第四十幕 立ち向かう者達(5)

 副都ウエストガルムの中央区は、都中を巡る小川が合流した巨大湖――グランドレイクに浮かぶ島にあった。

 かつて帝国が接収した旧王国の名残であるその島は、ラウンドテーブルと呼ばれており、湖の上に架かる広く長大な橋によって外郭区域と繋がっていた。

 橋の入り口を守る架橋門から先は、中央区に籍を持つ貴族と、任務を帯びた上級憲兵以外の往来は許されない。

 その架橋門を目と鼻の先に控えた場所――グランドレイク沿いの噴水広場で、戦闘は繰り広げられていた。


「一斉射!」


 大砲の発射音が立て続けに鳴り響き、黒き獣へ向かって複数の砲弾が飛んでいく。

 獣は砲弾の接近を感知するやいなや、機敏に足を動かし、そのすべてを躱した。

 的を外した砲弾は、石畳や建物の壁を破壊し、当のバイコーンは無傷のまま颯爽と広場を駆け回っている。


「ダメか……砲弾が当たらん!」


 ゴットフリートは判断を誤った。

 バイコーンが攻撃を避けないのは、その異常なタフネスとバイタリティに慢心してのものだと考えていたが、実は違った。

 横幅の狭い街路とは異なり、その巨体でも十分に動き回れる広場では、バイコーンはむしろ積極的に砲弾を避けるようになっていた。

 本能的、かつ短絡的に破壊や殺りくを繰り返していたかに思えたバイコーンは、徹底した効率主義でそれらを行っていたのだ。

 人間と同等、否――人間以上の知恵でことごとく機動憲兵隊の裏をかくバイコーンを前に、すでに大勢は決したと言える。


「兵将補、もはやあの化け物に有用な武器はありません!

 撤退するしか……」

「馬鹿者! ここはすでに中央区の隣接区域だぞ!?

 万が一にでも、あの化け物がラウンドテーブルに侵入すれば、都はお終いだ!!」


 ゴットフリートが部下を叱責する間も、バイコーンはその怪力を駆使して大砲車両をひっくり返しては、憲兵達を下敷きにしていく。

 大砲や荷台に押しつぶされた彼らにはもはや出来ることはなく、かろうじて瀕死の状態のまま、仲間の助けを求めるだけだった。しかし――

 バイコーンはそんな憲兵達へと近づき、絶望に満ちた顔を見下ろしながら、彼らの頭を踏み砕くという所業を繰り返した。


「逃げろ、逃げろーーっ!」

「待て、待ってくれ、誰か助けてくれーー!」

「うわあああーーっ」

「誰かぁーっ!!」


 おぞましい殺され方をした憲兵達の血は、広場に敷き詰められた石畳の溝を伝って、ゴットフリートの足元まで達していた。


「……応援はまだ来ないのか?」

「グレイストーク中佐と、アルフレッド少佐の中隊がアナンケ通りまで来ています。

 しかし、バイコーンに崩された建物の残骸のせいで、車両を広場に持ち込めないと……」

「まさか、それもすべてやつの計算ということか……!?」


 噴水広場へと戦場を移す直前、バイコーンは何を思ったか建物の支柱を破壊し、それらを倒壊させていた。

 それこそが、抜け目ないバイコーンの企みだった。

 現に、応援に来た部隊が瓦礫に阻まれて広場まで到達できないでいる。

 別の道を迂回してくるにしろ、とてもこの場の憲兵が全滅する前に到着することは不可能だろう。

 広場にある大砲車両は七両。その内、引き倒されていないものは四両のみ。

 引き手であるシェルシープはすべて殺されてしまっており、砲口の向きを変えることすら容易ではない。

 ゴットフリートは現状を整理し、バイコーン撃滅という任務遂行が不可能であることを悟った。


「……このまま、やつを放っておくわけにもいくまい」

「兵将補、どこへ!?」

「ラウンドテーブルへ続く橋を落とす。

 最悪の事態だけでも避けねば、枢機卿に顔向けできん」

「今、架橋門へ向かえばバイコーンの格好の餌食です!

 その役目は私が――」

「この中隊の指揮官は私だ!

