三章 呼ぶ声と -漆拾夜 さびしさに-
「あれ、出掛けてたんだ」
「……ああ」
八月の終わり、蜩が鳴く夕暮れ時に帰宅すると、丁度呼び鈴を押そうとしていた小野がいた。片手を上げたままこちらに声をかけた彼に生返事を返して近付き、特に会話もなく鍵を開けて部屋の中へ入ると数秒遅れてついてくる気配があった。
ベッドへ登って窓を開けると、そのまま壁を背もたれに座り込む。サッシに頭をぶつけないよう猫背になりながら、ぼうっと曲げた片膝を抱くと声がかかった。
「草町?どした?」
小野がベッドに頬杖をついてこちらを覗き込んでいる。彼の栗色の髪が蛍光灯に照らされていた。照明は僕が付けたんだったか、彼が付けてくれたのか。
不思議そうな顔をした小野の顔をしばらく眺める。眉間に皺が寄った。これは少し前に連日のように見せられた顔だ。体調不良を疑っているのかもしれない。
体調は問題ない。今日はいつもよりたくさん歩いたしクーラーの効いた所にも居たけれど、口数が少ないのは考え事をしているからだ。
「……崇子さんに、デートしてくれって言われた」
「え……」
きっかけは藤崎のおばさんの発言だった。崇子さんと出掛けることをお願いされて断る理由を僕は持たなかったし、崇子さんが丸め込まれる様に承諾したそれをデートとは呼ばないはずだった。
目的地への移動中、電車に揺られながらぽつぽつと会話をする中で彼女は言った。
『草町くん。わたしと、「デート」してください』
まっすぐに目を見て言われた。
三つ年下の教え子の女の子は、その時確かに女性の顔をして僕を見ていた。
「僕は何もできなかったけれど、楽しそうにしてくれたんだ」
遊び慣れていない僕の手を引いて、二人で楽しもうとしてくれているのが伝わって来た。同じものを見て、話して、楽しそうな彼女の笑顔を可愛らしいと思ったけれど、それは見覚えのある切なさを秘めた笑みだった。揺れた瞳に、少し小野を思い出していた。
「いいなあ……草町と、デート」
そう呟いた小野の横顔に、崇子さんのそれが重なる。
理由の見つからない違和感と焦燥感にじわじわと首を絞められているように、ほんの少し息苦しい。気のせいだと思うのに、酸素を求めて首周りの見えない何かを除けようと知らず右手が伸びた。
「……行こっか」
「え?」
主語のない提案に顔を上げると、絡んだ視線の先で目が細められた。す、と右手が差し伸べられる様は自然な動きだったのに、何故かゆっくりに見える。
「してくれる?オレと、デート」
僕に向けられる指先と、誘う口元、一瞬揺れた瞳。似ても似つかないのに、今日の崇子さんにダブって見える。手を伸ばしても届かないと知っている、切なさを孕んだ声がどうしようもなく僕の呼吸の邪魔をする。
コンビニに行く時も、通学路を歩く時も、デートみたいだと笑ったのは一月も前だ。みたい、ではなくデートをしようという彼に、いつもの無邪気さは見えない。
小野と崇子さんのデートで何か違うものがあるのか、知りたい。
失礼な話だが、崇子さんの隣を歩いている時に何度も小野ならどうしただろうと思った。比較対象があれば、小野に対する自分の気持ちがどんなものなのか判るかもしれない。
虚勢を張って微笑んでいるくせに、指先はかすかに震えていた。彼のためではなく自分のために手を伸ばすことを躊躇ったのは数瞬で、触れる熱い手に心の中で謝った。
僕の心中を知ってか知らずか、小野は笑みを深くして軽く指先を絡めて僕の手を引く。帰ったばかりの自室を後にして、再び夏の余熱の中へ戻った。
「行きたい所があるんだけど、いい?」
駐輪場でヘルメットを受け取りながら頷く。普段の行動範囲が大学と図書館と行きつけのカフェくらいしかない僕に、行きたい所を聞かれても黙り込むしかない。日の暮れた時間からでも行ける場所となれば尚更だ。
「つかまって」
