第二十幕 ディンプナの長い一日(3)

 ミートピアのホールで、クロエは猛獣ライガーと対峙していた。

 ディンプナを傍らに抱きながら、クロエは今更ながらハルバードを持って出てこなかったことを後悔した。


「見たところ自慢のハルバードは持ってきておらぬようじゃな。

 さすがのお前でも、素手ではライガーにかなうまい!」


 ライガーは牙をむき出しにし、クロエを取って食うと言わんばかりの鋭い眼光を向けている。口元からはよだれを垂らし、うなり声はますます荒々しくなっていった。

 ゴライアスの一声があれば、すぐにでも襲い掛かってくるだろう。


「……そうじゃな。

 裸になって、わしに土下座でもすれば許してやらんこともないぞ?」


 侮辱的な発言の後、ゴライアスはせせら笑った。


「おい、ウェイター!

 酒くらいさっさと持ってこんかっ」

「は、はいっ、ただいまっ!」


 目の前の異常事態に硬直していたウェイターは、ゴライアスの声で我に返り、一目散に厨房へと走って行った。

 つい先ほどまでは優雅な食事の時を過ごしていたはずの客達も、今では料理などそっちのけで壁際に張り付いている。


「脱衣ショーを見ながら酒を飲むのも一興じゃな!

 何をしている、はよう脱がんか馬鹿者!!」

「このゲス野郎……脱ぐわけねぇだろ!」


 苦い顔をしながらゴライアスに毒づくクロエ。

 彼女の体力と瞬発力ならば、ライガーから逃れるのは不可能ではない。

 しかし、ディンプナを連れて逃げるとなると、簡単にはいかない。

 ハルバードも持ってきていない今、ライガーを制圧するのも困難だろう。

 この時、クロエの脳裏には降服の選択肢もあった。


「クロ、わたし、邪魔?」

「な、何言ってんのさ……」


 自分の存在がクロエに行動を躊躇わせていることを、ディンプナは察していた。


「クロ、ごめ――」

「病院送りにされるか、わしに服従するか、はよう選べ!

 先にそのガキを食い散らかすようヴァクンに命じることもできるのだぞ!?」


 ゴライアスの恫喝が、ディンプナの言葉を遮る。

 クロエは、彼女が何を言おうとしていたのかわかっていた。なぜ罪もないこの子が謝る必要があるのか――クロエは覚悟を決めた。


「うるせえ、この成金ジジイ!

 てめぇのペットをぶっ殺して、そのハゲかかった髪を全部むしり取ってやる!!」


 クロエの怒号を聞くやいなや、ゴライアスは顔を引きつらせながら叫ぶ。


「こ、このクソ女めがっ!

 ヴァクン、その二人を食い殺せ!!」


 ステッキの石突を床に強く打ち付けるのを合図とし、ライガーは床を蹴ってクロエに飛び掛かる。

 クロエはとっさにディンプナを押し飛ばし、自分にのしかかろうとするライガーの巨体をいなすことで辛うじて突進を避けた。


「どこ狙ってんだよ、ウスノロ!」


 クロエは近くにあったテーブルを持ち上げ、ライガーに脚を向けて構える。

 割れる皿の音を皮切りに店内は大騒ぎとなり、客達は逃げ場を探すものの、入り口付近にいるライガーに恐れをなして近づくこともできない。彼らは転げまわりながら、少しでもライガーから離れようと厨房へと逃げ込んでいった。


