第11話 知らない人

 家に帰ると、私に背を向けて座っている人がいる。その人は「お帰り」と言う。

 その人はずっと昔からいるような気がする。はっきり顔を見たことはない。その声は僕の頭の中には伝わっているが、音として存在するのかは分からない。

 僕は「ただいま」と言う。

 畳の匂いがする。

 「今日は色々あってさ」と僕は言う。

 「何もない日などないだろう」その人は言う。

 「そりゃそうだけど」僕は口をつぐむ。

 知っている人だと思う。

 死んだ祖父という雰囲気。だけど、祖父は五歳のときに死んでいる。僕が覚えているのは、薄暗い茶の間の敷居のところに立っている祖父のシルエットだけだ。声は、はっきり覚えていない。

 「人間なんてどれもそんなに違わないもんだ」その人が言う。

 「そうかな?」僕は言う。

 「まあ、どうでもいい。みんな自分は他人とは違うと思っている。だが、そう思いたいだけのことだ」

 僕は考えてみる。大体、自分は何をしてきたのだろう。何がしたいのだろう。だけど、毎日生きていることは苦痛ではない。よく夢をもて、とか言われるけど、夢など持ったことはない。そもそも、やりたいと思うことがない。「夢をもちましょう」「夢は実現します」妄想に僕を巻き込まないでね。毎日生きているだけで、へとへとなんだから。それじゃいけないの?くだらない、下品な欲望を夢なんて言わないでね。

 「俺は生きて」その人が言う。「死ぬ時が来たから死んだ」

 「あなたは死んでるの?」

 「お前はどうなんだ」その人が言う。

 「僕は生きてる」

 「本当か」笑いを含んだ声だ。

 生きている。心臓は動いている。呼吸もしている。生きている。それだけでいいじゃないか。生きるも死ぬも、心臓が動いているか、呼吸をしているかだけの違いだ。

 「あなたは死んでどうだったの」

 その人は静かに含み笑いをしているようだった。しばらくして言った。

 「よくわからないよ」

その人の背中がぼんやりとしてきた気がする。

 「死んだからといって、別にいいこともない。生きているときと変わらないよ。死ぬまで待っていりゃいいさ」

 その人は立ち上がった。体全体がぼんやりして、輪郭がふわふわしている。

 その人はこちらを向いて僕の横を通って玄関から出ていった。ドアが閉まる音が小さくした。

 その人の横顔は僕に似ているような気がした。

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