三章 呼ぶ声と -漆拾玖夜 あきかぜに-

 学祭まで二月を切った夏休み明け。あきづきのメンバーが久しぶりに顔を揃えた部室には、様々な紙にそれぞれの字で書かれた和歌がところ狭しと並んだ。

 今日は一回目の選定の日だ。提出された作品の中からある程度絞りこみ、必要と判断されれば推敲が言い渡される。二週間後に新しいものと合わせて再選考にかけ、更に一週間後にも同じ工程を経て百首が選ばれる。選びながらジャンルを分けたり、全体の構成を考えて新しく作るもののテーマを決めたりする。

 一回目の選定は初見ということもあって時間がかかり、集まったのはおやつ時だったが日が暮れ始めていた。

 選び方は単純で、気に入ったものに付箋を付けていく投票制だ。付箋には感想やダメ出しを書くこともできるが、主に文月君の言葉の誤用を正すくらいしかしなかった僕が比較的早く選考を終えたのは道理だろう。

「感想は?」

 一人、輪から外れて休んでいた僕の前に、同じく選考を終えたらしい有川先輩がコーヒーの入ったマグカップを携えてやって来た。差し出されたそれをありがたく受け取り、隣に腰を据えて自分の分をすする有川先輩の満足気な顔を眺める。

「それぞれ個性があって面白いと思います。紙とか字も、出来た瞬間を表してるようで飽きなかったですし」

「そうだね、アンソロジー的なまとめ方をするなら、このままでも面白いかも。ディレクターズカット版みたいなのも作ろうか。歌集とは別に」

 言外に清書は要らないのではと伺いをたてたが、あっさりと却下された。むしろ仕事が増えた気がする。

「世の中にはいろんな恋のうたがあるけど、同じものはないんだなって感心するよ。男女の違いはもちろん、無自覚な恋も面白い」

「はあ……」

 同じテーマでも視点の違ううたは確かに面白かった。だが、無自覚な恋のうたなどあったろうか。記憶をたどっていると、有川先輩が楽しそうに笑っているのに気付く。

「ねえ、草町くん。無自覚だった恋を自覚した時、人は……うたはどんな風に変わるんだろうね。その変化が、俺は楽しみで仕方ないよ」

 笑みに歪んだ意味深長な目に見つめられて居心地が悪い。何が言いたいのだろう。彼がはっきりとものを言わないのは、人をらかっている時か、言葉遊びを楽しんでいる時か……

「本当に、楽しみだ」

 相手の本当の答えを待っている時だ。欲しい言葉がある時は、有川先輩は相手に悟らせずにそこへ誘導できる。待つのは、その人の真実が欲しいからだ。

「ところで草町君。小野君は元気?」

「はあ……特に体調を崩したという話は聞きませんが」

「学祭、暇してるなら手伝ってって声かけておいてくれる?飯くらい奢るからさ」

「ご自分で頼めばいいでしょう」

「草町君が頼んだ方が確実だろ?」

 有川先輩が狙った獲物を逃すとは思えないが。素直な感想を胸の内に留めたのは、いやな予感がしたからだ。しかし、いやな予感ほど当たりやすいものはなく、一言発言を自粛したところで回避できるものでもない。

「小野君は、どんな恋をしているんだろうね」

 小野が僕の頼みを断らないだろう理由を、有川先輩は正確に理解しているのだろう。確信に至った理由は知らないが、今までの僕や小野の態度、もしかしたら僕のうたも、きっかけの一つかもしれない。

 小野の恋とは、どんなものだろう。出口をふさいでいるのは僕なのだろうが、そこが迷路なのか、ただの空間なのかは定かではない。

「ちなみに、俺は今望み薄な年下の女の子に恋をしているけど、そこそこ楽しんでいるよ。脈なしなのが辛いところだけど」

「はあ、そうですか…………え、脈なし?有川先輩が?」

「うん。あんまり眼中になくって泣けてくる」

 開いた口がふさがらないまま、まじまじと有川先輩の顔を眺めてしまった。そこには、今まで見たことがないくらいに穏やかで、心底楽しそうで、ゾッとする程物騒な笑顔があった。




