第3話

「何かあった?」

 井森が訊く。薫は、「特に、何も」と素っ気無く答え、酒を飲んだ。

 嘘ではない。本当に、何という、どういう感情や思考が薫の胸の内に去来したか、それを言葉にして伝える事が出来なかったのだ。だから、特に何、と伝える事も無い。井森さんは小首を傾げてから、そうかい、といつもの微笑みを湛えて、それきり黙ってしまった。薫は小さく嘆息して、そろそろ演奏を終えようかという男の、頭をリズムに合わせて揺らせて楽しげに演奏するその姿を、しばらく眺めていた。

 彼が一見、事も無げに楽しそうに演じ、奏でているその音は、しかし彼が二十数年、或いは三十年以上も音楽に携わり、日々の努力を研鑽し続けた結果出せる音色であり、その音色を奏でて生活を送れている事に楽しみを感じているのだという事は、薫にも良く分かる。気付けば中学校の頃から物語を考え、形にし、それを受験期間にさえも続けていた文章馬鹿な彼だから、何か一つの事に熱中する、というのはとても共感出来たのだ。

 好きな事、得意な事を仕事に出来る人間は少ない。そして、それが叶ったからといっていい事ばかりではない。それは、身に染みて理解しているつもりだ。せめて、前者であれば苦難も乗り越えようと前向きになれるかも知れない。だが、後者を理由にその道を仕事として選んだ者は、逃げる事を選択肢に入れて物事を考えてしまう癖が生まれる。

 薫は、どちらかと言えば後者である。高校時代から続けていた物書きの活動を重ねていく内に文章力と話の構成力だけは向上し、大学受験の小論文でも好成績を修めている……と、少なくとも彼は自負していた。だから、ライターなどという職を選ぶ事になった。それになりたかった訳でも、好きな訳でもない。ただ大学四年間の内でも続けていて特技として語れる様なものが、それしか無かったというだけの事だ。出版関係の職へ新卒入社した後は、ただただ、そこに行き着いた。本当に、それだけである。

 なし崩しで仕事を選んでしまった自分と、今ピアノを奏でている男や凪は、全く違う存在だ。薫はそう思う。

 三十二にもなって、何をセンチメンタルな事を考えているのだろう。こんな事を考えるのは、人生にやりがいや趣味を持たない退屈な人間ばかりだと思っていたのに。薫は再び嘆息し、カクテルの追加を頼んだ。

「アメリカーノ」

「かしこまりました。……食事は、何か食べていくかい」

「いいおつまみがあると嬉しいですね」

 黙って頷いて、井森さんは注文を受ける。この人も色々ある人生だが、やりがいを感じている生き方をしていそうだな、と薫は井森の横顔を見て思う。凪と深く関わってきたのだから、当然と言えば当然かも知れない。

 ……凪は、その四半世紀にも満たない人生の中で、どれだけの努力をした事だろう。井森よりも薫よりも苦労をし、そしてこの場に居る誰の想像にも及ばない、苦難の連続を経験した事だろう。

 それでも彼女は、初めて薫がその姿を見た時と変わらず、朗らかに笑うのだ。

 きっと、彼女のその姿に心打たれたのは、自分だけではない。薫は自惚れそうになる自分の妄想を払拭させる。

 それでも、誰も彼女と恋仲にならず、結ばれる可能性も無かったのはきっと、自分が彼女を受け入れたから。そして、彼女と共に人生を歩む資格があると、井森さんに見込まれたからだろう。

「またそんな顔してる」

 今度はくつくつと小さく声を出して、井森は笑った。薫は慌てて背筋を伸ばして、居心地悪そうにして訊く。

「そんなに難しい顔してました?」

「いや、そうじゃなくて。初めて会った時みたいな顔してるな、っていう話だよ」

 凪ちゃんを初めて見た時もそんな顔してたじゃないか、と言う井森は、何だか我が子か近所の子供を見て微笑むお兄さん、という雰囲気を醸している。薫は小恥ずかしくなって、赤面を隠す為に、新しく出されたカクテルを一気に飲み干した。

 演奏後のインターバルが終わる。客がそれぞれの話を徐々に切り上げて無人のピアノへと注目し始めた。

 凪の演奏が、始まる。

 司会の男が厳かに、柔らかい口調で案内をした。

「宵も更け、名残惜しくも最後の演奏となります。凪さんによる演奏、ごゆっくりとお楽しみ下さい……」

 拍手が起こる。騒音にならない、薄暗い店内の雰囲気を壊さない程度のしめやかな拍手。だが、それがこの店には丁度良かった。

「人気ですね」

 誇らしくなってそう言った。井森も、薫の言葉に応じる。「彼女は、人目を惹くからね」

 それが彼女にとっていい事か悪い事か、それは分からない。

 それでもただ、彼女が幸せであればそれでいい。それが、薫にとっての全てだった。

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