第十八幕 ディンプナの長い一日(1)

 酒場でたらふく肉野菜を食べ、いつの間にか皿に突っ伏して寝ていた――

 その数日後のこと。



 閉ざされた窓の隙間からわずかに漏れる日の光で、ディンプナは目を覚ました。

 体の自由が利かず、見慣れない天井を見上げたまま、しばらくぼうっとしていると――


「ううう……ん、赤に、ベット……」


 誰かの声が耳元に聞こえた。

 その時になって、ディンプナはようやく自分の体が、隣に寝ている女の腕にガッシリとホールドされていることに気がついた。

 体の自由を奪う腕を振りほどき、寝言をつぶやく女の頬をパンパンと叩く。


「クロ、あさ、おきる」


 しかし、彼女は寝返りを打つだけで目を覚ますことはなかった。


「おきない……」


 ディンプナは女を起こすことを断念すると、ベッドから降り、トテトテと窓際まで歩いていった。

 途中、床の上に脱ぎ捨てられている自分の服――あちこち糸のほつれた古い着物を拾い、袖に腕を通す。

 そして閉ざされた窓を力任せに開くと、日の光が薄暗い部屋の中へと一斉に差し込み、清々しい朝の風が彼女の鼻を撫でた。


「あおい、そら……」


 彼女の視界に入ったのは、青い空と街々の景色。

 こうしてディンプナの一日が始まった。







 早朝。

 まだ人気が少ない時分から、ディンプナは長身の女に手を引かれて街路を歩いていた。

 道すがら通り過ぎる建物には、開店の準備を始めている店がいくつかあり、ディンプナはその店々を逐一覗き込んでいた。

 その珍妙な様子を見て、長身の女――クロエは尋ねる。


「あんた、都で働いてたくせに珍しい店でもあるの?」

「明るいうちから、表通り歩く、はじめて」


 店を覗き込む際、ディンプナと鉢合わせた商人は腰を抜かすほど驚いていた。

 顔を黒い髪で覆い隠し、その隙間からギョロリと目を光らせる得体の知れない女に店を覗き込まれては、彼らも胸中穏やかではないだろう。


「あんたの姿を見たら、おとぎ話の妖怪だと思う人もいるだろうね」


 クロエは苦笑しながらディンプナの奇行を見守っていた。

 が、いよいよ騒ぎになりそうな気配を感じ取ると、ディンプナをひょいとつまみ上げ、奇異の目を向ける商人達をしり目に商店街を抜け出した。


「クロ、どこいく?」

「風呂!」

「フロ?」

「あんたちょっと臭うよ。なんつーか……馬の臭い?がさ。

 体を綺麗にしたら、新しい服も買ってあげる」


 クロエが向かう先は、都の大衆浴場だった。

 小さな町には浴場がひとつあればよい方だが、ウエストガルムは副都だけあって、設備の整った入浴施設がいくつも点在していた。

 貴族でもない限り、風呂を自前で所有している者は少ない。都に住まう下層階級の人々にとって、仕事の前に朝一番で風呂に入って身を清めるのは習慣であり、彼らの数少ない社交場となっているのだ。


「いいかい。浴場では大人しくしてるんだよ」

「ん」


 二人は程なくして浴場に着いた。

 クロエが選んだのは天幕式の浴場で、それは屋外の広場に設置されていた。

 広場に備え付けられた建物ほどの大きな天幕からは湯気が湧き出て、中からは歓談する人々の声が聞こえてくる。

 天幕の周囲は、見張りと思わしき屈強な男達が巡回しており、浴場へと訪れる人々をさりげなく監視していた。


「いい匂い」

「そりゃ浴場だからね」


 ディンプナは天幕から漏れてくるハーブの甘い匂いを嗅ぎ、うっとりした表情を浮かべる。


「クロエさん、今日は連れがいるのかね」

「そっちにとっては、一人より二人の方が稼ぎになるだろう」

「趣味変わったね?」

「うるさいよ」


 クロエは天幕の前にいる受付の女と一言二言交わし、彼女に金貨を渡した。

 代わりに番号の刻まれた札を受け取ると、ディンプナを手招きする。


「二名入ります」


 受付の女が入り口の布を持ち上げると、白い湯気が立ちのぼる。

 天幕の内側には、湯の入った浴槽が等間隔に並べられており、それぞれを小さな天幕が囲っていた。

 客は、入り口で渡された番号の札に従って浴槽を選び、そこで湯浴みをする。人数によって浴槽の種類や数も変わり、値段も上がる。異なる浴槽の客同士の歓談は自由だが、まぐわいは禁止。この浴場のルールはそういったものだった。


「あたし達は……7番か。ほら、行くよディンプナ」


 天幕の中は、白い湯気と熱気が立ち込めていた。

 初めて訪れた大衆浴場に興味引かれるディンプナは、クロエの背中を追いかけながらも、すれ違う客達を一人一人凝視した。

 貴族の出で立ちをした男や、連れ合いの男女、さらには傷や入れ墨のある連中など、その客層は様々だった。


「ひと、多い、いろんなのいる」

「この界隈では人気の浴場だからね」


 大きく「7」と書かれた天幕に着いた二人は、さっそく入り口の布を押しのけて中に入った。

 いっそう白い湯気が立ち込めるその場所には、ハーブが植えられた植木鉢に囲まれ、たっぷりとお湯の入った浴槽があった。その上には、エードを注がれた瓶が置かれたトレイが天井から吊り下げられている。


