第四十五幕 立ち向かう者達(10)

 バスタは黒い血を全身に浴びながらも、バイコーンの胸の奥深くへと刃車鋸を押し込んでいく。

 その振動は強烈で、獣は反撃もできずに喉から血を吐き出し続け、くぐもった悲鳴をあげる。


「アガッ……ガガッ……ガッ」


 刃車鋸がバイコーンの肉を斬り裂き続ける間、バスタには一切の余裕はなかった。

 激しく振動する刃車鋸の持ち手は、その重量を支えるバスタの体を――特に両腕を――徹底的に痛めつけていた。

 一瞬でも力を緩めれば、安定した角度でバイコーンの硬い皮膚を斬り刻むことなどできず、下手をすれば自分の体が吹っ飛ばされてしまうだろう。

 実のところ、刃車鋸は諸刃の剣だった。


「ぐっ、回転が……止まる」


 連結刃の回転が緩やかになってくると、獣の体内で刃が引っかかって止まった。

 肉や骨に引っかかる金属板を無理やり引きずり出すと、バスタは尻もちをつきそうな姿勢で踏ん張りながら、千鳥足で獣から距離を取った。

 深く広い穴を胸へと穿たれたバイコーンは、ビクビクと身もだえている。

 さらに、首に巻き付いたロープを引っ張られて、獣はあっさりと横倒しになった。

 それを好機と見るや、クロエ達が獣へと一斉に襲い掛かる。


「はぁっ、はぁっ……!」


 バスタが刃車鋸を見ると、心なしか金属板が膨張し、その隙間から白い湯気が立っていた。

 震える手で金属板に触れると、指先を火傷するほどの熱がこもっている。

 クールダウンに擁した時間は二十秒程度だったとは言え、たった二度の回転でこの状態では、なるほど長くはもたないな、とバスタは思った。

 次の回転までに必要な時間は三十秒……それだけの間を置かなければならない。

 果たしてそれまで時間を稼げるか……?


「せめて二十秒、踏ん張ってくれ!」


 不本意ながら、バスタは刃車鋸を抱えてさらにバイコーンから遠ざかる。

 ロープの結界の外へと出たところで、バスタは一息ついた。


「……ダメだ、バスタ逃げろ!」


 クロエの声が聞こえて、バスタは顔を上げた。

 バイコーンは攻撃を仕掛けるクロエ達には一切構わず、バスタへと直進してくる。


「馬鹿野郎、ロープの結界の外には出れねぇぞ!」


 サルカスの言葉通り、建造物に結び付けられた複数のロープは、限界まで張った時にバイコーンの足を引き留めた。


「グウウアアアアオオッ!!」


 バイコーンは奇声を発し、全身の筋肉を震わせた。

 すると、首や胸、背や腹、足に至る各部の筋肉が隆起し始めた。

 隆起した筋肉によって、首と胸に大きく開いていた傷口は締め付けられ、閉じていってしまう。

 傷の再生ではなく、筋肉の隆起によって、無理やり傷口を塞いだのだ。

 それだけではない。

 前足も、後ろ足も、腰も首も、さらに一回り大きくなったバイコーンは、建物の柱やモニュメントの台座を引っ張る膂力も遥かに増していた。


「ま、まさか……」


 ロープを結んでいた建物がグラグラと揺れ始め、柱に亀裂が生じていくのを見て、クロエは肝を冷やした。


「バスタ、そいつからもっと離れろっ!!」


 クロエの忠告はすでに遅かった。

 バイコーンは筋力を爆発させ、繋ぎ止められていた建物の柱を砕き、モニュメントの台座を引き抜いて、ロープの結界の外側へと飛び出した。

 ロープで引っ張られる柱や台座は、広場の内側にいた冒険家や憲兵達を轢き込みながら、さらにバイコーンの後を追いかけるようにして引きずられていく。

 今のバイコーンには、もはやディンプナの怪力も及ばず、首に巻き付けられたロープの輪は獣の力に耐えきれず引き千切れてしまった。

 鋼鉄製のロープが、である。


「何が何でも俺を殺る気かよっ!」


 バスタはやむを得ず、刃車鋸の自爆も覚悟で再回転をかけようとした。

 が、バスタへ向かって走るバイコーンの側面を、大砲の砲弾が撃ち抜き、すんでのところで獣は横転した。


「ガハッ」


 砲弾を食らった腹部は激しく損傷していたが、そのダメージはすぐに回復していき、前足を支えに立ち上がろうとする。

 ディンプナによって切断された前足も、すでにほとんど元通りになっていた。

 が、その足へとさらにもう一発、砲弾が炸裂した。

 前足は付け根部分から粉々に吹っ飛び、立ち上がるための支えを失った獣は滑るように顔を地面に打ちつけた。


「バスタ! もう大砲三両ともに砲弾が一発ずつしかない!

 とどめを刺すには、もはや貴様が活路を開くしかないぞっ!!」


 疲弊するバスタへと、ゴットフリートの檄が飛ぶ。


「わかってるよ!