「こんな楽しいショーを見ようともせんとは、なんとも度し難い連中じゃな――」


 ゴライアスはステッキの石突で改めて床を叩き、クロエに言い放つ。


「――わしを侮辱した罪、その身であがなえ!」


 ライガーは再びクロエに飛び掛かろうと、姿勢を落として前足に力を入れる。

 木製のテーブルを盾にしたところでまったく防御にはならない……わかってはいるものの、得物を持たないクロエには他になす術がない。

 そしてライガーが動こうとした、その時――


「あばれる、だめ」


 クロエが瞬きをした一瞬――

 その一瞬で、ディンプナがライガーのすぐ隣に立ち、猛獣の顔を見下ろしていた。


「何やってんだ、離れろ!!」


 クロエが叫ぶのと、ライガーが大口を開けてディンプナに噛みつこうと首をひねったのは同時だった。


「ディンプナァーーっ!!」


 クロエの絶叫が店内に響き渡る――


「だいじょうぶ」


 クロエの心配をよそに、ディンプナは両手でライガーの上顎と下顎を抑え、完全にその動きを封じ込めていた。

 体重差をものともしないディンプナを見て、ゴライアスは困惑する。


「な、なんだ? 何をしているのだ、小娘!?」


 髪の毛の隙間から覗く鋭い双眸が、ライガーを射抜く。

 敵意に反応し、ライガーが爪をたててディンプナを引き裂こうとした刹那――

 ライガーは天井を見上げていた。


「!?」


 ディンプナの強烈な蹴りを喉元に受け、ライガーはその衝撃で背中から後ろへとひっくり返っていたのだ。


「こ、今度は何が起こったぁっ!?」


 ライガーの巨体がひっくり返ったことに、驚愕するゴライアス。

 クロエも同様の表情で、ディンプナの小さな背中を見ていた。


「グルルル……!」


 ライガーはゆっくりと立ち上がると、ディンプナに向けて臨戦態勢を取る。

 不意の一撃を受けて、完全に猛獣の意識はディンプナを敵として認めたのだ。


「まだまだ、これから」


 ディンプナはチョイチョイと指を動かして、ライガーを挑発する。

 かかってこい、すでに戦いは始まっているよ、の合図だ。


「グガァァァァァッ!!」 


 ライガーは俊敏な動きでディンプナとの間合いを詰め、丸太のような前足で彼女を切り裂こうと躍りかかる。

 しかし、その爪は虚しく空を切るだけで、彼女にはかすりもしない。

 さらにディンプナを追撃するも、その爪や牙が彼女の体に届く前に、ことごとくいなされては、空振りに終わってしまう。


「なぜヴァクンの攻撃を避けられる!?

 しかも、あんな目の前で……何者だあの小娘……」


 理解を超える出来事を目の前にして、ゴライアスは戦慄を覚えていた。

 身構えるでもなく、ただその場に突っ立っているだけの女が、ライガーの攻撃をことごとく紙一重で避け続けるという理解しがたい現実。受け入れがたいが、事実、目の前で起こっている出来事なのだ。


