第14幕 『枷』という存在
要所要所にポツンと行燈が灯っているだけの薄暗い屋敷内の廊下は、当に和風ホラーの世界に迷い込んだ様な雰囲気を漂わせていた。並大抵の精神では、足がすくんでしまうかもしれない。
しかし、そんな不気味な場所に、動きのある影――まだ意識が朦朧としているも、此処迄、織乃宮紫慧に支えて貰いながら、蒼鬼姫の屋敷内の迷路の様な廊下を歩いている星海燕の、2人の姿であった。
「星海さん。そんなに慌てなくたって、大丈夫ですよ……」
それは、真面に歩ける状態ではない星海燕の身体を、気遣っての言葉である。
「…………っ駄目だよ……早くッ……行かなきゃ……」
星海燕は一人で歩き出そうとする。
「⁉︎――星海さんっ!まだ無理ですよっ!」
織乃宮紫慧は彼を制そうと、支えていた手に力が入る。
視点の合わない瞳で朦朧としながらも、織乃宮紫慧に、現状と相反する言葉を返す。
「……っ大丈夫だよ。紫慧ちゃん…………有難う。…………後は1人でも大丈夫……」
そう言いながらも、平衡感覚を失ったかの様に、前屈みに倒れそうになる。
それを難無く素早く支える織乃宮紫慧ではあったが、その言葉に、織乃宮紫慧は自らの切実な想いを吐露する。
「何が『大丈夫』なものですかっ‼︎普通なら、良くて天文学的確率で廃人になるか、悪ければ存在自体が維持出来なくなる様なダメージなんですよ⁈ …………せめて、こんな時位は、紫慧の言う事を聞いて下さい……」
その瞳には涙が浮かんでいる。
「何で……星海さんが……何で、こんな目に遭わなきゃいけないんですかっ⁉︎星海さんの存在自体に負担を掛けてまで……。他者の情報を全て、その身に宿せば、脳への負担だけじゃ済まないんですよっ!下手すれば、自我の崩壊を引き起こしかねないんですよっ!それは、常人の自我崩壊とは訳が違うんですよっ!『星海さんが居るべき世界』が崩壊するんです……いえ、世界なんか崩壊したって、そんな事、どうでも良いんです。……星海さん自身が崩壊して、存在が壊れて、消えてしまうかもしれないんですよ……それは……只の死とは違うんですっ!」
織乃宮紫慧の瞳には、星海燕しか映っていない。
そんな織乃宮紫慧の熱い視線を受けながら、先程から時折、頭の中を掻き回されている様な感覚が、星海燕を襲う。その為に、嫌な汗と頭痛や眩暈や吐き気がして、手足も思う様に動かす事が困難になり、思考や感情さえも自分のコントロールが効かなくなっている。
それでも、星海燕は意識を保とうと必死であった。もし、此処で倒れれば、悲劇を止める者が居なくなるからだ。
横にはワイルドカードとも言える『全知の錬金術師』が居る。側に寄り添う少女は、この事態を収拾する事等、さもない事であろう。しかし、星海燕にしか興味を持てない彼女が、星海燕の望むべき結果を導き出してくれるとは考えにくい。――そう。今は何としてでも、立っていなければいけない。
とは言え、星海燕が認識出来る映像は、歪んだ幾つもの線や点、様々な形と色と大きさを持った何か等、視覚は正常ではない。その情報の為に、正気を保っていられそうも無くなる。身体を引き裂いて、その異常な不快感を取り去りたくなる。
そんな中、視点が合わなくなっていた瞳が、一瞬、織乃宮紫慧を捉える――目の前の少女の眼は真っ直ぐに彼を捉え、怒りと哀しみを含んだ瞳であった。
その途端、織乃宮紫慧の声と言葉という情報が、星海燕の中に、詰め込む様に入り込んで来る。
其れは、僅かではあるが、時間という概念を覆してしまう程の事象なのだが、彼にそれは分かる筈もなかった。
ただ、意識は其れに対しての反射行動の如く、星海燕は織乃宮紫慧へと言葉を返すべく、自然と思考し始める。先程迄の感覚が和らぎ始めた事に気が付かない程の自然さであった。
とは言え、彼の考えは変わらない――南條優奈という友人を、そして、蒼鬼姫を、この悲劇の運命から、早く救わなくてはいけない。
しかし、織乃宮紫慧は其れに対して、良くは思っていない様だ。その理由は、平然と自らの命を危険に晒す星海燕には想像も付かないのだろう。
だが、あれ程の感情を剥き出してくる全知全能の少女に対して、今になって、星海燕は言葉を詰まらせる。自らの考えを貫く事に一抹の迷いが過ぎったのだ。それは、自分を支えてくれている少女にとって、自らの身勝手さが如何に影響してしまうのかを、思い出したからである。己が無茶をして死ねば、きっとまた、この子は永遠にあの場所で独りになる……それはあってはならない事だ。
だからといって、眼前で繰り広げられている――自分が関わった者達を襲う、不幸な運命という間違いを、見て見ぬ振りは出来ないし、諦める事なんて出来ない。出来る訳もない。
その――近松門左衛門でさえも想像し得ない、運命という駄作な脚本のせいで、星海燕は苦悩しなければいけないのだ。
正しいと疑わなかった自らの考えと行動に、今になって、軽率過ぎだったと迷いが生じてくる。
自分がしようとしている事は間違っているのか?
