第四十二幕 立ち向かう者達(7)

 クロエに歩み寄るバイコーンへ向けて、サルカスは双剣を左右同時に放り投げた。

 二本の短剣は獣の尻に当たって弾き返されたが、サルカスは足を止めない。


「やるなら俺からにしろっ!」


 バイコーンの尻にしがみついてでも止めてみせる――

 その覚悟で獣の背後から飛び掛かろうとするが、尻に弾かれて宙を舞っていた短剣のひとつを尻尾が巻き取り、近づいたサルカスの顔を一閃した。


「ぐあっ」


 左頬から鼻の頭を通って右頬まで切り裂かれたサルカスは、状況を把握できないまま背中から地面へと倒れ込んだ。

 青空を見上げながら、自分の顔に痛みと一緒に熱が帯びていくのを感じると、初めて顔を切り裂かれたことに気がついた。

 顔の血を拭いながら身を起こそうとした時、ヒュンと伸びてきた尻尾が短剣をサルカスの腹へと突き立てる。


「がっ!?」


 腹に突き立てた短剣をグリグリとかき回した後、尻尾は柄を離した。

 バイコーンは何事もなかったかのように歩を進め、サルカスは――


「ごほっ……」


 小さくせき込むと、震える手で腹に刺さったままの短剣を引き抜いた。

 その剣先に血痕はついていない。


「命拾い……したか……」


 サルカスは上着の下にくさりかたびらを着こんでおり、突き立てられた短剣の刃はかろうじて体内に食い込む寸前で止まっていた。

 しかし、みぞおちを強く圧迫されたことで、まともに息ができない。


「……まだ、俺は、生きてる、ぞ」


 無理やり搾り出した声も、バイコーンには届かない。

 その時、サルカスの手に何かが触れた。

 ……それはロープだった。

 バイコーンの首や足に巻き付けられていたロープが、引きずられながら石畳の上を滑っていたのだ。

 サルカスは短剣の刃を歯で噛むと、半身を起こして両手でロープを握った。


「んぐっ」


 が、サルカスの体重ではとてもバイコーンの巨体を止めることはかなわず、ロープを手繰るどころか、自分の体ごと引きずられてしまう始末。

 一方で、ロープにわずかながら重みが増したことを感じ取ったバイコーンは、背後に目を向けてようやくサルカスの生存に気がついた。


「やるなら、俺からに、しろ……」


 刺し殺したはずの小男の息があることを不審に思ったバイコーンは、ピタリと足を止めて死にぞこないへと向き直った。


「もう、後はなるようになれだ!」


 半ばヤケクソの心境で、サルカスは黒き獣へと短剣を向けた。

 が、その短剣を瞬時に尻尾が奪い取る。

 そして、今度こそとどめを刺そうと、尻尾がサルカスの首筋へと狙いを定めた。


「ちょ、ちょっとタンマ――」


 サルカスの訴えも空しく、尻尾は彼の首筋へと剣閃を走らせた。


「――っ!!」


 カラン、と石畳の上に金属が落ちる音がする。


「……あれ!?」


 サルカスは自分の喉元に触れて、傷ひとつないことに驚いた。

 足元に視線を落とすと、短剣の刀身が落ちているのと、いつの間にか自分の横に屈んでいる影があることに気がついた。


「サルカス殿、ここはわっちらにお任せくんなまし」


 それは、屈んでクナイを構えているセンカだった。

 丘陵でバイコーンに潰された左腕は包帯を巻かれて首から吊るしてあるが、影の者としての鍛錬の賜物か、動くのに支障はないようだ。


「お早くっ!」


 バイコーンは目の前に現れた女が丘陵で殺し損ねた人間だと気付くと、すぐに彼女へ向かって足を踏み出した。