いつものようにセッティングされた座布団の上に座って、いつものように発車にそなえていると小野から声がかかった。
「つかまってるぞ?」
「そうじゃなくて、腰」
「腰?」
「デート、だろ?……ちょっと暑いかもしんないけど」
「……ん」
一般的なデートでスクーターに二人乗りなら、確かに腰に手を回すことが多いだろう。そんなものかと、腕を伸ばして小野の腹の辺りで自身の指を握る。その状態で体を離しておくのは地味に辛くて、つかまれと言ったのは小野だしと肩に頬を寄せた。
エンジンを吹かす音を、普段は滅多にしないのに大きく響かせてからスクーターが動き出す。
「何処に行くんだ?」
いつもより近くにある小野の顔に、いつもより少しだけ小さい声をかけた。
「ひーみーつー!」
小野の声はいつもより少しだけ大きかった。普段、スクーターの荷台から見えるのは景色とヘルメットを被った後頭部、それから背中だが、今日はほとんど景色しか見えない。視界の端で栗色が踊って、ヘルメットからはみ出た小野の髪が風に遊ばれているのに気付く。
会話もなくただ栗色を眺めていると、赤信号に従ってスクーターを止めた小野が振り返った。思っていたよりずっと近い所に顔があって少し驚く。
「こ、コンビニ、寄る?」
「……うん」
動揺したのは小野も同じようで、すぐに前を向き直して吃りながら発した声は裏返っていた。
コンビニで夕飯とおやつを調達した小野が最終的にスクーターを止めたのは、僕が京都からとんぼ返りしてきた時に立ち寄った公園だった。車道の端に寄せて降りて中に入る。
前回は日付が変わるまであとわずかだったから人気はなかったが、今日はまだ宵の口だ。公園の中央、フェンスに囲まれたコートではしゃぐ若者たちの声が響く。植木越しで直接は見えないが、恐らく同年代だろう。
楽し気な声をBGMに、懐かしくも思えるベンチに座った。お茶のペットボトルを玩びながら、小野がアイスの封を切るのを眺める。小野が白い塊の一つにかじりつく。薄い求肥で覆われたそれは、少し尾を引いてからちぎれて小野の口に収まった。
「草町も食う?」
「……一口」
丸々食べたら腹が冷えそうで買わなかったけれど、まだ昼間の熱気の残る蒸し暑い空気に耐えかねて味見を乞う。楊枝に刺さったそれは食べやすそうにやわらかく溶け始めていて、受け取ったら落としそうだった。差し出された塊に口を寄せる。
「へへ、デートっぽい」
「……そうか?」
照れ臭そうに笑う小野を眺める。胸の辺りが痒いような、締め付けられるようなこの感覚はなんだろう。
「ここで、何をしたかったんだ?」
「ん?別になんも。一緒に出かけて、だらだらしゃべったりしたかっただけ」
隣に座る小野の手が、僕のそれのすぐそばにある。直接は触れないけれど、確かに傍にあると感じられる距離。現状こそが特異で、本来あり得ないものであるはずなのに、惜しいと思うのは何故だろう。こちらを覗きこむ伽羅に、我知らず執着でもしていたのか。
コートの方から女性の笑い声が響いた。ふと、フェンスの向こう側の楽しげな若者たちに混ざる小野を想像する。僕が知らない誰かたちと談笑し、さっきの顔を、もっと言えばここ二ヶ月で見た様々な顔を誰かに向ける様を簡単に思い描けた。
けれど、想像の中に自分はいない。きっと、今ほど贅沢な時間はないのだろう。僕が今いるこの場所は、いつか僕ではない誰かのものになる。
「!……な、に?」
てし、と額を何かで叩かれた。見慣れた緑が更に数回額を叩く。
「考えちゃダメとは言わないけど、一人で悩み過ぎて……そんな顔すんのはダメだよ」
いつの間にか顔の傍にあった小野の右手がふに、と僕の頬をつまむ。
「オレにはわかんないよーな難しいこと考えてんのかもしんないけどさ。目の前にオレいんのに、寂しそうな顔しないでよ」
小野がそれを言うのか。僕にはわからない辛さを隠して笑っているくせに。