 大学の構内で小野を見つけた。

 図書館へ向かう途中で見慣れた栗色が見えた気がして視線を向けると、果たして校舎の入り口近くの木陰で誰かと話している。死角になって見えないが、小野の目線が低いから相手は女性かもしれない。

 十センチくらいなら見上げるのもさほど苦ではないが、二十センチ以上身長差があると見上げる方も見下ろす方も首が疲れそうだなと思いながら視線を外して通りすぎる。楽しげに会話する小野は僕に気付かず、僕もまた振り返らなかった。

 図書館で本を物色しながら、ふと先ほどの光景を思い出す。僕は余りよそ見をしないし、大学の敷地内なら歩きながら読書することもままある。たまたま誰かを見つけるということ自体が珍しかった。

 小野だったら、見つけたら僕に声をかけるだろうか。話しかけてくる時は、僕が誰といるかは余り気にしていないように思う。僕が立ち話をするような人間が限られているからかもしれないが。

 そういえば、友人と話す彼をほとんど見たことがない。有川先輩や文月君に遊ばれない、普通の小野はどんな人間だろうか。

 僕の口数が少ないからおしゃべり好きのように勘違いしそうになるけれど、小野は聞き上手だから友人たちにもきっと好かれているだろう。最近は特に僕に構ってばかりいるから、付き合いが悪いと文句を言われているかもしれない。

「あ、こんなトコにいた」

 他人の友人関係を勝手に心配していたら当の本人が現れた。通路から本棚を覗いて僕を見つけた小野がとことこと近づいてくる。先ほどまで友人と一緒だったはずなのに、もう僕の隣にいる。

「どした?あ、何か届かない?」

 無言で小野の顔をじっと見ていたら、首を傾げて問われる。懐かしい記憶がよみがえった。初めて会ったのも、この図書館だ。応えない僕の顔を覗きこむ伽羅を遮るものはなく、栗色の奥で瞬きを繰り返す。

 どうしてあの時、声をかけてくれたのだろう。

「小野。聞きたいことがある。少し時間いいか」

「ん?うーん……バイトあるから三十分くらいで出ないとなんだけど……夜のがゆっくり話せると思う。どうする?」

 確めたいことを聞き始めたら次から次へと別の疑問も生まれそうで、どのくらいかかるかわからない。今すぐ聞いてしまいたい衝動を抑え込んで、僕が届くギリギリの高さの本を本棚から一冊抜き取った。

「それなら夜でいい。じゃあ後で」

「え?うん……」

 少し話し足りないような顔の小野を置いて貸し出しカウンターへ向かう。ついてくる気配は数秒で消え、本を借りて一人で家路に着いた。

 一人の部屋でお茶漬けをすすり、腹がふくれたところで本を読もうと開くのだが内容が頭に入ってこない。しばらく粘ったがどうしても駄目で、諦めて天井を仰いだ。

 浮かぶのは、昼間見かけた小野の後ろ姿だ。楽しそうだと分かっても、その顔は見えなかった。小野の笑顔はいくらでも思い出せるのに、あの背中がどんな顔で笑っていたのか想像出来ない。

 だからどうしたと思う。思うのに、気になって仕方ない。どんな顔をしていたかなど、本人だって答えられないだろうことにいつまでも囚われているのが無性に癪だった。

 このむしゃくしゃした気持ちはどうしたら晴れるだろう。滅多に認識しない感情をもて余している。ため息が漏れても、もやもやが一緒に吐き出されることはない。

 ゆっくりと瞬きと呼吸を繰り返す。脳内で小野の笑顔や奇行が思い出されて、僕の立ち位置を顔も見えなかった昼間の誰かさんに置き換えてみる。キンと冷えた冷水が一滴だけ落ちて、心にさざ波が立った。

 何もおかしなことはないはずだ。小野の熱いくらいの視線にあてられていて感覚が狂っているのだろう。傍にいることに、近い距離に慣れ過ぎてしまっただけだ。

 頻繁に会うのも、笑いあうのも普通だ。けれど、それは個人の特権ではない。小野のようなタイプの人と縁がなかったから、少しだけ寂しいような錯覚を覚えているだけ。

「さびしい、か……?」

 自分で考えて、似合わない単語に首を傾げた。本当に幼かった頃はそんなことも思ったかもしれないけれど、習慣になってしまえば人は慣れる。

 仕事に行く母の背を見送って、毎日部屋に一人でいれば嫌でも慣れた。慣れてしまえば、思い出すこともなく忘れていくだけだ。不満があるわけではない。当時も今も母には感謝しているし、尊敬もしている。