 その瞬間、たわんでいたロープがすべて獣の背後へと引かれて、巨体が弧を描くようにして引き倒された。


「サル、クロ、にげる!」


 倒れたバイコーンの後ろには、何本ものロープを束ねて引っ張っているディンプナの姿があった。

 サルカスはとっさに走り出し、横倒しになったバイコーンの腹を蹴って、その巨体を飛び越える。


「すまないっ」


 サルカスはわずか一言ばかりの礼を残して、横たわるクロエの体を抱き上げるやいなや、ロープの結界の外側へと走って行った。


「都合よくも、お膳立ては整っていんす。

 この状況なれば、殺りやすい――」


 センカは屈んだ姿勢のまま、クナイをバイコーンの顔めがけて投げ飛ばした。

 その刃は右目の眼球へと突き刺さり、獣の敵意を一身に向けさせるに十分な奇襲となった。


「グウウゥゥ……ッ」


 バイコーンは身を起こそうとするも、各所に巻き付けられたロープをディンプナによって引っ張られ、再び引き倒された。

 それだけでなく、ディンプナの怪力によってその巨体は石畳を削りながら引きずり回され、彼女が噴水を飛び越えた直後、噴水の土台に頭をぶつけてようやく動きを止めた。


「ばしょ、よし」


 誰にも聞こえないような小声でつぶやくと、ディンプナはロープを手放した。

 そして、背中に背負っていた得物を両手で掴み、頭上高く掲げた。

 その得物は、人の首も入ってしまうほどに大きい両の指輪(しりん)が備わり、人の腕ほどはあろう広い刃が交差する、巨大な大鋏(オオバサミ)だった。


「うまづら、ちょんぎる」


 ジョキン、と空へ向かって一度両刃を噛み合わせた後、ディンプナは噴水に顔を突っ込んでいるバイコーンへと向かって走り出した。

 直後、獣が水の中から顔を上げ、口に含んだ大量の水をディンプナめがけて放出した。その水の槍は、まさに猟銃の弾丸のような速度で飛んだ。


「!!」


 ディンプナはとっさに前足を軸にして回転し、飛んでくる水の槍から身を躱した。

 さらに、その軸回転の力を利用して、大鋏の両刃をバイコーンの下顎へと深く引っかけた。


「ちょっきん!」


 掛け声と共に彼女の両腕の筋肉が盛り上がり、ジョギン、という肉を断つような重い音が広場へと響いた。

 ボチャン、と何かが水中へと落ちる音がした後、噴水を満たす水が瞬く間に真っ黒に染まっていく。


「ガッ……アガガガッ」


 下顎を失ったバイコーンは背を反り返し、地面へと倒れ込んだ。

 その断面から溢れ出す黒い血液が、広場を染めていた赤い血を黒く塗り替える。

 獣は自らの血だまりの上で、肉体の欠損というそうそう経験のない痛烈なダメージにもがき苦しんだ。


「う、うおっ! バイコーンの顎を……」

「なんだ、あのハサミみたいな武器はっ!?」


 ディンプナの武器を見て、生き残った憲兵達は驚きの声をあげた。

 ざわめく憲兵の中で、ゴットフリートだけはその武器の本質を見抜いていた。


「あの青みがかった刃……おそらくミスティタイト製だろう。

 しかもそれを、あのサイズのハサミに仕立て上げるとは恐れ入る。

 標的を切り刻むことに特化した造形だ……」

「ミスティタイトって、超希少な金属じゃないですか!

 何者なんです、あの女は!?」

「わからん。わからんが……これは最後のチャンスだ。

 貴様ら、あそこに寝ているバイコーンに照準を合わせろ!

