第9幕 怪しの世界の南條優奈

 南條優奈の目に、最初に映ったのは、夕闇越しの石段であった。


 八尺様へと変化した南條優奈は、きさらぎ駅にて織乃宮紫慧によって撃退され、逃走した後、此処へ来て元の姿に戻り、目を覚ます迄、この石段に凭れ掛かる様にして眠っていたのだ。


 とは言え、そんな事等露知らず、南條優奈は、ぼんやりとしながら立ち上がると、やがて、周囲を見渡す。

――見た事も無い風景であった。


「……此処は何処なんだろう?」

 この状況から当然の反応を示し、それに相応しい言葉を発した。


 次いで「……私、星海君とスマートフォンを観に行って……」と、記憶の整理をする。

“――そう。私、街の中を歩いて……色んな物を観て……そうだ!電車に乗っていて、疲れて寝ちゃったんだ!……でも、なんでこんな所にいるんだろう?星海君は?”


 周囲を、再度、見渡してみる。


 目の前には石段が上へと続いている。

 背後にも石段は続いていて、下へと向かっていた。

 左右には木々や草叢が覆っていて、半径周囲の3メートル先位を、先の見えない暗闇に変えていた。

 星海燕は勿論、誰一人の姿も無く、人の気配さえ無い。


 そんな状況に置かれている事を認識し、言い知れぬ不安感が鎌首を擡げる。

“……何で?――本当に、何で!?此処は何処!?”

 先の発した言葉を心の中で唱える。

 南條優奈は、パニックの入り口に足を踏み込んでいた。


――その時であった。何やら聞き慣れない音が、南條優奈の耳に入ってきたのは……。


“――えっ!?”

 音のする方を見遣ると、それは石段が上へと向かう闇の先からであった。


 音楽の様にリズムに乗せた――その音は、祭り囃子の、笛の音と和太鼓の音なのだが、それを聞いた事の無い南條優奈は、“?太鼓……それに、あと……縦笛の音に似ているかな?”としか、考えつかなかった。


 しかし、この不安に包まれた状況では、一筋の光としか考える事が出来なかった。

“――誰か居るんだ!”

