第十幕 殺し屋の足音(2)
「得物を失うとは……。
俺としたことが、ドジったぜ」
バスタは全身あちこちに打撲傷を抱えて、都の下水道をふらふらと歩いていた。
殺し屋の女から逃れるために川へと飛び込んだまでは良かったが、想定以上に急な川の流れに揉まれ、あちこちに体を打ち付けて、ようやく岸に上がったと思えばそこは下水道の入り口だった。
不快な臭いに鼻が曲がりそうになるが、それ以上に厄介なのは、不衛生なこの場所に刀傷を負ったまま留まり続けることである。
すぐにでも病院へ駆け込みたいところだが、体にはまだ痺れが残っており、満足には動けない。
「致死性の毒じゃなかったのが幸いしたか……。
あの女、とどめはきっちり自分で刺すつもりだったわけだ」
壁に寄りかかり、乱れた息を整える。
普段ならば愛用のツーハンデッドソードに寄りかかるものだが、すでにバスタの手元からは失われてしまった。
得物を捨てて逃げるなど、クロエには笑われそうだが、命には換えられない。
「相棒の方はうまくやってるかね……。
あの女が狙うのが、俺だけならいいんだが」
クロエなら心配はいらないだろうが、サルカスはあんな殺し屋に狙われれば危うい。
しかし、今は他人の心配よりも自分の心配をしなければならない。
バスタは気力を削る思いで真っ暗な下水道を壁を頼りに徘徊し、ようやく地上への階段を見つけた。
「はぁ、はぁ……。
こんなに太陽の光が恋しいと思ったのは初めてだぜ……」
長い階段を登り切り、下水道から脱出したバスタを照らしたのは、太陽の光――
「おい、あんた。
こんな夜分に下で何してたんだ」
――ではなく、街路灯のランプに灯る小さな光。
街は暗闇に包まれており、満月がわずかに傾いているだけだった。
下水道をずいぶん長い間さまよっていた気がしたが、実際には数時間程度しか経っていなかったのだ。
「よりによって、こいつらかよ……」
バスタは力なくその場に倒れた。
彼を取り囲む数人の男――憲兵達は、突然下水道の入り口から現れた男に困惑しながらも、その身柄を確保した。
バスタが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
「まぶしい」
窓から射す太陽の光に目がくらむ。
周囲を見回すと、粗末なベッドの上で怪我にうめく者が何人も目についた。
大火傷を負って全身に包帯をぐるぐる巻きにしている者、膝から先の足がない者、痛みに耐えかねて暴れているのを看護師らしき男達に取り押さえられている者……。
どうやらここは、身分の低い人間が押し込まれる劣悪な環境の下層病棟のようだった。
「ぐぐっ……!」
体を起こそうとした瞬間、全身を軋むような痛みが襲う。
背中と腰の刀傷はしっかりと包帯が巻かれ、毒抜きもされているようだったが、全身の打撲はいいかげんな処置しか施されていなかった。
致命傷になり得る傷だけ治療し、あとは最低限の手当てだけ。この病棟の医師はよほど手が足りていないようだ。
これでは戦闘はおろか、しばらく満足に歩けそうもない。
「参ったね、こりゃ」
その時、バスタは自分のベッドに近づいてくる二人の男の存在に気付いた。
男は二人とも憲兵だった。
一人は若い男で、下水道から出て倒れる寸前に見た覚えのある顔。
もう一人は――
「目を覚ましたようだな。ハイエナのバスタ」
「……こんなところで、あんたの顔を見るとはね。
ゴットフリートの旦那……機動憲兵隊はよっぽど退屈なのかい」
バスタを見下ろす老齢の憲兵――名をゴットフリートという。
別名「笑い鬼」とも呼ばれる憲兵省の老獪で、バスタとは因縁浅からぬ人物だった。
「こんな醜態をさらすとは、お前さんらしくないじゃないか。
最近は闇市を出入りしているようだが、また危ない遊びに手を出したのか?」
「今更、俺に何の用だよ。俺にかけられた嫌疑はすべて晴れたはずだろう」
「そう邪険にするな。お前さんがこんな状態なのはいい機会だからな。
捜査が保留になっている案件をいくつか掘り起こそうと思っとるわけよ」
「クソジジイ……。
不良冒険家なんて相手にしてないで、物騒な殺し屋の検挙に努めろよ」
「はっはっは……殺し屋とは穏やかでないな!