「服はそこの桶に入れな。

 それと、湯に浸かるのは体を洗った後だからね」


 二人は服を脱いで、浴槽に溜まった湯で体を洗い流した後、浴槽へと浸かった。

 浴槽は大きなものが一据だけ置かれており、クロエとディンプナは互いに向かい合う形でその中に入ることとなった。


「はーあぁぁー! きっもちいいーっ!」


 クロエは溜まっていた疲れが癒されていくような心地で、浴槽の中で背を伸ばす。

 ディンプナもそれを真似て、背を伸ばしたり、浴槽の中に潜ったりして、心地よい気持ちに浸った。


「あんた、風呂入るの初めて?」

「たまに、クルワで湯浴み、してた」

「クルワ……?

 この浴場、ブラッシングまでサービスしてくれるんだよ。

 あんたの髪ボサボサだから、ついでに髪も綺麗に手入れしてもらう?」

「かみ、きりたくない」

「そうか。なら、ブラッシングだけしてもらおう」


 二人はしばらく湯に浸かりながら、トレイから取り上げたエードを飲み交わした。

 ディンプナがエードを飲み干してしまうと、クロエは飲みかけのエードを彼女の口に突っ込む。

 二杯目のエードも飲み干すと、ディンプナは満足したかのように浴槽へと力なく寄りかかった。


「クロ、優しい、すき」

「どういたしまして」


 ディンプナは濡れた髪の毛の隙間から、クロエの胸や腹をじっと見入っていた。

 普段は衣服の下に隠れてわからないが、クロエの体には大きな傷跡がいくつも残っていた。


「それ、いたくない?」

「ああ、傷痕(これ)かい?

 昔、仕事で無茶した時の傷だよ。やっぱり目立つかね」

「ローシュ、言ってた。

 体に傷ある、女しっかく」


 ディンプナの言葉にクロエは苦笑いを見せる。


「女だてらに冒険家なんて仕事をしているとね、こういう傷には慣れっこさ。

 今じゃもう、この体の傷は誇りみたいなものかな」


 ディンプナはクロエの話を聞きながら、彼女のわき腹から胸にかけて残っている傷痕を撫でたり、指でつついた。

 他にも、太ももや肩、腕にある古傷の跡も、ディンプナの目を引いた。


「……くすぐったいじゃないか。お返しだっ」


 クロエはディンプナを抱き寄せると、どさくさに紛れてその小さい体をあちこち揉みしだいた。

 嬉々とした表情でじゃれ合うクロエだったが、ふと目に入ったディンプナの背中を見て顔色を変える。


「あ、あんた……この傷は……」


 ディンプナの背中には、彼女の顔と同じようなひどく焼け爛れた傷痕があった。

 火傷の跡?――否。背中いっぱいに広がる傷の全貌を見て、クロエはその傷が人為的なものであることがわかった。

 その傷痕は、異国の言葉で二文字―― 失 格 ――と読めたからだ。


「むかし、ついた」

「そう……」


 クロエから離れると、ディンプナは何も言わずに気恥ずかしそうな顔で浴槽へと顔を沈めた。

 ぶくぶくと泡を立てる湯面を見て、クロエは苦い顔をしたまま独りごちる。


「誰にだって、人に言えない過去がある、か……」







 ディンプナの髪のブラッシングが終わってから、二人は浴場を後にした。

 彼女の髪には艶が戻り、もつれも取れて、サラサラでまっすぐな髪になっていた。

 しかし、それでも彼女は髪で顔を隠すことはやめない。


「化粧の仕方でも教えられたらよかったんだけど、生憎あたしはそういうの苦手でね」


 クロエはディンプナの髪を撫でながら言った。


「さ、次は服屋だ。

 そんな味気ない服は捨てて、もう少し可愛げのある服を着せてあげる」


 ディンプナはクロエに都の服屋を何軒も連れまわされた。

 いずれの店でも、何着もの衣服を着せられたが、最終的にディンプナが気に入った黒地で羊毛のワンピースを選ぶこととなった。


「どう、着心地は?」

「……いい匂い」

「それは、髪に残ったハーブの匂いだよ」


 服の匂いを嗅ぐディンプナを見て、クロエは微笑ましい気持ちになっていた。

 浴場で身を清め、衣服も取り替えたことで、心なしかディンプナの丸かった背も今は伸びているように見える。

 支払いを終えて店を出ると、遠くから時計塔の鐘が鳴る音が聞こえてきた。

 時計塔の鐘が鳴るのは、時計の針が正午を指した証だ。


「そろそろ飯にするか。

 あんた、何か食べたいものある?」

「肉」

「よぅし、あたしがよく行く肉料理屋に連れてってあげる」


 クロエはディンプナの手を取り、並んで街路を歩いていく。

 二人はまるで母と子?――姉と妹?――仲の良い家族のようであった。



 そして、事件はその日の昼に起こる。

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