 現状から脱したい一心で、その思いしか考えつかなかった。


「――あっ、あの、すいません。何方かいらっしゃいますか?」

 出来る限り大声で呼んでみるも、祭り囃子は遠くから聴こえている為、その声は届いていないようである。


 南條優奈は意を決して、祭り囃子が聴こえる方へ足を向け、石段を上り始める。

 石段を登る優奈のスニーカーの足音が、比較的、大きく聞こえる。

 それは周囲に、微かな祭り囃子のリズムと優奈の足音だけしか、音が存在していなかったという事なのだが、南條優奈に、それに気が付く心の余裕は無かった。

 早く、誰でも良いから、人に会いたい――その想いだけしか無かったのだ。


 暫く石段を上ると、切れ目らしき場所が見えてきた。

 如何やら頂上の様で、鳥居が見えていたので、神社であろうと推測出来た。


 然し、南條優奈にその考えは無く――誰か居るであろう場所に近づいている――という意識しか頭に浮かんでおらず、まるで、祭り囃子に誘われる様に、その足を速めた。

 鳥居に近づけば近づく程、暗闇に浮かぶそれに、足を竦めてもおかしくはないのだか、南條優奈の足は、尚も止まらない。

 何故なら、頂上から、明かりが見えていた為だ。

 近づけば近づく程に、明かりが広がっている。


 頂上の奥の様子が見える頃には、鳥居の先に社台があり、その間の境内の左右に並べて吊ってある幾つかの提灯が、その明かりの元だと判った。


 鳥居を潜り、境内に入ると、南條優奈は周囲を見渡した。

 吊ってある提灯が珍しかったのもあるが、誰か居ないかを確認したのである。


 其れ程広くはない境内で、それは直ぐに確認出来た――誰も居なかった。

 境内だけでなく、社台や、周囲の暗闇が広がっている木々と藪にも、目を凝らして見たが、誰も居なかった。


 その事実は期待からの落胆へと変わり、南條優奈の不安感が、また滲み出した。


 しかし、南條優奈はある事に気が付いた。

 先程から聞こえているリズムの元は此処では無い事に――。

 そして、それは社台の後ろから聞こえて来ている事に……。


 よく見ると、社台の後ろの奥に道の様なスペースがあり、木々と藪の陰で先が見えないが、その先からも明かりが溢れている。


 南條優奈は迷わずに走り出していた。


 運動が苦手な南條優奈であったが、新たな望みに託す様に息を切らせながらも、その奥へと向かった。


 社台の後ろの奥に着くと、案の定、小道があった。

 更に、その先にも広場があるようで、何やら小さな建物の様な物が幾つか見えた。

 そして、提灯が幾つも吊り下がって、連なっているのが見えた。


 それはお祭りの出店や屋台だったのだが、神社の祭りなど行った事の無い南條優奈は、それが何かは分からなかった。

 しかし、灯りの多さや、音元がその辺りだという事から、其処へ向かうべきだと思った。


 薄暗い小道を走り、広場へ辿り着いた南條優奈は、周囲を見渡す。


 しかし、人の姿を見る事は無かった。

 お祭りに集まった人々どころか、出店や屋台の店員さえ、居ない。

 賑やかな出店や屋台、提灯の灯りとは反して、人の居ない周囲は、不気味さを醸し出していた。


 落胆した南條優奈ではあったが、お囃子の音が、今だに、聞こえている事に気が付いた。


 その音色を頼りに、歩き出す。

 周囲には、お囃子の音以外には、南條優奈の地面を踏みしめる足音しか聞こえない。

 祭り囃子を頼りに、奥へと進むと、少し拓けた場所があり、櫓が建っている。

 その櫓の下に、人影が見えた。南條優奈に背を向けてしゃがみ込んでいる。


「あの……すいません」

 南條優奈は歩みを止め、声をかける。


 近づいて分かった事だが、しゃがみ込んでいる者の前に、何かがある。


「……あの、お聞きしたい事が……」


 しゃがみ込んでいた者が、ゆっくりと立ち上がって、振り返った。


「――っ⁉︎」

 南條優奈は息を飲んだ。


 何しろ、その者が、人間とは思えない容姿をしていた為である。

 目は恐ろしくギラギラして、口は大きく横に裂け、額には二本の角が生えている。口の周りは、赤く染まり、着ている服も裂けた箇所が数箇所有り、赤黒く染まっている。


 だが、それが血であると直ぐに理解出来る程、南條優奈の思考に余裕が無かった。

 南條優奈の脳には、この様な、恐ろしい怪物の知識が皆無であった。

『恐ろしい』という知識が乏しい為、目の前の惨劇と、目の前の恐ろしい怪物を、結び付ける事が、中々出来なかったのである。


 しかし、その者の手に、酷く損傷した、捥がれた片腕が、握られている事を視認した事で、南條優奈は、止まった思考を再稼動する。

“――えっ⁈えっ、え?な、何っ?……腕⁈……あれは、腕?……じゃあ、あれは、血⁈……血なの?”


