三章 呼ぶ声と -漆拾陸夜 わたのはら-
あれから、一週間近くが経とうとしていた。小野のパーソナルスペースはずっと狭くなり、盆の頃の発熱事件以来薄れていた遠慮がほぼなくなった。
向かいに座る事がほとんどだったのに、隣に来て手や髪に触れる。構わず本を読めば、肩や膝を枕代わりにされた。夜に来て少し話して帰るだけだった百夜通いは、いつの間にやら昼から入り浸って夕飯を共に食べるようになっている。毎日ではないが、互いに空いた時間の大部分を傍で過ごしていた。
友達というにはあまりに近く、恋人というには薄い日々をなんと言おう。慣れとは恐ろしいもので、小野の体温に驚かなくなりつつある。先日は読書に夢中で、足がしびれるまで枕にされていることに気付かなかった。
「中、こんな風だったんだ」
昼頃やって来た小野は、図書館に入り浸るつもりでいた僕を送り届けると中までついてきた。もう一年近く週一ペースで通っているが中に入るのは初めてだったらしく、探検してくると言って姿を消した。
僕が数冊見繕って読み始めた頃、分厚い本を二冊携えて僕の隣に腰を下ろした。表題には見慣れない文字が並んでいた。
「図書館てフランス語の辞書もあるんだね」
「辞書はわかるが、フランス語の本もあったのか?」
「ううん。こっちは日本語のレミゼ。こないだ原作読んだから、訳されるとどうなんのかなって」
隣に腰かけた小野が二冊を広げて読み始める。原書を思い出しながら読んでいるのか、時々首をかしげては辞書をひく。難しい顔をした小野の脳内で言葉がどう踊っているのかは知らないが、多言語を操るということは世界がずっと広がるということなのかもしれない。
少し羨ましく思いながら、鞄を漁ってメモ帳とペンを取り出す。辞書の傍に置くと、気付いた小野がありがとうと笑った。少しずつ二種類の言葉で埋められていくメモ帳を眺めていると、ふと、僕に向けられた言葉が混じっているのに気付く。
『なに?』『本読まないの?』『フランス語、きょーみある?』
素直にうなずくと、メモ帳のページを捲って新たに書き始める。
『はじめまして』『こんにちは』『わたしは草町真です』『ご機嫌いかがですか?』
中学英語の基礎教育のような文が、日本語とフランス語、その読み方で並ぶ。片仮名で綴られるフランス語は、小野の口から零れた時の丸みを感じなくて違和感があった。
「小野が好きな言葉は?」
一瞬きょとんとして少し考えるそぶりをすると、さらさらさらと書き付ける。
「À cœur vaillant rien d'impossible.勇気を持ってれば、できないことなんてない」
図書館で隣に座って、極近くで声を潜めて紡がれたそれに字面を追っていた視線を上げる。晩夏の日差しに柔く包まれた伽羅が、揺るぎもせず僕を見ていた。
ふと、笑みに細められた目が少し近付く。額同士が触れそうな距離で、内緒話でもするかのようだ。
「草町は?好きな言葉」
問われて、いくつかの単語や一節が脳内を通り過ぎて行く。ペンを受け取って三文字書いた。
「言の葉?」
頷いて、手の中の本に綴られた文字をなぞる。事象を深く、世界を鮮やかに、感情を細やかに彩る日本語を美しいと思う。色んなものを表現する多彩さを持っているのに、それでも言い表せないものをなんとか形にしようとする心を愛おしいと、思う。
「好きな言葉はいくつかあるけれど、特定の言葉がと言うよりは言葉そのものが……言葉が紡いできた文化が、僕にとって特別なんだと思う」
生まれた時から当たり前のように傍にあって、僕を構成する大部分を占めている。それは言葉で、世界で、人の心だ。
僕の中には言の葉が溢れていて、それでも僕自身から生まれてくるものは僅かで、外からの供給を求めて止まない。
「小野が話すのを聞いて……僕が知らないだけで、きっとどこの国の言葉だって綺麗なんだろうなって、思うようになった」
生涯をかけても世界中の言葉を知り尽くすことは適わないだろう。日本語に限ってさえ人の数だけ言葉が、心がある。それが真理であることを理解しているけれど、少しだけ寂しく思う。
「知ってる?フランス語って、愛を語る言葉なんだって」
言いながら、また一言メモ帳に小野の言葉が綴られる。恐らく以前囁かれたそれが再び音になることはなく、伽羅の中の翡翠が優しく笑みに崩れた。気道がねじれるような感覚に、眉間に皺が寄って口が歪むのが分かった。
小野の、お世辞にも綺麗とは言い難いが素直な字を睨む。隣でくすくすと笑いを堪えながらも本に向き直る気配がした。それに倣って、メモ帳から視線を引き剥がして手元の本に落とす。 なかなか集中できなかったが五分もすれば何に邪魔されていたのかも忘れ、二冊目を読み終えた辺りでポケットに入れていた携帯が震えた。アルバイトに行く時間を忘れないようにセットしておいたアラームを切る。ふと上がった視界に、机に突っ伏してこちらを見る小野を見つけた。
「行く?」
「ああ」
「送ってく」
いつから見ていたのだろう。メモ帳は、最後に見た時から更に数枚が埋められていた。本を戻すために立ち上がって逸らされた視線に安堵する。数秒遅れて後に続いた。
来た時と同じようにヘルメットを被って後部座席にまたがる。スクーターに乗っている間はあの熱から解放されることが救いだった。小野の目は時々僕をとかさんばかりに強い色をする。
ぐるぐる、ぐるぐる。感情が渦になって、体の中が洗濯機になったみたいだ。そのくせ、少しも綺麗にはなってくれない。漂白剤が欲しい。けれどそればかり入れたら傷んでごわごわになってしまう。柔軟剤も必要だ。一人暮らしのおかげで家事が得意でもないのに思考まで家庭的になった。
目の前で風を孕んだ小野のTシャツがはためく。ヘルメットを被った頭を小野の肩口に寄せて、片手を薄い布地に伸ばした。小野の母親がきちんと手入れをしているであろうその服を見て、去年ダメにしたシャツを思い出す。有川先輩に押し付けられたそれは、普段僕が着ている安物とは違って手入れに気を遣わなければならなかった。
特別な扱い方をしなければ壊れてしまうものは確かにある。壊したくないのなら、どうしなければいけないのか。大事なものを守る為の判断を間違わないために、知らなければならないことがある。
「天命を 知らぬ我が身の 標なれ 百夜の先の 我らに会わん」
「何か言ったー?」
「なんでもない」
ぼそぼそと口の中で紡いだ即興のうたは、誰に伝わることもなく風に流されていく。
答えを出すその日まで、あと一ヶ月もない。
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