頬に触れる指先は相変わらず熱い。僕たちには体温だけでなく行動にも言葉にも温度差があって、境界線はゆらゆらと曖昧なくせに混ざり合うことはない。思いがけず包まれてしまえば呼吸すらままならなかった。
温度差だけならば、いつかはなじむだろうか。海水魚と淡水魚のようにすむ世界がそもそも違ったら。
渡された札は、秋の夕暮れの寂しさをうたう。小野の背後に見える空は未だに夏の色を残していたが、既に濃紺が広がっていた。日の短さが、夏が終わることを告げる。
夏は得意ではないからいつも秋を待ち遠しく思っていたのに、今は少し名残惜しく思う。離れて行く熱さに、手を伸ばしそうになった。
終わらない夏はない。やがて秋が来て、冬が過ぎ、春になる。移ろう季節と共に、僕たちも変わっていく。
「……もう少し涼しくなったら、ここで肉まんが食べたい」
変化の中で、それでも傍にいたいと思うのは我が儘だろうか。ずっとでなくていい。時々、思い出したように会って話して、変わらない笑顔が見たい。
「そうだね。昼間は日当たり良さそうだし、気持ちいんじゃない?」
小野の視線が一度落ちて、見上げた先には何もなかった。口元は笑っているのに、虚空を見つめる目は空っぽだ。
ほしかった、また一緒に来ようの一言が紡がれることはなく、ただ静かな今だけが在る。横顔を見つめることしか出来ずにいると、伽羅が薄闇の中で眩しそうに歪んだ。
「どうして、そんな顔で笑うんだ」
ずっと感じていた、小さな違和感の正体。それはきっと、小野の中の消えない諦念。
「小野は笑って、僕を好きだって言って……でも心の底で諦めてる。答えを出すのは僕じゃないのか?どうして小野が僕の気持ちを決めるんだ」
僕が文句を言うのはおかしいとわかっている。小野が想定している答えが出る可能性は消えない。けれど、そればかり見ていてほしくない。
離ればなれになるために、毎日小野を待っているわけではないのだから。
「勝手に諦めて、向き合ってないのは小野の方じゃないのか……!?」
絞り出した声は、泣き叫ぶのを堪えたように掠れて落ちた。
「応えられなくたって、わからなくたって、僕は小野を拒絶しない。今までもそうだったし、これからだってそうだ。中途半端なのは解ってる。傷つけてるのも知ってる。それでも、僕は小野を拒絶しない。したくない」
驚いたように見開かれた目が、歪んで、揺れる。俯いたままの小野の左手が、僕の手に触れた。簡単に振りほどける強さで握られて、同じ強さで返す。逆の手がのびて、僕の頬に触れる。初めて触れた時のように、恐る恐る。
僕は逃げない。熱い手のひらを右手と左頬に感じながら、まっすぐ小野を見る。
指先が触れるだけだった手のひらが、頬を包んだ。
「ホント、かっこいいなあ……強くて、きれいで、まっすぐオレを見てくれる目が、好き」
顔を上げて告げられたから、応えるのも忘れて瞳に見惚れた。
本当に、綺麗な色だ。薄闇でなお光を集めて、眩しささえ覚える。
「秋になったら肉まん食べよう。冬はおでん食べたい。春はお花見して、夏になったらまたアイス食べよう。草町の隣はオレの場所だって、思ってもらえたら……スゲーしあわせ。だから」
頬を包んでいた手が、首の後ろにまわって引寄せられる。晩夏の空気ごと抱き寄せられた。体の間にうっすら残った空間が、余計に近さを実感させる。
「他の誰にもあげないで。オレにちょうだい」
耳元で響いた声は少し震えていたけれど、今まで感じていた違和感はなかった。それに安堵するように目を閉じる。
百夜通いの最初の二人は、触れることも直に会うことも時代が許さなかった。僕らはこうして共に出かけることも触れることも出来て、言葉や存在だけでなく体温で気持ちを伝えられる。
彼らは僕らを羨むだろうか。それとも、恵まれた環境にいてさえ答えを出すに至らない僕を、笑うだろうか。
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