 それにより、その者の背後に、無残にも転がっている人間だった者の残骸と、赤い血だまりに、視線が落ちる。

 それは最早、『物』と化していた。


 そして、その者の手にある、捥がれた腕が、無残なる残骸となった人間のものだと理解し、南條優奈は口を押さえた。


 その者――鬼化は、南條優奈に近づき始めた。


 その動きに、自然と後退りをする南條優奈。

 現状が、南條優奈自身に危険である事は、漠然と理解している様である。


「――っ!」

 覚束無い足取りで後退りをしていた為に、南條優奈は、つまづいて、尻餅を付いてしまった。

 転んだ痛みと衝撃で、息が止まりそうになる。

 声こそ上げなかったが、直ぐに鬼化の事を思い出し、顔を上げた。


「――っ!!」


 鬼化は、直ぐ其処迄、迫っていた。


 逃げようとするも、尻餅状態で、上手く逃げる事が出来ない――と言うより、恐怖で身体が動かない。

 其れ程、鬼化からは、鬼気迫るものが感じられ、南條優奈の体だけでは無く、心と思考迄、動かなくさせてしまっていたのだ。


 その事が分かっているかように、鬼化はニヤリと笑い、近づいてくる。

 元は、理性もあったであろう成人男性が、今となっては、鬼化として、同じ鬼化の素質のあった人間を喰らっている。その事実を自覚し、当人も嬉々として受け入れているのだ。

 それが、『鬼化』になるという事なのだ。


 鬼化は手を伸ばす。


 恐怖で震えて、動けない南條優奈は、恐ろしさで、目を閉じる事さえ出来なかった。

 それは死を覚悟した瞬間であった。

 それも只の死ではない。

 肉体を引き裂かれ、喰われると言う、無残な死。

 願わくば、その瞬間には、死して、痛みや恐怖から解放されている事を願うばかりだが、先の死体から考えるに、それは叶わぬ願いであるように思えた。


 鬼化は、ほぼ残骸と化した腕を捨て、新たな獲物を捕食しようと、手を伸ばしている。


 もう少しで、その手が南條優奈に届く――その時だった。


 何かが物凄い速さで、南條優奈の背後から頭上を通り過ぎた。

「しーるどあたっく!」


 その声に、南條優奈は聞き覚えがあった。


 それは、鬼化に突進する様に、南條優奈の前迄来ると、動きを止める。


 すると、南條優奈に向かって来ていた鬼化は、その歩みを妨げられただけでは無く、何か大きな物に弾かれた様に後方へ押され、身体のバランスを持ち直すが如くドスドスと後方へ退がると、南條優奈から離れた所でドシンと尻餅をついた。


 南條優奈は何が起きたか判らなかった。

 だが、その瞳に映っていたのは――鬼化と自分の間に現れた、宙に浮かぶ、小さな英雄であった。

「――!?」


 銀色の鎧に身を包んだイェンであった。

 西洋甲冑に似た造りの鎧で、イェンの両手には、身体に合った大剣と盾を持っている。

 正にナイトといった姿である。


 そんなイェンの名前を呼ぼうと南條優奈は声を出そうとするが、あまりの歓喜で声にならない。

「――あっ……うぐっ」と、やっと出た声も言葉にならなかった。

 南條優奈の目には涙が溢れていた。

 不安と恐怖の後の、イェンとの再会は、南條優奈にとって、あまりの歓喜と安堵だったに違いない。


 そんな南條優奈の姿に、背中越しに振り向いたイェンは「こりすがりじゃあ?」と、言葉になっていない南條優奈の言葉に対して、返事を返した。

 それは「大丈夫?怪我は無い?」と言っている様に南條優奈には思えた。


「――う、うっ、うん。怪我は……してないよ。……でも……どうして?イェン君が……こんな所に……?」

 やっと、歓喜の熱が少し治まり、言葉を声に出せる位の精神状態になった南條優奈は、溢れてしまった涙を拭いながら、小さなナイトに尋ねた。

 拭いながらも、まだ、少し、涙が溢れてしまうのは、安堵の所為であろう。


「こりすがりじゃあっ!」

 今度は「詳しい事は後で話すね。今、アイツをやっつけるからね」と言っている様に、南條優奈には思えた。


「で、でも、まるで、怪物みたいなあの人に――」と呟いた南條優奈は、鬼化を見た。


 尻餅をついたまま、唸りながら此方を睨んでいる。


 つい、恐ろしくなって、視線を外して俯いた。

 先程の、無残な人間の末路を思い出し、その恐怖を顔に出す。

 震えが再度訪れる。


 そんな南條優奈の様子に、「こりすがりじゃあっ‼︎」と、イェンが声を掛ける。

 見ると、南條優奈に身体を向けたイェンが、手に持った大剣と盾を上げて胸を張っている。

「大丈夫!僕はナイトだからね!」と言っている様に、南條優奈は思った。


“イェン君、怖がっている私を安心させようとしてくれている……”

 そんなイェンの可愛らしくも凛々しい姿に、南條優奈の心を支配していた恐怖心が、次第に弱まっていく気がした。

“あんなに小さいイェン君が頑張っているのに……それなのに、私が怖がっていちゃ駄目だ!”