「柳に、風――」


 ディンプナは苛立って突っ込んできたライガーの背中を、跳び箱を跳ねるようにして空中へと身をかわす。

 標的を見失ったライガーは勢い余って、店の壁へと激突した。

 空中に飛び上がったディンプナは天井を蹴って勢いに乗り、壁に顔をめり込ませるライガーの後頭部に突き刺さるような膝蹴りを叩きこむ。


「――天地に、雷!」


 さしものライガーもこれには深刻なダメージを負った。

 鼻を潰され、牙も欠けて、自由の利かなくなった体は顔面から床へと倒れこんだ。


「つ、強い……!」


 クロエは目の前で見せられたディンプナの強さに驚愕した。

 サルカスを一蹴したことは聞いていたが、ライガーすら物ともしない想像を遥かに超える体術には、ただただ感心するばかりだ。


「おおお……わしのヴァクンが、なんということ……」


 ライガーは嘔吐しながら床に頭をこすりつけて、苦しそうにもがいている。

 心血を注いで育てたライガーが無様に痛めつけられる光景を目の当たりにして、ゴライアスは恐怖にステッキを手放してしまう。

 ようやく起き上がったライガーは、疲弊こそしているもののディンプナへの敵意は消えてはいない。猛獣には、猛獣の意地があった。


「グルアアァァァァーーッ!!」


 怒りに支配されたライガーは、ディンプナの頭を噛み潰さんと牙をむき出しにして襲い掛かる。


「もう、おやすみ」


 ディンプナはくるりと回転すると、その遠心力を利用してライガーの下顎へと痛烈な右ひじを打ち上げた。

 渾身の一撃――

 自慢の牙はバキバキにへし折れ、再び巨体が回転して頭から地面に落ちる。ぴくぴくと痙攣するだけで、ライガーはついに動くこともかなわなくなった。

 ライガーの戦闘不能を確認すると、ディンプナは青い顔をして硬直しているゴライアスの前に歩いていく。


「そそうは、だめ」

「おま、お前は一体……何者……!?」


 ゴライアスは蛇に睨まれた蛙のように、その場から動くことができなかった。

 自分の顔を覗き込むディンプナの相貌は、まさに蛙を睨む蛇の如し。

 息が止まるほどの恐怖を覚えたゴライアスは、椅子から転げ落ち、やっとのことで立ち上がると、情けない声を上げて店の外へと逃げ出していった……。


「ごめんなさい」


 ディンプナはクロエの前に戻ると、弱々しい声で言った。


「何が……?」

「ふく、やぶれた」


 見れば、ワンピースの胸元が破れていた。

 ライガーの攻撃をかわしている時に、わずかに爪が服へと触れていたのだろう。


「……体は大丈夫だったの?」

「うん」


 ディンプナの耳がみるみる赤くなっていく。

 体は小刻みに震えて――


「せっかく、クロ、買ってくれたのに」


 ディンプナは泣いていた。

 クロエはそんな彼女を見て、その頭を優しく撫でた。


「服なんかより、あんたが無事でよかった――」


 クロエは倒れているライガーを見ながら、感嘆とした面持ちで続ける。


「――しかし、あんたの徒手空拳……想像以上だよ。

 あのライガーを素手でのしちまうなんて、普通できないって」

「怒ってない?」

「怒ってない。むしろ褒めてる」


 その言葉を聞いて、ディンプナは心から安堵して口元を緩めた。


「冒険家のクロエ。ライガーを倒したのは君か?」


 クロエに話しかけてきたのは、老齢の憲兵だった。


「……だったら、何か?」


 ディンプナに対する余計な詮索を防ぐため、クロエはそう答えた。


「相変わらずの女傑ぶりに感心するよ」

「そんなことより、あんたみたいな人が出向いてくるとは驚きだね。

 偉くなると暇になるんだ、ゴットフリートさん」

「たまたまこの近くの病棟に用があってな。

 街中でライガーが暴れているとの通報を受けて、興味本位で寄っただけだよ」

「いい歳して、あんまり物見遊山で仕事してるといつか痛い目みるかもよ」

「はっはっは……少しは自重するとしよう」


 店内には憲兵達が集まり始めていた。

 床に伸びているライガーを運び出そうと苦慮している者や、厨房で事情をうかがう者など、ゴットフリート以外は忙しなく動いている。


「あたしにも尋問するわけ? お得意の」

「……いいや。

 お前さん達はもう帰っていい」

「あっそ。

 それじゃあ、お言葉に甘えて帰らせてもらうよ」


 クロエはディンプナの手を引いて、ゴットフリートの前を横切る。


「ゴライアスと揉めた以上、いつか報復を覚悟しておくのだな」

「あんた達には言われたくないね。

 貴族の悪行を見て見ぬふりのあんた達には……」


 すれ違いざま、クロエはゴットフリートを睨みつける。

 その後に会話はなく、クロエとディンプナはふたり揃って店を出た。


「この後はどこに行こうかね」


 道すがら、クロエはディンプナに言った。


「……クロ、ふく、どうしよう」

「そっか。新しいワンピースを買ってあげなきゃね。

 よし、まずは服屋へ行こう!」


 クロエは楽しそうに言った。

 一日はまだ半日も残っている。二人のデートは終わらない。

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