第4話

 凪と全く同じ境遇の人。同じハンディキャップを持つその人は、とても滑らかに鍵盤を叩き、撫で、確かに音を奏でていた。画質の悪いネット動画のその映像は、しかし凪にとってとても輝いている映像にしか見えなくて。

 凪はその姿に、心を揺さぶられた。人の可能性は、限られてなんていない。きっと、願えば叶う。そう信じたかった。

 現実は違うかも知れない。本当にピアノを仕事にする人は幼少期から耳と指を鍛えなければならず、小学生になってから始めてさえも遅いと言われている、その道へ、凪は進んでみたいと思った。

 反対されるかも知れない、否定されるかも知れないという恐怖は、しかし好奇心と野心に勝てなかった。凪は両親に、ピアノを始めさせて欲しいと、強く頼んだのである。

 容易に納得させられる話ではなかった。ピアノの英才教育どころか、基本的な知識さえもあやふやな中学生が、ピアノなどと。

 それでも、これしかない。これがやりたい。そう強く心で感じていた。決して諦めないからと、何度も何度も口にして、誓って、頭を下げて。

 買ってもらえたのは、楽譜のセットとキーボードオルガン。凪の生活を支えるのに手一杯で、両親が資金を工面する事は難しかった。そんな事情も知っている。だから凪は、どれだけ苦しくても、決して投げ出さなかった。

 曲を何度も聴いた。何度も譜面を読み、すぐにアウトプット出来るようにした。何度も弾く練習をした。何度も、何十回も、何百回も、何千回も。家の練習で足りない時は、誰も居ない講堂のピアノを使って練習をしてから帰った。

 同級生に馬鹿にされたのは、十や二十ではない。早く帰れと冷たく教師に突き放されたのは、百や二百ではない。

 それでも、凪は諦めなかった。



 小さなコンクールに、一度だけ出た事がある。会場に到着しても、誰も凪の事を出場者だとは思わなかっただろう。控え室に居た他の出場者も皆、互いに誰かの関係者だろうとしか思わなかった筈だ。

 控え室で名前を呼ばれて立ち上がった凪を、皆が息を飲んで見つめた。舞台に上がったところで、客席から起きた拍手が一瞬乱れた。数秒遅れて、ざわめき。そんな事には、慣れていた。十七年間、そんな奇異の目で凪は見られてきたのだから。

 誰も、私の事なんか知りはしない。私自身の事なんて、知りやしない。

 あんな奴がピアノなんて弾けるのか?

 観客の自分への興味はきっと、それだけだ。

 凪は知っていた。誰も、私自身の本当を知ろうとはしないのだと。

 自分は、一位になんてなれない。ピアノの技量で言えば、この小さなコンクールにさえ出られた事が大金星と言っていい。

 だから、自分は自分の演奏をする。ただ、それだけだ。

 そんな決意を胸に秘めて、凪は椅子に座って、一曲を演奏した。



 記録は残せなかった。だが観客の記憶には残ったようで、誰も最優秀賞の子達について話す事は無く、話題は凪の事で持ちきりで。

 ……そんな事実と、控え室で花束を床に投げつけた最優秀賞受賞者の姿を見てつい頰が緩んでしまう汚れた愉悦を、神は見逃さなかったのだろうか。

 それから数日と経過せず、凪はレイプされた。

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