 一人でいることが普通だったから、むしろ義父と三人で暮らすようになって仕事の負担が減った母と一緒にいる時間が増えた時は戸惑った。お互いに口下手だから会話も弾まないので、義父はよく僕たちのぎこちなさを笑って取り持ってくれた。

 気付けば、小野はいつの間にか家族よりも近い存在になっていた。実と同じくらい物理的に近いし、僕の精神状態にまで影響を持つ。だから僕の中で特別とか大切とか、有り得もしない選択肢が見え隠れする。

 聞きたいことがあるなんて、言わなければよかった。疑問が解消されても、刺が刺さって抜けない感覚はなくならない気がする。忘れていたはずの、一人取り残される虚無感がすぐそこまで迫っている。離れるために小野を待っているわけではないと思ったのは本当なのに、この距離がこの先もずっと続く未来は想像できない。

 世の中はたくさんの出逢いと別れに満ち満ちていて、人は何度も何度も繰り返す。一生に何人も恋人ができる人もいるけれど、僕は大事な人が離れていくことに何度も耐えられる程強くない。

 だから、大事なものはあまりたくさんは要らない。人付き合いが苦手だと言い訳をして人と深く関わらないのも、僕自身を守るためだ。

 小野は数少ない僕の友人で、これ以上大切に思うのは少し怖い。僕は不器用で大事にできないし、失したくないと思ってもどうしたらいいのかわからない。

 ふと、眦に誰かが触れて目を開ける。ぼやけた視界に栗色が見えた。

「草町、だいじょうぶ?悲しい夢でも見た?」

 夢など見ただろうか。体を起こそうとしたら肩や腰がギシギシ音を立てそうだった。瞬きのつもりが寝入っていたようで、ベッドに頭を預けていたはずなのに床に横になっていた。

「勝手に入って悪かったけど、チャイム押してもメールしても電話しても反応ないし、鍵開いてて床に倒れてるし、心臓止まるかと思った」

「……わるい」

「ホントに大丈夫?ひどい顔してるよ」

「……顔、あらってくる」

 ゆっくり立ち上がって洗面所へ向かう。備え付けの鏡に映った自分の顔は確かにひどかった。少し赤くなっている目がどこか虚ろで、いつも以上に生気がない。

 冷水のままゆっくり顔を洗って居間へ戻る。拭き残した水滴が前髪から落ちて頬を濡らした。

「はい。珍しく飲めそうな牛乳あったからあっためた。飲める?」

 頷いて受け取ろうとしても渡してもらえず、先に座るように促される。座布団に座って、膝を抱えるようにしながらホットミルクを飲んだ。三口程飲んで落ち着くと、今度はタオルを差出される。

「目、あてとくときもちいから。熱いから気を付けてね」

 マグカップとタオルを交換して、言われた通りに両目に押しあてる。じわじわと暖まって、血流が戻ってくる。膝頭に置いた手の甲にタオルを乗せて、そこに顔を押し付けるようにして動かずにいると、ゆっくり頭を撫でられた。

「落ち着いた?」

 泣いていたわけでもないのに、接し方が泣いている子どもをあやすようだった。幼さの残る言動もまだまだ目につくのに、こういう所は将来いい父親になるのだろうと思わせる。

 ありがとう、と呟いた声は届いただろうか。暖かかったタオルがすっかり冷えるまで、小野は何も言わずに僕の頭を撫で続けた。

「どうしてあの時、僕に声をかけたんだ」

「どの時?」

 僕が何も言わないうちは小野が話すことはない気がして、あまり聞きたくなかったけれど問いかけた。聞きたいことがあると言っておいたから、戸惑うこともなく質問の意図を量ろうとする。