 俺の心配はしなくていい!!」


 前足が片方無くなったことで、次の再回転までの時間が稼げる。

 そう思っていたバスタの顔が青くなるのは、彼がバイコーンへと視線を戻した時だった。

 なんと、吹き飛んだ足の傷口から白い骨だけを集中的に再生させていたのだ。

 今までは、骨のすぐ後に肉が追いすがるようにして同時に再生していたが、どうやら意識的に治癒ポイントを絞ることで、再生速度が増すらしい。


「つくづく反則な化け物だ……」


 その再生力に辟易するバスタだったが、なんとか時間を稼ぐしかない。

 しかし、これ以上バイコーンから離れようにも、数メートル先にはグランドレイクの断崖が広がっている。

 バスタが追い詰められるのも時間の問題だった。


「グウウアアアァッ!!」


 バイコーンは痛みを感じることも忘れたのか、骨が剥き出しのまま片足を地面へと突き立てて、立ち上がった。

 断崖ギリギリまで後退したバスタには、もう逃げ場がない。

 逃げる術を完全に失ったバスタへと向かって、獣が走り出す――

 その時、獣の視界は唐突に封じられた。


「このバケモンがっ!

 てめぇをバスタ君のところへは行かせねぇ!!」


 サルカスが獣の背中を踏み台にして、後頭部へとしがみついたのだ。

 しかも、彼は上着を脱ぎ、それでバイコーンの顔を直接覆い隠している。

 目を潰したわけではないため、再生など関係ない……実はサルカスが破れかぶれに決断したこの行為は実に効果的だった。


「グウウッ!!」


 頭にしがみついているサルカスを振り落とそうと、バイコーンは首を激しく振り回した。

 しかし、サルカスは両腕で後頭部を、両足で首をしっかりとホールドしており、何が何でも引きはがされない構えだった。

 首の捻りだけでは足りないと察したバイコーンは、前方へと方向を変えていた二本角を再び回転させ、サルカスを切り裂こうと試みた。

 が、その腕先にギリギリ触れられないところで、二本角の回転が空を斬る。

 尻から伸びる尻尾も、サルカスの小柄な体躯が幸いして届かない。

 近くに首を叩きつけられるような高い建物もなく、後ろから応援に近づいてきているクロエ達を警戒して地面を転がるような真似もできない。


「へへっ……お前、焦ってるな!」


 サルカスはバイコーンの動きから、その心中を察した。

 今、この瞬間がチェックメイトの瀬戸際なのだ。


「ウグアアアアアッ!!」


 さらには激しく屈とうを繰り返すも、サルカスは振り落とされない。

 激しい振動が伝わり、サルカスも全身の骨が軋む思いだった。


「死んでも離すかよ! 親友(ダチ)の命がかかってるんだ!!」

「グギイイイイイッ!!」

「ずーっと一匹で、殺しの味だけ覚えてきたバケモンには、わからねぇよなぁっ!?」

「グガアアアアァーーッ!!!!」

「人間の命を……絆を……舐めるなよっ!!」


 バイコーンの抵抗に耐え抜いてきたサルカスだったが、その振動のせいで満足に呼吸もできなかった彼は、ついに白目を剥いて振り落とされてしまう。


「ガアアアッ」


 上着を振り払って視界を取り戻したバイコーンは、正面に宙を舞うサルカスの姿を見た。

 怒りがこみ上げて抑えきれない獣は、危険視するバスタよりも、より近くにいるサルカスへと殺意を向けた。


 この瞬間、バイコーンは判断を誤った――


 自分にとって本当に危険な存在をバイコーンは認識していたはずなのに、苛立ちと憎しみから、目先の人間へと殺意の矛先を向けてしまった。

 人間以上の知恵を持つバイコーンは、人間への限りない憎悪を抑えることができず、殺意の歯止めが効かなかった。

 獣が数十年に一度、大きな失敗をする時は、いつもこの感情に振り回された結果だった。

 だが、それは人間には関係のないことである。


「サルカスは、殺させないっ!」


 クロエは空中から落ちてくるサルカスを抱き止めると同時に、手に持っていたハルバードを投擲した。

 もっとも使い慣れた斧部の刃はすでに砕けてしまっているが、先端の鋭利な刃はまだ生きている。

 最終最後に、クロエは長年愛用した得物を投げ槍として手放し、仲間を生かすことを優先したのだ。

 その想いが乗ったハルバードは、バイコーンの片目を深々と貫き、獣の首を空へと仰がせた。


「うあああーーーっ!!」


 続いて、クロエの後方からディンプナが叫ぶ。

 手にした大鋏を振りかぶり、サルカスを受け止めたクロエが地面へと背中を打ち付けたのと同時に、全霊を込めてそれを空へと投げ放った。

 ドヴァン、という分厚い肉に刃物を突き刺すような音と共に、大鋏はバイコーンの口の中へと飛び込み、喉から後頭部にかけて貫通するほどの威力を発揮した。

 脳漿が飛び散り、バイコーンの視界が、思考と共におぼろげになる。


「ブガハアッ!?」


