エピローグ2 スミ、アジュガ

「……もうちょっと、リラックスされた方ほうが良いのでは?」


 耳元でアジュガにそう言われても、首をカクカクと動かすことしか出来ない程度に、スミは緊張していた。自分の目の前で起きていることの歴史的意義を考えれば、それも致し方ないことのように思えるのだ。

 ――陸側ランド海側ダスマーの和平条約の調印式。

 それは人間同士の二勢力間の協定ではあったが、それでも、クロガモ一族とカルガモ一族の間にそれが与える影響は計り知れない。それは、戦うことを辞め、平和を選択するという意思なのだ。


 さらに、調印式で机を挟んでエヴァナブルグの代表と向き合うのが、海側の人間ではなくて、カルガモ族のスイレン姫であるということが、とても意義深いことのようにも思えた。

 彼女とはこの動乱を通して親しくなり、この一週間、様々なことを話すことが出来た。カルガモ族の願う平和。それは、スミが願い続けたことと、とても良く似ていた。手に持つものは剣ではなくてよい。盾でよいのだ。


「アジュガさん……『強さ』ってなんでしょうね?」

 ポツリと呟く。アジュガは振り返って、その若者の顔を見る。

「なんですか、突然。調印式の最中ですから、私語は控えめにされた方が良いですよ」

「そうですね。ごめんなさい」

 スミはそう言って肩を竦めた。

 目の前では、白いヴェールを纏ったスイレン姫が静かに条約の記された書類を確認している。そんな彼女は、スミと年齢もそう遠くない。それでも、彼女は、一週間前、毅然と両軍に向かい言葉を放ち、争いを終息させた。その時のことを、スミは印象深く覚えていた。


「それは『闘いに勝つこと』かもしれませんね」

 ポツリと呟いたアジュガ。その言葉だけを取れば、クロガモ族で言われ続けたものと何一つ変わらない言葉だった。全く違う言葉を期待していたスミは面食らう。

「――だから、スミさまは『強い』のだと思いますよ」

 続いた言葉に、改めて驚いた。

「でも、僕は闘ってなんて居ないよ? ただ、夢中で逃げただけさ。そして、みんなに助けられた」

「それが『強さ』なんですよ。スミさま。貴方は誰かを傷つけるということに抵抗された。そして、部族を追われた。そこまでして貴方は自分の大切なものを守るために『闘った』のです。『闘う』というのは、誰かを傷つけることじゃありません。自分の信念を曲げず、自分の目指すもののために生き続ける。それが、『闘う』ということなのですよ」

 ――それが『闘う』ということ。そうやって、スミを諭すアジュガの視線は、既にスミの方を向いてはおらず、ただ、まっすぐに白いヴェールを纏った姫のことを見つめていた。平和のために闘う、一人の女性の姿を。

 その視線の先を、スミも追う。


 スイレン姫は平和を信じ、平和のために闘った。今回の動乱に潜む陰謀にどこかで気づきつつも、逃げずに、一縷の望みをかけて和平交渉に特使として臨んだのだ。

 実際に、それは、ノア・カーティス・カムロギ大佐の陰謀であったことが明らかになった。しかし、ノアの企みが打ち砕かれたことで、彼がダミーとして企てた和平交渉は、その結果、一転して現実のものとなったのだ。

 今回の事件で負い目を持ってしまったシゼルカンド側も、戦争の端緒を見せられて不安に駆られる人々を抱えるエヴァナブルク側も、和平条約の方向性を平和主義的な方向へと導こうとするスイレン姫の方針に従わざるを得ない状況になっていた。

 ただの戦闘の停止を表す和平条約のみならず、お互いの交易を定めた通商条約や、学術交流を約束する覚え書きまで、今回の調印式のテーブルには載せられることになった。

 これはノアの陰謀が打ち砕かれたことによる副産物。でも、それは、たしかに勇気をもったカルガモの姫が『闘い』勝ち取った平和だった。


「スイレン姫も、頑張られました。どれだけこの日を夢見ておられたか……」

 アジュガの声が震え、眦から涙が溢れる。

「そうなんだね。……凄いよ。スイレン姫は」

「でも、スミさまが共に闘ってくださったからこそ、辛うじて手に入れた勝利でもあるのですよ」

「ありがとう。そう言ってもらえると……嬉しいよ」


 調印式は進み、スイレン姫がペンを手に取る。やがて調印はなされる。


「――スミさま。これからです。これからですよ。クロガモ族は父君――族長のダイヤを亡くし、進むべき道を見失っています。一度は、追放された身とは言え、今のスミさまには大義があります。クロガモ族を導いてください。スイレン姫と同じ平和を願う貴方が、クロガモ族を率いてくださるのなら……姫にとって、これほど心強い仲間はおられませんでしょう」


 厳粛なる調印式の空気の中、スミは無言で頷いた。

 そういうことならば、強くなろう。自分は、誰をも傷つけないために、強くなろうと。


 教会のステンドグラスから柔らかな日差しが差し込み、万感の思いが込められた拍手がその石壁で囲まれた空間に響き渡った。


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