 発射命令の後は、死んでも外すな!!」


 ゴットフリートの命令で、砲手を務める憲兵達は急ぎ装填準備を再開した。


「……しかし、砲弾はもう残り少ない。

 とどめ以外には使えんぞ!」


 残された三両の大砲には、それぞれ一、二発程度の砲弾しか残されていない。

 いくらミスティタイト製の大鋏を持つ怪力女でも、たった一人ではバイコーンを殺し切るには至るまい。

 深い傷を負わせたところに砲弾を連続で炸裂させなければ、勝機はない。

 ゴットフリートはその隙ができることを祈るしかなかった。


「ねさま!」


 ディンプナは、地べたでもがいているバイコーンの横面を思いきり蹴り上げた。

 一瞬、地面から浮いた獣の首は、切断された下顎の断面を空へと向けて、黒い血を雨のように周囲へと撒き散らす。

 空を仰ぐバイコーンの視界には、青い空と、空中から落ちてくる黒い影が映った。

 その影とは、空中を舞うセンカだった。


「影の者の、化け物の殺め方――」


 彼女は手にしたクナイ――それは透明なガラスのような材質の――を、切断された下顎の断面めがけて投擲した。

 狙いは見事に的中し、センカが着地した時には、獣の下顎にガラスクナイが突き刺さっていた。


「――とくとご賞味あれ」


 バイコーンの顔が再び地面に叩きつけられた後に、異常は始まった。

 下顎に突き刺さったガラスクナイの内部には、黄緑色の液体が入っており、時と共にその量が少なくなっていく。

 それは、まるで針の先から注射液を体内に送り込むかのようにして、バイコーンの体内へと注入されていた。


「ガッ……グガッ」


 ビクビクと首を痙攣させ、バイコーンは喉の奥から泡を吹き始めた。

 下顎の断面からは黒い血の流出が止まり、代わりに筋肉と細胞が傷口から体内へかけて腐食を始めている。


「なんだ!? 何をした、小娘っ!」


 バイコーンの異常に気がついたゴットフリートは、思わず叫んだ。


「……生物が耐えることのできぬ猛毒を、クナイの内側に仕込んでありんす。

 傷口から体内に染み渡れば、もはやこの獣とて命はない」

「ど、毒だとぉ!?」


 その効果は、ゴットフリートも目を疑うほどのものだった。

 すでにバイコーンの下顎から首周りの肉までが腐食しており、崩れ落ちる皮膚の内側から爛れて炭となった細胞が零れ出ている。


「これで終わりでありんす。

 安らかに――」


 センカは口上の途中で目を見張った。

 バイコーンの痙攣が鎮まり、少しずつ身を起こし始めたのだ。


「な……ぜ……」


 毒は確実にバイコーンの体内を侵していた。

 細胞を腐らせ、血液を蒸発させるほどの毒が体内に入った以上、いかなる治癒力でも再生が追い付かずに肉体は崩れ落ちていくはず。

 それに耐えきる生命体など、存在するのか?


「ガフッ、グフッ」


 バイコーンは身を震わせながら、喉や、腐食した首周りの傷口から黄緑色の液体を排出した。

 それは周囲の石畳へと撒き散らされ、地面を溶かしながら鼻をつく悪臭を放った。


「馬鹿な! 傷口から毒をっ!?」


 センカはその時になって、丘陵での出来事を思い出した。

 あの時も、バイコーンは体内の毒を自らの意思で外へと排出していたではないか。


「凄まじい生命力……まさかここまでとは……」


 毒をすべて吐き出したバイコーンは、肉体の再生を始めた。

 鼻先の裂傷や右目は再生がほぼ終わっており、下顎に残されたガラスクナイは断面から突き出てきた骨格によって押し出された。

 下顎を除いて、多くの犠牲と引き換えに与えた傷はほとんどが塞がっており、バイコーンの攻略はまた振り出しに戻ろうとしていた。


「お、終わったと思ったのに……!

 いったい今度はどうしたってんです、兵将補!?」

「わからん! ……が、おそらくはあの娘の使った毒。

 その毒の効力を、バイコーンの肉体が凌駕したのだろう……!」

「もう、もう、何をやっても……無駄なんじゃ」

「どこの馬の骨ともわからん娘どもが戦っているというのに、我らがそれを言ってはお終いよ!

 貴様ら、憲兵ならば意地を見せろぉっ!!」


 ゴットフリートがバイコーンへと砲口を向ける。


「小娘、そこをどけぇーっ!!」


 その声で我に返ったセンカは、大砲の針路のために横へ転がって道を空けた。

 轟音と共に射出された砲弾は、射角をわずかに外していた――

 否、バイコーンが砲口の向きから着弾位置を読んで、わずかに身を逸らしたのだ。

 結果として、バイコーンの首をかすめただけで、砲弾は遥か後方の建物へとめり込んだ。


「くそっ!」

「第二射、撃ちますかっ!?」

「待て! まだ撃つなっ」


 ゴットフリートは、はやる憲兵を抑える。

 バイコーンの正面から砲弾を当てるのは、至難の業であることは実証済みだ。

 いかに大きな的であっても、隙をつかねば当てることはできない。

 そしてその隙を作る頼みの綱は、もはや獣と向かい合っている二人の娘しかいない。


「ねさま、どうする?」


 大鋏を構えながら、ディンプナがセンカへと寄り添う。


「……もはや後には引けんせん。

 この身果てるまで、責任を全うしんしょう!」


 センカが左腕に巻かれた包帯の中から二本目のガラスクナイを取り出そうとした時、何人もの足音が広場を駆けてくるのが聞こえた。

 その足音が止まると――


「水臭いじゃないか。

 あんた達だけに、責任を押し付けるわけないだろう!」


 センカ達の対面に、バイコーンを挟んで並んでいるのは、クロエやサルカス、そして生き残った冒険家達だった。

 彼らが疲弊している様子は誰の目にも明らかだ。


「……総力戦? いいや、もう作戦もくそもない。

 ヤケクソでも何でもいいから、あの化け物の動きを止めろぉっ!!」


 クロエが叫ぶと、広場で武器を持つ者達は一斉にバイコーンへと向かって走り出した。

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