 一時的に脳の機能が停止しても、殺意だけは意識上に残っていた。

 しかし、それを誰に向けるべきなのかは見失っていた。

 そこへまた、ギュウウウウウン、という耳をつんざくような鋭い音が鳴り響く。

 その瞬間、バイコーンの心中にもたらされた感情は、憎悪でも殺意でもなく、恐怖だった。


「これで、最後だ!」


 バスタが刃車鋸の連結刃を再々回転させ、よろめくバイコーンへと接近する。

 彼の両腕も刃車鋸の振動にこれ以上は耐えきれない。

 その一撃が、すべての結果を左右する――


「だりゃああああーーーっ!!」


 筋肉の隆起で無理やり傷を塞いでいた胸へと、回転する連結刃をピンポイントで押し当てる。

 黒い血が吹き荒ぶ中、バスタは肉や骨が軋む痛みも無視して、全身全霊の最後の力と自らの全体重を乗せて、刃車鋸を振り抜いた。


 バギィィンッ!!―—


 肉に沈み込んだ刃車鋸の金属板がバイコーンの体外へと振り抜かれた瞬間、金属板の周囲を回転していた連結刃が引き千切れ、内側の歯車を始めとした機械仕掛けの装置が爆発するように飛散した。


「ありがとうよ」


 バラバラに砕け散っていく刃車鋸へと謝辞を述べると、バスタは地面を転がって、胸を爆裂させたバイコーンから距離を取った。


「センカ撃てっ!!」

「承知!」


 センカはバスタの合図を待っていたかのように、バイコーンの開かれた傷の正面へと身を屈ませていた。

 そして、残された二本のガラスクナイを、その傷口へと的確に撃ち込んだ。


「心臓を止めれば、血流も止まる!

 血のめぐる生物ならば、せめてそこは自然に従え!!」


 バイコーンはすでに傷口の再生を始めていた。

 その再生活動によって、心臓近くの体内へと押し入ったガラスクナイを残したまま、断裂した細胞を再生させていく。

 結果として、バイコーンは心臓のすぐそばでガラスクナイを二本とも破砕し、黄緑色の猛毒を肉体の中枢で呑み込むこととなった。


「アッ……アグッ……ゴッ」


 バイコーンは立ったまま全身を痙攣させ、傷口の再生がピタリと止んだ。

 全身の裂傷から黒い煙が立ち上り、黒かった胴体が少しずつ、石膏のような灰色へと薄まっていく。


「ゴファッ」


 バイコーンは大きく吐血すると、前足を折り、次いで後ろ足も折った。

 隆起していた筋肉が元通りに縮み始め、塞がれていた首の傷口から爆発するような勢いで血が噴き出した。


「毒が……効いた!」


 ひざまずくような姿勢で頭を垂れると、バイコーンは口から、そして各所の傷口から、グズグズになった黒い肉片を溢れんばかりに排出し始めた。

 毒を吐き出しているのではなく、体内の細胞が、臓器が、毒によって腐食し、炭となって崩れ落ちているのだ。

 しかし、バイコ―ンは止まらない。

 もはや動く体力気力が底を尽いたバスタへと向かって、膝を折ったまま地面を這うように近づいていく。


「そんなに人間が憎いかよ。

 お前もう、いいかげん楽になりな……」


 バイコーンと視線を交差させたバスタは、深呼吸をすると、絶叫した。


「とどめをブチ込めぇーーっ!!」


 三両の大砲がわずかな時間を置いて、三連射された。

 最初の憲兵の放った砲弾がバイコーンの胸の傷口へと突っ込み、これ以上ないほどに裂傷を広げた。

 二人目の憲兵の放った砲弾が同じ箇所へと命中し、体内に入った砲弾をさらに奥へと押し込んだ。

 最後にゴットフリートの放った砲弾が二度目の玉突きを起こし、最初の砲弾がバラバラに砕けながらも、胸部から背部を貫通させて体外へと飛び出ていく。


「……カッ……ガッハッ」


 体内を砲弾が貫通した直後、胸部や背部には大きな亀裂が走り、それは首や腹へも広がっていった。

 そして、体色がもとのユニコーンの色合いに近い白さへと戻った瞬間、胴体部が爆発し、バイコーンの体はバラバラに飛散した。


「バイコーン―—」


 バスタ達が見上げる中、爆裂して飛び散ったバイコーンの骨や肉片が広場へと降り注いでいく。

 地面に立っていた四つの足はパタリと倒れ、首から上は空中で石膏が割れるようにしてバラバラとなり、二本角だけが残って地面へと突き刺さった。

 地面へと落ちたすべての肉片は黒く焦げて炭のようになり、わずかに黒い煙を噴き上げるのみとなっていた。


「——逝ったのか」


 バスタがつぶやいたのを最後に、広場は静まり返った。

 生き残った人間達は、バイコーンの姿が広場から消えた後、誰も口を開かず、身動きすらせずに、バラバラに散らばっている獣のなれの果てを見渡していた。

 その場の誰もが思った――戦いが終わったという現実味が感じられない、と。

 しかし、都を地獄に変えた化け物はもういない。







 バイコーンは、死んだのだ。

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