 貴様は生き残っている憲兵を退却させよ!」


 ゴットフリートは部下に命じた後、自らはレイピアを片手に広場へと躍り出た。

 踏み潰した憲兵の死体を弄んでいたバイコーンは、自分に背を向けて架橋門へと走り出す男を視界に捉えると、すぐに後を追った。


「くっ……! 気づかれずに、と言うのは虫が良すぎるか」


 ゴットフリートは、すぐにひづめの音が自分を追いかけてくることに気がついた。

 架橋門との距離はまだ20メートル以上ある。

 バイコーンの脚力を考えれば、たどり着く前に追いつかれるのは明白だった。

 もはやこれまで、と彼が足を止めてレイピアで迎え撃とうとしたその時――


「こっちだ、化け物!」


 ゴットフリートの命令を無視した憲兵が、広場を駆け抜けようとしていたバイコーンの横腹に槍を突き刺した。

 もちろん、その槍は刃先がへし折れ、獣にかすり傷ひとつつけてはいない。

 しかし、その行為だけで十分に彼の思惑は成功していた。

 バイコーンは足を止め、ジロリと憲兵を睨みつける。標的を変えたのだ。


「あの馬鹿者がっ!」


 ゴットフリートは部下の行動に思わず足を止めそうになったが――


「ここは私が時間を稼ぎます!

 兵将補は、今のうちに橋を!!」


 憲兵は恐怖に身をすくませながらも、命がけでバイコーンの注意を引いた。

 部下の覚悟を――命を、無駄にはできない。

 ゴットフリートは足を止めず、そのまま架橋門へと突っ走った。


 架橋門とは、橋の入り口に建てられた施設のことである。

 屋内には機械仕掛けで橋を水中に落とす装置が備え付けられている。

 帝国技術省の機械技師によって設計されたその装置は、制御機構の操作さえ知っていれば、誰でも容易に橋を落とすことが可能だった。

 バイコーンへの迎撃に架橋門の憲兵を駆り出していなければ、厳重な警備体制が敷かれているはずの場所である。


「うおおおっ」


 施錠された扉を蹴破り、ゴットフリートは施設内へと駆け込んだ。

 下り階段を下りた先には、剥き出しになった橋脚と、そこに結び付けられた極太のロープが滑車へと掛けられている。ロープは滑車を通して、さらに別の滑車によってけん引され、制御機構へと繋がっていた。