 その顔には恐怖というものは無く、決意の表情へと変わり、鬼化を見た。


 鬼化はいつの間にか立ち上がって、唸りながら此方の様子を伺っている。


――不意に、鬼化が動いた。

 背中を見せている小さな脅威の、隙を突こうとしたのだ。


 少し遅れて、それに気が付いた南條優奈の表情は、驚きと恐怖に変わる。


 鬼化は、イェンとその奥で声を上げようとしている南條優奈に襲い掛かるために、走り出そうとした。

――しかし、それは失敗に終わる。


「――すらっしゅ!」

 鬼化が動いたと同時に、イェンは身を翻して身構えると、片手の大剣を素早く振り下ろした。


 すると、鬼化は、見えない何が脳天に振り下ろされた様に、挙動を遮られ、バタンと前のめりに倒れ込んだ。


 その目の前の出来事に、南條優奈は、叫ぼうとした口をパクパクとさせる。

 何が起きたか判らなかったからだ。

 イェンが現れた時も、鬼化は、まるで見えない力によって、突き飛ばされた。

 先程はあまりの嬉しさに、その事について考えもしなかったが、改めてその不思議な力を目の当たりにすると、理解に苦しむのであろう。


 実は、先程の不思議な出来事は、2回共、イェンが存在していたインターネットゲームの中の世界での、ナイトという職業の攻撃の基本技である。

 イェンはそのゲーム世界での技を、他の世界においても使う事が出来る。

 星海燕を守護する式神として生まれたイェンに、体格差がある外敵にも対処出来る様にと、織乃宮紫慧が与えた能力である。


 ゲーム内でのパーティというチームプレイにおいて、ナイトというのは、敵キャラクターの目を自分に向けさせ、装甲の厚い鎧と盾と屈強な身体で、その攻撃を仲間のキャラクターの代わりに受け、その間に攻撃系の仲間のキャラクターが攻撃をし、敵キャラクターを倒すというのが鉄則である。

 しかし、攻撃も出来るのである。

 攻撃系の職業よりはダメージが少ないが、攻撃する事により、敵キャラクターの注目『ターゲット』を集めたりする事もある。

 言わば、パーティ内の盾となって、皆を守る職業なのである。

 その基本職業スキルが、イェンが叫びながら行なった『シールドアタック』や『スラッシュ』である。


 そんな高スペック式神は、さも当たり前の如く、尚且つ、何処か誇らしげにドヤ顔をしながら「こりすがりじゃあぁ〜?」と、南條優奈の方に向き直った。

 南條優奈は、「ほらね?大丈夫でしょ?」と言われた気がして、鬼化を倒したのが、イェンだと理解した。

 少し間を空けて「……凄い――凄いよ!イェン君!」と、目の前の小さな勇者を讃えて、手を叩く。


 南條優奈の称賛の声に少し照れながらも「こりすがりじゃあぁ〜」と満更でもない顔をするイェン。

 如何やら「其れ程でもないよ」と謙遜をしている様子。


「ううん。本当に凄い。本当にナイトさんだよ」

 まるで、物語の中の伝説の勇者を目の当たりにしたかの様に、目を輝かせる南條優奈。


 そんな時間が僅かに過ぎた頃――不意に、イェンの頭の上にチョコンと顔を覗かせている耳が、ピクピクと動いた。

「――こりすがりじゃあっ⁈」

 イェンは直ぐに警戒態勢をとった。


 突然のただならない様子に、南條優奈も、少し遅れてつられる様に身構えながら、イェンの視線の先を追った。


 イェンの視線の先は、鬼化が倒れているよりも先――祭矢倉の後ろの、木々と茂みの暗闇であった。

 提灯が連なって吊るされ、周囲を照らしているとはいえ、距離も離れている為、暗闇の先の様子は全く判らなかったが、ドスンドスンという地響きと、ガサガサという茂みの中を移動する際の音が、次第に大きくなって来ている。

 何か大きなものが徐々に近づいている。


 南條優奈には正確な音の位置は判らなかったが、イェンはそれを把握している様で、一点を見つめ、時折、犬歯を剥き出して威嚇をしている。


 南條優奈は一抹の不安が過ったが、まさか、得体の知れない新たな脅威によって、新たな惨劇が生まれるとは、この時は想像もしていなかったのである。

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