エピローグ3 ノア、アリス

 ノア・カーティス・カムロギはモニターに映る調印式の様子を虚ろな目で眺めていた。逮捕された男は、高速潜水艇キリシマによって、シゼルカンドへと護送されている最中だった。今は海の中。すでに「大佐」の任は解かれ、男はただのカムロギである。


 これまでやってきたことは何だったのか。これまで積み重ねてきた業績は何だったのか。得てきた地位は何のためだったのか。そんな思いが去来する。もはや怒りは忘れた。ただ、虚しさばかりが心を支配する。


 モニターの向こうでは、自分の操り人形に過ぎなかったはずのカルガモの姫が、陸側ランド海側ダスマーの関係を歴史的な意味で大きく変えようとしていた。ノアの望んでいたものとは、全く逆の方向へ。


 原動力は怒りだった。妹を見限った陸側への怒りだった。そして、自分たちを「半魚人」だと言ってあざ笑った陸側の心ない人間たちへの怒りだった。

 妹を奪っていった、陸側の人間たち。それならこちらが全てを奪ってやると、それなら全てを海側の支配下に置いてやると、そういう風に思ってしまったのは、ノアという男の根源的で自然な欲動だったのかもしれない。

 でも、それも全て、大佐という地位にあったから出来ることなのだ。その地位を奪われ、収監されることがおおよそ決定した今となっては、その可能性も現実感の無い野心として、蒸発していくように思えた。霧散する怨念と、消え去った野心の跡には、ポッカリと空洞だけが存在していた。

 ――死ねば妹のところへ行けるのだろうか。

 そんな弱気な言葉を心の中でつぶやきながら、冷たい金属の壁に、ノアはもたれかかっていた。


「――元気ないですね?」

 その時、少女の声が聞こえた。ノアはゆっくりと顔を上げる。

 目の前に立っていたのはまだ幼さを残した少女だった。

 どこか見覚えのある少女。


「君は……誰だい?」

 そう口にしながら、ノアはその少女がではないことに気づき始めていた。白い肌は少し透過しており、その向こう側が見える。それは黄金の髪を背中まで伸ばした、可憐な少女――の三次元ホログラムだった。


「自己紹介が遅れました。私は、この高速潜水艇キリシマの巡航支援システムのインタフェースAI――アリスです」

 そう言って少女は小さく首を傾げた。優しく目を細めながら。


 ――お兄ちゃん、くるしいよ……

 ――もう少しだ! がんばれ! 今、お医者さんのところにつくからな!


 昔の記憶が脳内を駆け巡る。少女の瞳に引き金を引かれたように。


 ――こわいよ。

 ――大丈夫だ! きっと、お兄ちゃんが助けてやるからな!

 ――ノアおにいちゃん。

 ――アリス! ……アリス!!


 白い肌、そして、金色の髪が美しかった妹――アリス・カーティス・カムロギ。

 その姿に、彼女の姿は瓜二つだった。


「――アリス……アリスなのか?」

 ノアは呆然と見上げる。床に座り、壁に背を預けたまま。


 アリスは宙に浮かび、口許に笑みを浮かべたまま、一つ頷いた。


「――そうだよ。ノアお兄ちゃん」


 驚き、言葉を失うノア。しばらくの沈黙の後、やがて、宙に浮かぶ彼女は語りはじめた。これまで大沢直人にも話してこなかった、昔話を。

 

 アリス・カーティス・カムロギには海側ダスマーに住むものとしての人体改造の適正が無かった。

 施術と投薬を繰り返しても肉体は安定せず、免疫系も代謝系も崩壊へと向かった。

 そんな中、収容されたエヴァナブルグ中央研究所で、彼女は密かに二択を迫られた。そのまま海側ダスマーへ帰り、死を選ぶか、極秘に進行しているAI化のプロジェクトの被験体となり、AIアリスとして生まれ変わるかである。AIアリスとして生まれ変わる場合も、その機密性故に家族には死亡として通知される。しかし、将来的に万が一、偶然に家族と出会うことがあれば、自らの正体を明かすことに関しては、規制はされないというのだ。

 それならばと、アリスは選んだ。AIとして生きる可能性に賭けたのだ。


 話を聞き終えたノア・カーティス・カムロギは喉元にこみ上げてくる嗚咽と笑いを止めることが出来なかった。それはなんとも不思議な気分だった。


「じゃあ、アリスは……生きていたのか?」

「うん。そう。まぁ、人間としては死んでいる――ってことだと思うんだけどね〜」

 そう言って冗談っぽく笑うと、アリスはノアの隣に腰掛けた。3Dホログラムとして少しだけ浮かびながら。


「そうか、そうだったのか……。今、お前は、陸側ランドで、幸せにやっているのか?」

「うん、やってるよ。今の、マスターの大沢直人っていうのがね、まぁ、結構カッコいいんだけど、適当なところもあって、かなり自由にさせてもらえるしね」

「それは良かった。……しかし、すまないな、それとは知らずにキリシマを攻撃してしまった」

「いいよ、いいよ。それが仕事だったんだし、仕方ないよ」

 そう言って、アリスはパタパタと右手を振ってみせた。

 

 モニターの映像は調印式が終わったことを知らせており、徐々に、フィナーレとなるスイレン姫のスピーチへと準備が進んでいた。


「エヴァナブルクの強襲も……お前に見られてしまっていたんだな。たくさん殺してしまった。敵も味方も……カルガモもクロガモも」

「いいよ、いいよ。それ、私のためにやってくれたんでしょ? 私のことを陸側ランドに殺されたと思っていたんでしょ?」

 ノアは無言で頷く。

「――だったら、私、お兄ちゃんのこと怒れないよ……」

 そう言って、アリスは膝を抱えたまま、柔らかく笑った。


「でもね。お兄ちゃん。私は戦争より平和が好きだよ。今回は、お兄ちゃんが見事に失敗したお陰で、この平和条約が結ばれるんだからさ。……それで良いのかもしれない。それもこれもひっくるめてさ、……お兄ちゃんは頑張ったんだと思うよ」

 アリスはそう言うと、ノアの横顔を覗き込んだ。

 大佐として、シゼルカンドで圧倒的な権勢を誇った男は、その背中を金属の壁に委ねながら、ただ、隣の少女の顔を直視することも出来ず、モニターを眺めていた。

 そして、――泣いていた。


「……アリス……ごめんな。あの時、お前を助けてやれなくて」

「……ノアお兄ちゃん……ごめんね。いっぱい心配かけて。勝手にいなくなって」


 高速潜水艇キリシマは二人を乗せて、シゼルカンドへ向かう。


 やがて、調印式は、そのフィナーレ、スイレン姫によるスピーチを迎えた。


 


  

  

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