第十一幕 殺し屋の足音(3)

 日は沈み、半分に欠けた月が青い光で街々を照らす。

 白面金毛女楽の裏手にある厩舎では、人目を忍んで動く影があった。

 厩舎に繋げられている馬は一匹も騒ぐことなく、小さなランプの灯りに照らされたその影――黒装束の女をじっと見つめている。


「ちゃんと話はできんせんが――」


 女は、自分の胸に顔をうずめて眠っているディンプナにささやく。


「――ここでなら、わっちがぬしを守ってやれる」


 抱えていたディンプナをそっと飼い葉の上に寝かせ、女はその頬を優しく撫でた。

 ディンプナは寝息を立てたまま、目覚める様子はない。

 寝入るディンプナの顔を見ながら、能面のように無表情だった女の顔がわずかに緩む。


「まさか本当に連れて戻ってくるとはね」

「!? ……ローシュ、なぜここに」


 安堵の表情を浮かべた女の顔が、一瞬にして凍り付く。

 厩舎の入り口には、決して客前では見せぬであろう冷めた眼差しでたたずむ娼館の長――ローシュの姿があった。


「それはこっちのセリフだよ、センカ。

 お前は影の者。闇の中に身を潜めるのが役目だろう。

 呑気に外を出歩ける立場かい」


 ローシュはその冷めた眼差しを、彼女の後ろで飼い葉に寝かされているディンプナに移す。


「男の相手も満足にできない。馬の世話も手際が悪い。

 喧嘩が強いのも、大飯食らいも、うちじゃ何の役にも立ちゃしないんだよ」

「……連れて帰る必要はなかったと?」


 黒装束の女――センカを睨みつけると、ローシュはこくりと頷いた。

 ディンプナへの冷徹な態度に、センカは押し殺していた激情を吐き出すように叫ぶ。


「わっちと約束したではありんせんか!

 わっちがぬしのもとで働けば、ディンの世話もしてくれると……」

「約束は果たしてきたつもりだよ。

 お前をここの女達の守り役にするために、払いたくもない身銭を切って一緒に貰ってきた子だからね。

 だが、それも先日その子がいなくなったことで解決したと思ってた。

 まさかあんたが連れ戻してきちまうとはね……」


 ローシュは、憐れむような、しかし蔑むような眼を向けたまま続ける。


「そんなに、その子が大事なのかい。

 斃天党(へいてんとう)で殺しの玄人に育てられたあんたにも、人並みの情があったとはね」

「わっちの今があるのは、ディンと共に生きた過去があってこそ。

 例え雇い主でも、ディンを粗末に扱うことは許しんせん!」

「雇い主に弓を引く気かい。

 末席とは言え、斃天党の人間が情けないねぇ」


 呆れた面持ちで溜め息をつくと、ローシュは戸口の壁を数度叩いた。

 その音を合図として、入り口に大きな影が現れる。


「ぬしは!!」


 ランプで照らされた影の正体を見て、センカは懐から短刀を抜き、即座に臨戦態勢を取る。

 その影は、ツーハンデッドソードに引けを取らぬ大物の剣を携えて、不敵な笑みを浮かべるバスタだった。


「お前のおかげで長年一緒にやってきた得物を失っちまった。

 間に合わせだが、代わりがこの――」


 ブンッという空を斬る音と共に、厩舎の中に突風が巻き起こる。

 飼い葉が宙に舞い、厩舎に繋がれた馬達は不安からいななき始める。


「――斬馬刀さ。

 ちと扱いづらいが、俺向きなんで借りてきた」


 斬馬刀を軽々と振るってみせた大男を前にして、センカは額から冷や汗が流れた。

 厩舎は狭く、馬や桶など遮蔽物が多い。窓も塞がっており、出入り口は男の立つ正面のみ。

 今この場では、センカの持ち前の素早さは活かせない。

 それに対して、バスタは今見せたように巨大な大剣を容易く振るう膂力を持つ。

 こんな狭い場所で長大な刀剣を振り回されれば、速さの有利も殺され、立ちどころに追い詰められてしまう。

 センカは、ようやく自分が狭い厩舎へと追い込まれたことを悟った。


「わっちを……殺しにきたんでありんすか」

「俺が復讐なんてつまらないことをする男に見えるか?」

「では、何が目的なんでありんす?」


 会話のさなか、センカはバスタを見据えるふりをして、視界の中に散らばる障害物を隅から隅まで把握するよう努めていた。

 この狭い空間の中で、もっとも早くバスタの喉元へ切り込めるルートを探っているのだ。

 目の前の男は平然を装ってはいるが、つい昨晩に半死半生の状態に陥ったはずで、本来の体調まで回復していることはありえない。わずかに血も香ってきているし、幾多の殺しの経験からセンカはその確信があった。

 刹那の差で、男の急所を裂く――その勝機を探り続けるセンカだったが……。


「実は一刻ほど前、ローシュからディンプナを身請けする約束を取り付けた」


 その言葉に、センカの思考は霧散してしまった。


「な……身請け……!?」

「これが身請けの証文――」


 バスタは懐から一枚の書状を出して、ひらひらと煽ってみせた。


「――これでディンプナの飼い主は、法的に俺になったってことだ」

「な、ぜ……!