 ゴットフリートが装置の制御機構である回転棒(レバー)を握った時、外から悲鳴が聞こえてきた。

 屋内まで届くその悲痛な叫びは、まさしく部下の断末魔だった。


「くっ……!」


 固定された回転棒を押し上げるだけで目的は達せられるが、犠牲となった部下達のことを思うと、とても腕を上げられなかった。


「多くの若者が死に、老兵だけが生き残って何になろうか……!」


 ゴットフリートが顔を上げると、視線の先にはガラス戸越しにグランドレイクへと架かる橋が見えた。

 橋桁の数メートル下には水面が揺れ、太陽の光が反射している。


「……いかなる化け物も、陸上の生物ならば水中で呼吸はできまい!」


 バイコーンを湖に落とすことができれば――

 彼はリスクを承知の上で、兵将補として背負える責任を越えた判断を下した。

 部屋の隅に束ねられていたロープを手に取ると、それを回転棒へと巻き付け、ガラス戸を割って外へと転がり出る。


「こっちだ、化け物!」


 首を失った憲兵の体をくわえていたバイコーンは、ゴットフリートの存在に気がつくやいなや、強靭な顎でその胴体を噛み砕いた。

 バラバラに千切れ飛ぶ肉片を押しのけながら、黒き獣は自分に背を向けて走り出した男との距離を瞬く間に詰めていく。

 ゴットフリートが橋桁の上にたどり着いた頃には、バイコーンの強靭な顎が彼の肩口へと噛みついた。


「ぐわぁっ!」


 ゴットフリートは肩を噛み砕かれながらも、手に巻き付けていたロープを全身全霊を込めて手繰り寄せた。

 ロープがピンと張り、架橋門の施設内に結びつけていた回転棒を押し上げる。


「貴様も道連れよっ!!」


 ガコォン、という衝撃音と共に橋桁が激しく揺れ動く。

 橋桁を支える橋脚が、滑車を滑る極太のロープによって引っ張られ、噛み合わなくなったことでバランスを崩したのだ。

 支えを失った橋桁は斜めに傾きながら、亀裂を深めて崩落していく。

 橋桁の上にいたゴットフリートとバイコーンは、共に湖へと投げ出された。


「グルルアア――ァァ――ァ……」


 バイコーンは垂直に切り立った壁の側面に背中をこすりつけながら、崩れ落ちる橋脚もろとも湖へと落下していく。

 その一方で、ゴットフリートは――


「……うぐっ……き、奇跡か……?」


 不幸中の幸いか、はたまた奇跡か。

 彼は施設の窓から伸びるロープに腕が絡まり、崩落に巻き込まれることなく断崖で宙吊りとなっていた。

 肩の傷をかばいながら、地上から垂れ下がるローブをやっとのことで這い上がったゴットフリートは、崩落して湖へと沈んでいく橋の残骸を見下ろした。


「……?」


 妙だ、と彼は思った。

 湖に落ちたバイコーンの姿がどこにも見えない。

 水面でもがく獣の姿を想像していたが、重量のせいですぐに水底へと沈んで行ってしまったのかもしれない。

 そう思って、彼が断崖のより手前から湖を覗き込むと――


「なっ!?」


 バイコーンが断崖の側面へと張り付いているのを目撃した。

 前足と後ろ足、そして顔面の鼻先を力任せに切り立つ壁へと突っ込み、それによって巨体を支えながら踏ん張っているのだ。


「ば、馬鹿な……こんな……こんなことがっ!?」


 それだけではない。

 バイコーンは壁へと突っ込んでいる前足と後ろ足を巧みに前後させながら、一歩一歩、断崖を垂直に登り始めていた。


「……だ、ダメだ!

 このままでは、やつに都を滅ぼされてしまう!」


 ゴットフリートは全身総毛だったまま、断崖から逃げるように離れた。

 千鳥足でようやく広場の噴水台までたどり着いた彼は、膝をついて息も絶え絶えに叫ぶ。


「誰か、誰か生き残った者はいないかっ!

 誰でもいい、誰か、現状を他の隊へ連絡――」


 石床の砕ける音が背後から聞こえた瞬間、彼は押し黙って冷や汗を滲ませた。

 断崖へと振り返ると、とうとうバイコーンが石床の上に前足を乗せて、力任せに首をもたげる姿を目にした。

 地上へと返り咲いたバイコーンは、ひづめを床にこすりつけながら、ギロリとゴットフリートを睨みつける。


「万事休す、か……」


 レイピアを手放してしまったゴットフリートには、抵抗する術もない。

 否、武器を持っていたとしても、すでに彼の体は戦える状態ではなかった。

 バイコーンは自慢の二本角を突き出し、噴水の前で膝をつくゴットフリートへ向かって突進した。

 数秒後、自分は死ぬ。老兵が死を受け入れた、その時――


「!?」


 煙を噴き出しながら、広場の上空を飛んでくる玉が目に入った。

 それはバイコーンとゴットフリートのちょうど間に落ち、一気に大量の白い煙を噴き上げた。


「なんだこれは!?」


 動揺したのはゴットフリートだけではない。

 バイコーンは唐突な異物の出現に、とっさに足を止めた。

 直後、バイコーンの周辺には同様の煙玉が数多く降り注ぎ、瞬く間に広場を煙の幕が包み込んだ。


「いったい何事だ……」


 程なくして、煙幕はゴットフリートの体をも呑み込んだ。

 彼は、煙の中を近づいてくる小さな影を目にして身構えるが、それが人の息遣いを発していることに気がつく。


「旦那、こっちへ!」


 煙の中から出てきた手に腕を掴まれ、ゴットフリートは竜の彫像がかたどられたモニュメントの裏へと引っ張り込まれた。

 一方、標的をあと一歩のところで見失ったバイコ―ンは、苛立ちながらも現状の観察に努めた。何が起ころうとも、彼は冷静さを失ってはいない。

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