第十七幕 最後に泣くのは(6)
「この裏切者……さぞやいい気分でしょうね」
ランプひとつが灯るだけの薄暗い室内に、冷たい声が響く。
両手両足をベッドに縛り付けられ、身動きが取れない状態で監禁されている下着姿の女。
彼女の手足には、くっきりと枷の跡が残っており、力任せに脱出を試みた形跡が見られた。
首には包帯が何重にも巻かれており、赤い血が滲んでいる。
「気に入らないやつを手当たり次第殺しまくっていたら、まともな人間関係構築できないよ。ビトリー」
ベッドのそばに立つ小男は、拘束された女――ビトリーを見下ろしながら言った。
表情にこそ出してはいないが、その胸中には憐憫の情がある。
「私だって殺す相手は選ぶ。
私の邪魔になる者と、私の気持ちを裏切る者――」
ビトリーはその小男に蔑みの目を向けながら、淡々と続けた。
「――あんたはまた私を裏切った。殺しもせずに私をどうする気?
また男どもの慰み者にでもにして、自分だけ旨い汁を吸おうってわけ」
「昔の話はやめよう」
「そうやって作った金で、あんたはスラムから出て行ったんだよね。
私を捨てて手に入れた新しい生活はどうだった?」
「俺は――」
その時、鉄の扉が開き、二人の会話を遮った。
「サルカス。なんて顔してんだい」
現れたのは、年配の女性だった。
その手には煙草を持ち、部屋に入るなり一緒についてきた女に火を点けさせる。
「あんたがそんな顔してちゃまずいだろう。
その女を沈めようってんだからさ」
「マダム・ストレア……」
マダム・ストレアと呼ばれた女性は、煙を吐き出すと、ベッドに繋がれたビトリーのつま先から頭までを舐めるように見回す。
「これが、かの敏腕レンジャー様かね。
年齢は20代後半……にしては、肌艶もいい。
多少筋肉質だが、胸も綺麗だし、この体なら客もすぐつくだろう」
マダムはビトリーの太ももから横腹をさすりながら、体のあちこちを見回している。
自分の体をまさぐる彼女に不快感を覚えたビトリーは、その顔に向かって唾を吐きかけ、殺意すらこもった眼差しで言う。
「触るな、クソババア」
マダムは顔の唾を拭うと、怒る様子もなくビトリーから離れた。
「なかなか肝も据わってる。
うちで扱う娼婦としては申し分ないね」
「噛みつかれないようにしてください。
本性は狼よりも粗野で、熊よりも粗暴ですから」
「そういう子には慣れてるよ。
だが、経歴を考えれば注意を怠って無事でいられる相手じゃないね」
マダムは煙を吹かすと、鉄の扉に手をかけた。
「その子の体を洗っておやり。
もう少し素直になるまでは、当分この部屋で面倒みるんだからね」
マダムの言葉に付き添いの女が頷く。
彼女は手に持っていた袋から水と布を取り出すと、それでビトリーの体を拭い始めた。
「噛みつかれないように注意しな。
……ほら、行くよサルカス。あんたには上で話がある」
マダムに促され、サルカスはベッドのそばを離れた。
鉄の扉をくぐって階段に足をかけた時、背後から恨めしそうな言葉が投げかけられる。
「私は、必ず這い上がる。
今度は私からあんたに会いに行くよ。
その時、あんたが幸せに暮らしていたら、それ以上の喜びは――」
鉄の扉がしまり、ビトリーの声は遮られた。
サルカスは彼女が何を言いたかったのか理解していた。
そして、その心情も。
「人の恨みはね、何十年と消えないもんだ。
あんた、いずれ殺さずに沈めたことを後悔するかもね」
「……かもしれませんね。
でも俺にはビトリーを殺す選択肢を選ぶことなんて無理です」
応接間で向かい合うサルカスとマダム。
マダムの煙草の煙が狭い部屋に充満し、その煙を吸い込んだサルカスはせき込む。
「煙草はやらないのかい」
「ええ。相棒が嫌ってるもんで」
「ああ、そう言えば……バスタがたいそう煙草を嫌ってたことを覚えてるよ」
「ビトリーのことは、世間的には失踪扱いになってます」
「そうなると、街中にあの子の顔が描かれたチラシが出回るんじゃないかい。
こっち側の仕事はそれだとやりにくいよ」
「それは大丈夫です。
レンジャーズ・ユニオンには俺がビトリーの犯罪を密告したので、彼女を本気で捜すことはないでしょう。
むしろ姿を消したまま、二度と戻ってこない方が都合がいい」
「さすがはバスタの相棒だね。
機転が利くというか、狡猾というか」
サルカスは口元を緩ませ、机の上に出されていた紅茶を口に含んだ。
「で、あの子の買い値のことだけど――」
「金はいりません。
その代わり、他の子よりも良い食事と、良い服を着せてやってください」
サルカスはうつむいたまま、紅茶に映る自分の顔を見下ろしていた。
マダムはその様子に苛立ったのか、やや声を荒げながら言う。
「二度も捨てたんだ。あんたにあの子を思いやる資格はないよ。
さっさと忘れて、地上で相棒と馬鹿やりながら生きていけばいいさ」
「それでいいんですかね……」
「人間、過去なんかより未来を生きる方が大事なんだよ。
男のくせに、いつまでもウジウジしてんじゃないよ!」
「あれ? そのセリフ、聞き覚えが……」
マダムが手をパンパンと叩くと、扉を開けて女が入ってくる。
「お客様のお帰りだ!