どちらを優先して選択するのが正しいのであろうか?
一体、何をどうすれば良いのか?
早く、何とかしなくてはいけない。
自分が……。
考えるが、答え等出る筈もない。いや、出せないでいた。
誰かを助ける為に、誰か不幸にさせたり、誰かが命を落とす事を見逃すなんて、星海燕には出来なかった。
その僅かな間をおいて、ふと、或る考えが浮かび上がる。
“ ――っそうだ!俺は何を迷っていたんだ。あの能力を使うんだから、迷わなくたっていいんだ。……あの能力なら……きっと、いや、絶対……”
そして、星海燕は静かに口を開く。
その口調には、先程迄の状態等感じさせない力強さがあった。それは、迷いが晴れた心情が後押しをして、しっかりとした口調である。
「……俺はね。物凄い我儘なんだ……自分でも『駄々を捏ねる子供と何ら変わらない』って解っている…………でもさ、世界の摂理や運命だからといっても、今回の事は納得出来ないんだ……いや、きっと……ううん、絶対、これは、俺が足掻かなきゃいけないんだ。…………だって、俺は『脆弱な人間』なんだから。…………そして、だからこそ、上へ上へと目指して、我儘を貫いて、足掻かなきゃいけないんだよ」
暫くの間、涙を浮かべた瞳でそんな星海燕の顔を見た。そして、哀しみと悔しげな表情が入り混じった顔になる。
織乃宮紫慧の語気が荒くなっていく。
「……この『世界』なんてものは、星海さんが思っている程、優しくも良いものでもないんですよ。腐りきっているんですっ!そんな中に星海さんが居るだけでも、紫慧には我慢出来ないんですっ!そんな下らない世界の為に『能力』を使って…………星海さん、考え直して下さいっ!」
「……それでも俺は、こんな間違っている現実を変えたいんだ」
そんな星海燕を睨み付けている事に気が付き、自己嫌悪で織乃宮紫慧は唸る様に溜息を吐く。
諦めにも取れるその溜息の後、瞳に溢れそうになっている涙を拭い、嫌味とばかりに口を開く。
「…………何を『現実改変者』みたいな事、言っているんですか。あんなチーター如きなんかと一緒にならないで下さい。あれは、只の『ルールを守れない』だけの我儘なガキと一緒です。特別扱いされたいだけのクレーマーと同じなんですから」
『現実改変者』とは、文字通り現実を改変してしまう能力者の事である。
意識・無意識に関わらず、改変してしまう能力の為、『確保・収容・保護』を信念とする『財団』でさえも、この能力者達に対しては基本『終了処分』――つまりは、殺害対象とされている。
星海燕も、そんな能力者が居る事については、仕事柄、何度か耳にはしていた。
最初は、凄い能力だな位にしか思っていなかった。何しろ、願うだけ思うだけで、必ずその通りになる能力なのだから。
でも、それは当然恐ろしい能力だ。摂理や概念さえも捻じ曲げかねないからである。
とは言え、今、そんな力があれば……。
だからこそ、星海燕はその言葉を口にせずにはいられない。
「――でも、それさえあれば、優奈ちゃんや八尺様、そして、蒼鬼姫さんも理不尽な運命から救う事が出来るんでしょ?」
「……………………」
織乃宮紫慧の顔は、次第に、苦虫を噛み潰した様に、歪み始める。これは、わからず屋な愛する人に……そして、あの『能力』にまんまとしてやられた愚かな己に……。
“……こんなに腹が立つなんて――”
織乃宮紫慧が、こんなにも感情を揺さぶられる相手は星海燕だけであろう。
清衣や南條優奈・蒼鬼姫等に、嫉妬の怒りの炎を燃やすのも、星海燕を傷付けた八尺様に完全なる敵意を向けたのも、そして、そう仕向けた――運命と言えば良いのか――何らかの力に、怒りを覚えるのも、全て、星海燕が関わっているからである。
その、当の本人は、精神――もっと根本的な部分でズタボロ状態で、身体機能に迄影響が出ているというのに、僅かながらも笑顔を浮かべ、活路を見出したかの様に、晴れやかささえ漂わせている。
「――だぁかぁらァァ〜」
反論をしようとした織乃宮紫慧だったが、荒げた声は続いて出ては来なかった。
今回は負けた――そう、負けたのだ。『全知の錬金術師【アカシックパーフェクトレコーダー】』の織乃宮紫慧が……。