 ローシュ、なぜこんな男にディンの身請けをお認めに!!」


 ディンプナの身請けの証文。それは、センカが喉から手が出るほど欲しかったものだった。

 臨戦態勢も忘れるほど狼狽し、咎めるような眼をローシュへと向ける。


「ディンプナを手放すにしても、お役所の監査が面倒でね。

 そこへ、この男がディンプナの身請けを申し出てきた。

 正式な手続きでディンプナを手放せるから、お役所に頭を悩ませることもないわけよ」

「そんな……!

 ディンは娼婦ではありんせん。それなのに……」

「もともと娼婦として連れてきたんだ、文句は言わせないよ。

 私にとっては渡りに船だ。身請け金も貰ったし、断る理由はないね」

「わっちは、ディンのそばにいるために……ここにいたのに……」

「斃天党の名が泣くね。

 私情で雇い主に反抗するような影なんて、聞いたことがない」


 指先から短刀がこぼれ落ち、その場にがっくりと膝をつくセンカ。

 己の無力感に打ちひしがれる……のも束の間、センカはすでに次の一手を模索していた。


 ――バスタとローシュを殺して、証文を奪い、ディンプナを連れて逃げる。


 表の世界で生きられないセンカに、逃げる場所などあろうものか。

 外の世界でまともに暮らせないディンプナに、生きる場所など見つかろうものか。

 その先の答えはセンカにはなかった。

 影の掟に支配されていた彼女が、初めて私情のためにその掟を捨てることを選ぼうと心に黒い炎を燃やしかけた、その時――


「取引しようぜ、センカ」

「は……?」


 手にした証文をセンカへと差し出す仕草を見せると、バスタは続けた。


「この書状を譲る代わりに、俺の計画に一度だけ協力しろ」

「協力……?」

「お前の扱う毒。あれが俺には必要だ。

 お前自身の体術も含めて、計画遂行のためにぜひ欲しくなった!」

「わっちに仲間になれと?」

「一蓮托生じゃねぇ。

 たった一日だけ、俺の計画通りに動いてくれればそれでいい。

 納得してくれるなら、この書状をお前に譲る」


 バスタの口から出た魔法のような言葉によって、センカの心に灯りかけていた黒い炎は一瞬にして掻き消えてしまった。

 ふと、飼い葉の上で寝がえりを打つディンプナの顔を見入る。

 その顔にそっと指先で触れ、たしかな温もりを感じ取ったセンカは、心を決めた。


「わかりんした。ぬしとの取引、受け入れなんす」

「取引成立だな」


 バスタは書状を丸めて、センカへ向かって放り投げた。

 センカはそれを受け取るやいなや、すぐに書状の全文を確認する。

 そして、文末に書かれた一文を読んで彼女は目を丸くした。その一文は、インクがまだ乾ききらない文字でこう書かれていた。


 ――なお、バスタ・ブルンフェルシアからハチフサ・センカへと、この書状にある権限は移譲するものとする。


「ぬし、最初から……!」

「いくら場所を選んでも、こんな体じゃお前と真正面から戦うのは無理だ。

 今後また狙われるのもごめんだし、俺にとってもっとも都合の良い落としどころが、お前の懐柔なんだよ」


 ふぅ、と息を吐いて壁に背を預けるバスタ。

 気だるそうに斬馬刀を地面に落とす。

 バスタはすでに立っているのもやっとの状態だった。


「……ぬしには、その……感謝しなんす」

「そういうのはいいよ。

 今度こそ持ち金すべて使い切っちまったから、ちゃんと働いてくれさえすればな」

「ふふん。鮮やかなお手並みだったよ、バスタ」


 今まで黙っていたローシュが口を開いた。

 厩舎に現れてから初めて見せる、緩やかな笑みをたたえて。


「仮にも斃天党の人間を手玉に取るとは、やるじゃないか」

「転ばぬ先の杖を持て、しかして転ぶ時にはただでは起きぬ。

 ……俺の座右の銘さ」


 その時、ディンプナが目を覚ました。

 大きなあくびをした後、彼女の視界の中には最初にセンカの顔が映った。


「ねさま、今日は明るいところ、いる」

「ええ。今日は少し、特別な日でありんすから」


 センカはディンプナを抱きしめると、頬に涙を伝わせた。

 状況を理解していないディンプナだったが、反射的にぎゅっと抱きしめ返す。


「まるで姉妹みたいだな」


 その様子を見て、バスタがふとつぶやいた。


「あの二人は、もともと東から連れてこられた奴隷でね。

 センカは斃天党の一員に選ばれたんだが、ディンプナは――」

「いいよ、そういう湿っぽい話は。

 人間ってのは、過去なんかより未来を生きる方が大事なんだぜ」


 バスタの言葉に、ローシュはくすりと笑う。

 そして、厩舎からの去り際にセンカへ向けて告げる。


「センカ。

 しばらく暇をやるから、少し頭を冷やしてきな」

「ローシュ……」


 ローシュが暗闇へと消えていくまで、センカはその後ろ姿をじっと見送っていた。

 ディンプナは、今もセンカを抱きしめたままその胸に顔をうずめている。


「ああ……疲れた。

 少し、ここで休ませて……もらうぜ……」


 とうとう力尽きたバスタは、厩舎の地面に尻もちをついて、眠るように意識を失っていった――







 後日、憲兵練館へ遺失物として届けられていたツーハンデッドソードが消えた。

 保管庫からそれが消えた日、闇夜に紛れて黒装束の人物が憲兵に目撃されたが、彼の証言は侵入者を証明するには物証が乏しく、詳しい調査が行われることはなかった。

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