外まで送って差し上げな」
サルカスは紅茶を一気に飲み干してから席を立った。
部屋を出る間際、背を向けて煙草を吸うマダムへと最後の言葉を送る。
「あなたとバスタくんは、どこか似ていますね」
「こんな老いぼれからかってどうするのさ。
……二度と来るんじゃないよ」
爽やかな風が吹く中、喫茶店で二人の男女が向かい合っていた。
女は右腕を包帯で吊り、車椅子に乗っている。見目麗しい少女だが、その顔は暗く沈んでいた。
男はラフな服装で、その場には似つかわしくない冒険家の小男だ。
「……私を脅す気ですか」
「そのつもりはないけど、まぁ、君からすればそうなるよね」
サルカスは手元の紅茶を覗き込みながら、他人事のように言った。
表情は能面のように感情がなく、彼女の心情などまるで無関心な様子だった。
「ユニオンで噂になってます。
ビトリー先輩が横領をしていたって……。
しかも、その証拠が上層部に送り付けられたとか」
「へぇ。悪いことはできないねぇ」
「あなたの仕業ですよね?
あなた、先輩とどういう関係だったんですか?」
「君が知る必要はない。
それよりも、さっきの交換条件について答えを聞かせてくれないか」
ポーリーンは目の前の小男を睨みつけながら、震える唇で言う。
「ユニコーン追跡隊の情報は……逐一、あなたにお渡しします。
だから……先輩を殺さないでください……」
不本意な言葉を吐き出させられ、ポーリーンはうつむきながら大粒の涙をこぼした。
「オーケイ。取引成立だね――」
サルカスは紅茶を一口すすると、席を立った。
「――連絡方法はさっき言った通り、広場の掲示板に暗号で頼むよ。
お互い顔を合わせることもなく、これっきりの関係だ」
「あの、先輩はどこに?
私のことを何か言っていましたか?」
ポーリーンは、立ち去ろうとするサルカスに食い下がる。
が、彼の反応はあくまで素っ気ないものだった。
「君のことなんて何も言ってないよ。
あの女は、君には想像つかないほど性悪な人間なんだ。
ビトリーのことは忘れて、レンジャー業に精を出すんだね」
「わ、私は……私は先輩がいたからこそ……!
先輩の隣で、ずっと誇りあるレンジャーの仕事を続けていきたいと思ったからこそ、頑張ってこれたんです。
先輩がいないなんて……私には……耐えられない」
人目もはばからず、ポーリーンは顔をくしゃくしゃにして泣いた。
それを見てもなお、サルカスの表情には変化がない。
「そんな気持ち、ビトリーには届いていないよ。
あの女が誰かに優しくするのは、自分に利益がある時だけだからね。
君もそうだっただけの話さ。もっとも……それも少し前までのことだったようだけど」
「ううう……うぅ……」
もはやポーリーンに口にできる言葉はなかった。
頬を伝う涙だけが、彼女の心の在り様を物語っている。
「過去なんて忘れて、しっかりと未来を生きていくんだね。
君はビトリーとは違う。
最初からいろんなものを持っているんだから」
まだ中身の残っている紅茶カップをテーブルに置いて、サルカスは少女の前から去って行った。
彼女のすすり泣く声は、サルカスの背中にしばらく届いていたが、決して振り返ることもなく……。
浮かない表情で街路を歩いていたサルカスは、クロエに声をかけられた。
いつも通りの元気な声とは裏腹に、彼女はハルバードを杖代わりにして辛そうにしている。
「姉御、もう動いて大丈夫なんですか?」
「あたしは病院のベッドは嫌いなんだよ。
それより、あの子との取引は上手くいったのか?」
「ええ。それについては抜かりなく」
「……しょぼくれた顔してやがんな。
あの子は無事だったし、あんたの元カノも生きてる!
おまけにユニコーンの情報も手に入るとくれば、万々歳じゃないか」
クロエの言葉を受けて、サルカスは自嘲気味に笑う。
「俺、あの子の心を深く傷つけたと思うとやるせなくてさぁ。
もっとベストな方法があったんじゃないかって……」
クロエは苛立った様子でサルカスの脳天にチョップをかます。
「人死にが出るよりマシな収め方だったろう。
期待のレンジャー謎の失踪と、未来ある天才レンジャーが傷物になったってことで新聞は煽り立ててるけどさ。
ベストじゃないけど、ベターな着地だったと思うよ」
「姉御が慰めてくれるなんて……!」
感激して思わず抱き着こうとしたサルカスを、クロエは容赦ない蹴りで迎え撃つ。
みぞおちに入った蹴りは、サルカスを地べたで悶絶させた。
「……やっぱ、今が一番生きてる感じがする」
せき込みながら、サルカスは生き生きとした表情を取り戻していた。
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