通りの話を聞き終わっても、井森はすぐに返事をしない。
「井森さん。俺、凪を誰よりも幸せにしてやりたいってずっと思ってるんです。三十超えて、七つも年下の恋人捕まえて、俺なんかでいいのかって思いながらもしっかり真面目に愛して……でも、あいつは幸せになれるんですかね? あいつが奪われたものは簡単に取り戻せるものじゃないし、それを全て補ってやれる訳じゃない。酔ったあの子が転ばない様に支えたり、頭を洗ってあげたり、服を着るのを手伝ったり……過保護だとは思わないですけど、そうしなきゃ駄目な生活を送っている時点で、彼女は人並みの生活って送れないんですかね? 俺のやってる事は、俺の愛は、無駄なんですか?」
「無駄な事なんて、あるものか」
即答をずっと躊躇っていた風な井森であったが、その問いにだけは即答する。彼にとって、薫の凪に対する愛情と、それを受ける凪の喜びは、誰が何と言っても間違ってなどいない。それだけは、世界の神が否定しようとも絶対に肯定する。そう言ってやれるくらいに、井森は薫に信頼を寄せていた。
「君は間違い無く、凪を支えているし、あの子もそれに感謝している。彼女なりに出来る範囲で、君に愛情と恩を返そうとしている。その信頼関係は、第三者には到底知り得ない絆だ。君が心を惑わせる要素なんて、何処にも無いんだよ」
言われて、薫は酒に酔った頭で井森の言葉を聞く。そうして、一筋だけ涙を流す。
薫は、演奏を続ける凪の姿を遠目に臨みながら、彼女との過去を振り返っていた。
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