第2章

体温計を取りに行くと言ってお嬢様の部屋から出てきた私は、すぐに取りに行かず、隣の自室に直行した。

(危ねぇ……不覚にもときめいてしまった。だって裾掴んで『行かないで』とか普通恋人にするやつだろ。しかも病気で上気した頬に涙目とかなんか[#「なんか」に傍点]……いや、ダメだダメだ。落ち着け俺。深呼吸、深呼吸) 

ゆっくりと吸っては吐いてを繰り返し、なんとか冷静さを取り戻そうとする。あくまで私はお嬢様の執事である。それ以上になっては行けない。十分に分かっている。しかし、何年も面倒を見てきたのち、自分の本当の思いに気づいてしまった。俺はお嬢様……いや、兎美うみのことが恋愛感情として好きなのである。普段の明るくて人に気遣いができるところもそうだが、病気の時には人が変わったかのように甘えたになるところも大変可愛らしいと思う。この仕事を辞めさせられるくらいなら死んだ方がましだとすら思えてくる。兎にも角にも、この思いがばれてしまわないように必死に取り繕って生活している。演劇部だったことが、こんなことで役に立つなんて世の中何が起こるか分からないものだと苦笑する。そして、これ以上吸えないという程息を吸って勢いよく吐き、「執事役」を演じるスイッチに切り替える。

「さて、これ以上お嬢様を待たせるわけにはいきませんので、行きましょうか」

切り替わったかどうかを確認するために声に出す。手早く本来の目的の体温計を取りに行き、扉を二回ノックすると返事がなかったので、様子を見るために入ることにする。ベッドの近くに行くと少し乱れた荒い呼吸で眠っていた。もう一度体温を確かめようとさらに近づくと頬に乾いた涙の痕があった。

「遅くなってごめん……申し訳ありません」

寝ているという安心感からか、口調が迷子になりかけ、慌てて言い直す。そして、

(平常心、平常心、平常心……)

と呪文のように頭の中で繰り返す。お嬢様から目を逸らし気味に、彼女の額に手をあてると想像以上に熱かった。冷やしたタオルを持ってこよう。タオルと一緒に頭も冷やそう。そう考え、その場場を離れようとすると額にやっていた指に触れられた。起こしてしまったかと顔を覗くと目が溶けてしまいそうなほどトロンとしていて寝ぼけているようだった。

「手、冷たくて気持ちいい」

と、何とも無防備な笑みを向けてきた。それだけならまだよかったのだが、

「ねえ、江川、兎はね寂しいと死んじゃうんだよ。だから江が……龍歩りゅうほは私のことおいていかないでね?」

と、お嬢様は言った。この言葉は病気の時の……お嬢様の口癖である。この時は私のことを下の名前で呼ぶのである。口癖なわけだから、何度も聞いているのだが、一向に慣れない。それどころか聞けば聞くほど愛おしく、理性がぐらついてしまう。初めて言われた時は思わずキスしてしまいそうになり、慌てて外へ出て、土砂降りの雨に身を預け正気を取り戻そうとした。次の日は風邪を引いて大変だったわけだが、まぁそれはおいておこう。大事なのは今どうするかということだ。はぁ……

優狼ゆうろう、お前の妹どうなってんだよ……」

思わずそう呟いた。

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