ならば明日になったら憲兵のお守り付きの個室に移してやる。
そこでじっくりと話を聞かせてもらうぞ」
ゴットフリートは身動きの取れないバスタの頭をくしゃくしゃと撫でると、若い憲兵を連れて病室から出ていった。
面倒なことになった――バスタはそう思った。
駆け出しの頃から憲兵とのイザコザが少なくなかったバスタは、彼を知る憲兵からよく思われていない。
特にゴットフリートとは犬猿の仲で、何度逮捕され、尋問という名の拷問を受けたかわからない。あの男の一見穏やかな顔の下には、泣く子も黙る残虐な行為を笑いながら実践できる悪魔の如き本性が潜んでいるのだ。
今の状態では、ゴットフリートの尋問はかなり堪えるものになるだろう。
「あのジジイの暇潰しに使われてたまるか……!
なんとかここを脱出しねぇと、ユニコーン捕獲どころじゃねぇ」
日が沈む頃、食事だ治療だと騒がしくなる病棟の喧騒に紛れて、バスタは病院を抜け出した。
歩くたびに軋むような痛みが全身に響いたが、人目を忍びつつ、どうにかユニオンまでたどり着くことができた。
「くそっ……大きな声も出せやしねぇ……」
千鳥足になりながらも、エントランスを突っ切って受付嬢のいる窓口へと向かう。
そして、受付嬢が優雅に紅茶を飲んでいる窓口の机に向かって、倒れるようにして突っ伏した。
「ぶふっ!! ど、どうしたんですかっ!?」
紅茶を口から吐き出した受付嬢が、顔を青くしながら机に突っ伏すバスタの顔を覗き込む。
「……バスタさん、ですよね?
包帯だらけですけど……大丈夫ですか?」
「ご覧の通り、大丈夫じゃねぇ……。
それより、サルカスかクロエは来てねぇか?」
「クロエさんは、さっき血相を変えて酒場にやってきました。
あなたとサルカスさんを捜していたみたいですけど」
「あの女が血相変えて……?
それじゃあ、サルカスは見てないか」
「サルカスさんは……たしかセシリアちゃんと話してるのを見たような……?
でも、もう酒場にもいないみたいですね」
「ちっ。どっちも会えそうにねぇな」
「そういえば、クロエさんからあなた達に伝えてほしいって伝言を預かってるんでした」
「伝言?」
「でんぷなが連れていかれた……って。
でんぷなって何ですかね? 動物か何か?」
それを聞いてバスタが脳裏に思い浮かべたのは、殺し屋の女のことだった。
あの女がなぜ自分を襲ったのか? その答えがふと思い立ったのだ。
――彼女を連れ出した。
女はそう言っていた。
その言葉で思い当たることと、あの殺し屋の女の共通項は、ひとつしかない。
「あの女、ディンプナを取り返すために俺を襲ったのか……」
ディナエの話を信じるならば、娼館の長はディンプナを煙たがっていた。
そのディンプナを、殺しを犯す覚悟をしてまで取り戻そうとするなど、ディンプナとあの女の間には何か深い繋がりがあるに違いない。
女がディンプナを連れ戻しに来たのならば、帰る場所は決まっている。
白面金毛女楽――そこへディンプナを連れ帰るつもりならば、あの女の行動もある程度予測がつく。
「だが……ちょっと真っ向からやり合うのは上手くねぇな」
昨晩の戦闘を思い返して、屋外で女の駿足を相手にするのはバスタには分が悪い。
ましてや、こんな体調ではなおさらだ。
次に女と対峙することになった場合に備えて、綿密な準備をしておかなければならない。
まともにやり合える相手でないのなら、搦め手で責めるのがバスタのやり方だ。
「おい。工房に職人はまだ残ってるか?」
「え? あ、はい。でも、忙しいんじゃないかなぁ。
リバーサイドストリートでバザーイベントがあるんですけど、そこで使う装飾品の検品を行ってるようなので……」
「仕事の邪魔はしないさ。工房にある貸し出し用の武器を借りたい!」
その時、バスタの頭の中にはすでにある目論見があった。
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