悔しさを噛み締める表現を何とか飲み込もうと、織乃宮紫慧は目を白黒させる。
その横では、星海燕が――苦笑にも似た――なんとも言えない顔をしている。どんな顔をしていいのかわからないのであろう。
――暫しの間――静寂の時。
業を煮やした織乃宮紫慧は、また大きな溜息を吐き、「ああっッ――もうっ!」と声を荒げると、正面にむかって、片手を使い、空を袈裟斬りにする。
すると、目の前に映る――廊下である筈の空間に、線の様なものが見え始めたのだ。なんと、空間を切り裂いたのである。
その切り裂かれた空間は異様な光景を見せる。裂かれた部分の空間は歪んでいる様に見えたかと思うと、一筋の線を隔てて、同じに見える空間が厚みを帯びて盛り上がってくる。
織乃宮紫慧はそれを蹴り上げたかと思うと、素早く、踵落としの要領で怒りに任せて、無理矢理にこじ開ける。
歪んだ空間を更に歪め、星海燕を支えながらも、先程より力任せに、織乃宮紫慧は歩を進める。
その中は、空間を凝縮した景色が広がっていた。
先程迄居た、屋敷内の廊下の記憶や、それに隣接した空間・世界線・次元、その他全てを圧縮した情報が、周囲に漂っている。それらは、人間にとって、目にしながらも認識出来ない。
だから、瞳に何を映しているのか、星海燕も理解が出来ていなかった。
そして、その影響で、尋常ではない平衡感覚を持ち合わせている星海燕でさえも、目眩を起こしてしまっていた。
そんな彼を見て、愛情故に、機嫌を僅かに直し、僅かな優しさで支えながら、織乃宮紫慧は、また片手を使って、空間を切り裂くと、手を翳す様に伸ばす。
その瞬間、周囲は突如として透明な捻れを発生させ、弾け飛んだ。
そして……そこは蒼鬼姫の屋敷門の外。
実は、蒼鬼姫は、星海燕と織乃宮紫慧の元を去る際に、或る術をかけていったのである。
それは『迷いの壁』と呼ばれる術。理由は当然、星海燕を、自らの闘いから遠ざける為である。
しかし、その意図を理解しつつ、不本意ながらも――織乃宮紫慧は最も簡単に、その術を破ってしまったのである。
空間を切り裂き、隙間を作り、その中へ入ると、出口となる場所を特定し、それをまた切り裂き、引き寄せる。
それは自らの特性である――星海燕の体に触れている間に随時自動錬成されている、自らの体を使ったのである。
その空間に漂う成分を、時間の概念を超え、幾重にも超速自動錬成している。そんな存在に触れる事が、どれ程危険であるか。不安定な体であるが故に、触れるだけでも、脅威にもなるのだ。
普段は、幕の様なものを張り続けていると考えてもらうと良いだろう。
それを部分的にでも剥がしてしまえは、それは恐ろしい兵器以上の効果を表す。
それさえも自在にコントロール出来て、存在自体だけでなく、意志を持って、探求し続け、解明し続けているが故、彼女は最強なのである。
だが、そんな織乃宮紫慧にとって、星海燕以外の存在は、只の情報であって、興味さえ無い。どうでも良い事なのである。
人間が絶滅しようが、世界が終末を迎えようが、地獄になったとしても構やしない。
しかし、そうならないのは……。
――星海燕が居る世界だから。
――彼がそれを望まないから。
ただ、そうならない様にしているだけなのだ。
そういう意味では、織乃宮紫慧にとって、星海燕は『枷』である。『枷』と表現すると、マイナスなイメージに成りがちではあるが、しかし、織乃宮紫慧にとって、星海燕は掛け替えの無い存在であり、そんな『枷』こそが必要なのである。
今迄、織乃宮紫慧が行なって来た『御技』は、あくまで星海燕に合わせたものであり、もっと効率的な方法等は山の様にある。
今回の様な、比較的無茶なやり方をする事は滅多に無い。
意識が朦朧とし、目眩を起こしている星海燕ではあったが、その周囲の変化に何となくは気付いた様である。
彼はその首を、苦しげにゆっくりと擡げる。
そして、星海燕の瞳に映ったものは、思いもかけない『現実』であった。
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