「初めて、逢った時。図書館で」

 頭を撫でる手が止まって沈黙が降りる。ぬくもりが離れて、少しだけ顔を上げると間近で覗き込まれた。

「どっちかって言うと、それはオレが聞きたい」

 何を言われているのかわからずに、大真面目な顔を見つめ返す。じっとこちらを見ていた伽羅がくしゃりと懐かしそうに歪んだ。

「なんでって聞かれたら……あの時の黒が、忘れられなかったからかなあ」

「あの時?……わっ」

 今度はこちらが時間軸を見失う。頭上に疑問符を飛ばしていると、突然後頭部を掴まれて引き寄せられた。ぶつかると思って閉ざした瞼を衝撃が襲うことはなく、そっとぬくもりが触れて離れていく。

 驚いて再び目を見開く頃には抱きしめられていた。膝を抱えて座っている状態だから体は離れているけれど、首に腕が回って小野の肩に顔が押し付けられる。

「図書館は、初めてじゃないよ。もっと前。忘れられなくて、入学式で見つけた時はメチャクチャ嬉しかった。すぐ話しかけたかったけど、腹決めるまで結局一ヶ月もかかった」

「それは、どういう」

「覚えてないなら、それはそれでいいんだ。今のオレを見てくれるならそれでいい」

 ぎゅうと腕に力がこもる。小野の匂いがする。柔軟剤に混ざる、やさしい、甘さを含んだような小野の匂い。首筋に小野の息がかかる。

「やっぱり昨日より今日の方が好きだ。明日はもっと好きになる。今が最高に好きって思うけど、きっとオレが死んだって草町がいなくなったって好きな気持ちはなくなったりしない。嫌いだって思う日が来ても、その嫌いなトコがどーでもいいくらいに好きなんだから関係ない。オレは」

「待て、何を」

「遠慮しないって決めたんだ」

 熱い息がかかっていたそこに、柔らかいものが触れる。それは静かに移動して、耳の裏をかすめた。

「恋人になれたらって思うけど、そんなのアリエナイって思ってた。今も自信なんかない。でも、好きなんだからしょーがないじゃん。草町はかわいい。大事にしたい。……さわりたい」

 ぞくり、と体温が上がる。先ほどまで白い顔をしていたのに、どんどん赤くなって行くのが見えなくても分かる。

 耳の奥でドクドクと鳴る脈の音が邪魔して小野の声が聞き取り難い。

「イヤなら、逃げたいなら本気で逃げて。草町がオレを好きにならなくても、誰がなんて言っても、オレはずっと、草町が大好きだよ。草町を好きじゃないオレはもう、オレじゃないんだ」

 逃げろと言うくせに、後頭部をしっかり掴んで逃げ道を塞ぐ。一生は誓わないのに、ずっとを口にする。

 応えられないと思うって、言ったじゃないか。それなら友達でいいって、言ったのに。

 思考も感情もぐちゃぐちゃになって、いつまでも引かない顔の熱を見られたくなくて、逃げられないことを言い訳に動かなかった。

「ちゃんと抵抗しないと、イタズラするよ」

「……もうしてるだろ」

「止めてほしかったらお菓子くれないと」

「する前に言うべきことがあるだろう。あと、時期が早い」

「まーまーそう言わずに」

 ふと、拘束が緩み、顔を引き寄せられて一瞬後に小野が何をしようとしているのか理解する。

「……い、いやだ」

 反射で動いた手が、小野の唇を塞ぐ。両手の厚みの先に天鵞絨になりかけた伽羅がある。

「ひっ!?」

「かわいい。ずるい。なに今の」

 手の平を舐められた。ぞわりとよくわからない何かが体中を席巻する。小野はと言えば、不服そうに顔を歪めてぶつぶつと文句を言っている。罵詈雑言を浴びせてやりたいのに、舌の感触が消えなくて口が上手く回らない。

 なんだろう、この少女漫画のような展開は。様式美に則って一発殴っておくべきだろうか。

 手近な所に厚めの辞書かハードカバーの長編はないかと視線を動かした時、熟れた苺のような耳たぶが一瞬見えた。

「いって!?」

 照れるくらいならやるなと叫ぶ代わりに、いっそ収穫するつもりで思い切り耳を引っ張った。

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