三章 呼ぶ声と -伍拾玖夜 やすらはで-

 昼過ぎからのアルバイトを終えて駅へ向かう途中、ポケットに入れた携帯電話が震えているのに気付いた。ビルの影に入って立ち止まる。着信は文月君からだった。

「もしもし」

『もっしもーし!いちおーは元気そうっすね!』

「?まあ、元気は元気だが」

 唐突な台詞に首をかしげる。まるで見ているかのような口ぶりだ。電話の向こう側で笑い声が跳ねる。

『先パイ、先パイ。右見て、そのまま上~』

「?……あ」

『お久しぶりっす。しばらく見ない間に随分サッパリしたっすね』

 文月君の誘導に従って視線を滑らせると、歩道橋の上で手を振る影があった。今日も笑顔と前髪を頭頂部でまとめて曝された額が眩しい。

 通話を切って階段を上る。十日ぶりに会う後輩は大分日に焼けたように見えた。

「合宿、お疲れ様。メールありがとう」

「うっす!……」

 笑って応えてくれた文月君が、ふと僕の顔を覗き込んで数度瞬く。顔に何か付いているだろうか。

「文月君?」

「……へいニーチャン、ちょっと茶ぁしばかへん?」

「う、うん……?」

「あ、コレおみやげっす。好きなのお一つどーぞ」

 至極真面目な顔のまま似非関西弁(?)でお茶に誘ったかと思うと、鞄から白いビニール袋を出して寄越された。よくわからないまま手を入れて一つ掴んで取り出した。

「おぉ……ですてにー」

「……素直に礼が言い難い反応をしないでもらえるかな」

 簡単な紙の包装がされたそれを開くと、縁結びのお守りが入っていた。

「ちなみに、他には何が?」

「ご当地白猫ストラップとか、固い八つ橋とか、お守り系だと交通安全、無病息災、安産祈願、その他諸々ってトコっすね。会えた人に先着順で配ってます」

 がさごそとお土産袋を仕舞いながら歩き出す文月君についていく。安産祈願よりは困り方がマシかと、もらったお守りをポケットに入れた。

 駅の改札の前を素通りして藤崎邸がある方とは線路を挟んで逆側に出る。

「この後なんか予定あります?」

「特には。夜までに帰れればいい」

「んじゃドリンクバーでボーイズトークとシャレこみましょう!」

「凍える前に帰るよ」

 学生の財布に優しいファミリーレストランに入ると、半端な時間のせいか客はほとんどいなかった。適当にサイドメニューの軽食とドリンクバーを頼んで各々飲みものを手に席に着く。

「さて、と」

 すぐ傍でガタと音がして顔を上げると、テーブルに身を乗り出した文月君が僕の耳に顔を近づけて小声で問うた。

「こないだ言ってた告白してきた友達って小野サンすか?」

「は!?」

 今度は僕がテーブルを揺らす番だった。軽く飛び退いて文月君を凝視する。ついできたばかりのカフェラテが少しソーサーにこぼれた。

 話がぶっ飛びすぎて思考が追いつかない。僕から離れて座り直した文月君は気にした風も無くメロンソーダを一気に三分の一程飲んだ。

「あ、オレそーゆーのヘンケンないっていうか、オレ自身どっちでもイケル人なんで、遠慮とか色々いらねっすからね」

「…………」

 どこにどう驚いたらいいのかわからなくなってきた。

「先パーイ?ダイジョーブっすかー?」

「……合宿中の話とかを、するものかと」

「それは皆で集まった時にすればいっかなって。で、何があったんすか?」

「何かがあったことは決定事項なのか」

「だって顔違いますもん。髪型違うからかとも思ったっすけど、そうでもなさそうだし。オレらが京都行ってる間に何やらかしたんです?ゲロっちゃった方が楽になりますよ?ほらほら」

 飲食店には相応しくない台詞に訂正を入れることさえできずに視線を逸らす。

「……つーか、小野サンってのは否定しないんすね」

「あ」

「お待たせいたしましたー」 

 驚きの波状攻撃をくらって混乱しているうちに、誤摩化すこともできずに肯定してしまったことに気付く。

 文月君がパフェを食べ始め、半分程が消化されるのをただ眺めている間に僕のフライドポテトが運ばれてくる。三本程食べた所で、大分落ち着いたのか疑問が浮かんだ。事実は変わらないので否定も誤摩化しもしない。

「どうして小野だと思ったのか、聞いてもいいだろうか」

「だってあの人、わかりやすいっつか、だだ漏れじゃないすか」

 細長いスプーンでアイスやフレークを頬張る文月君は、僕と同じ日本語で、同じ人物について話しているはずだ。それとも文月君には僕が知らない小野という知り合いがいるのだろうか。

「小野は、わかりやすい、だろうか……?」

 ここ二月程驚かされてばかりで、小野という人物がわからなくなっていたので大真面目に聞き返す。文月君は首を傾げて少し考えてから答えてくれた。

「えっと……ゴールデンウィーク明けくらいにちゃんと紹介してもらってから小野サンとも少し話すようになって、でも話すより草町先パイと話してるの見かけることの方が多くて、仲いいんだなーって思ってたんです。草町先パイもなんか小野サンには遠慮ないし」

 知り合って四ヶ月程度の文月君にそこまで言われる程、僕の小野に対する態度は他と違ったのだろうか。全く意識していなかったことを指摘されて、自分の行動を振り返る。そういえばこの間頭突きしたな。でもあれは仕返しのようなものだ。

 では、文月君に悪戯されたら仕返しをするだろうか。嗜めることはしても、仕返しはしないだろう。相手が有川先輩なら諦めるしか無いと泣き寝入りするか、後々言い負かそうと画策しても実力行使には出ない。

 同学年だから遠慮がないのだろうか。理由はなんにせよ、確かに扱いは他と違うのかもしれない。

「んで、前に昼メシ一緒に食ったじゃないですか、旦那と三人で。あの後、たまたま会って小野サンと二人で飯食ったんです。いいなーって言うから、ヤキモチすかって返したら、一瞬黙っちゃって。小野サン、すぐ笑ってそんなんじゃないって言ってたけど」

 文月君が困ったように笑った。くすぐったそうな、何処か嬉しそうな笑顔で。

「そんなんじゃないって笑ってるクセに、目が笑ってないんです。オレが草町先パイに抱きついて昼誘った話したら、そういうの慣れてないからあんまりやるなって牽制までされたんすよ?」

 文月君が、僕が知らない小野を語る。

独占欲、というものだろうか。二人でいる時間が圧倒的に長く、肌で感じたことの無いそれがちりちりと項のあたりを撫でた。

「小野サン、ツメが甘いっすよね。隠しきれてないだけかもっすけど」

 本人のいない所で、溢れ出していた感情に触れてあたふたするとは思わなかった。誤摩化すように寄った眉間の皺に、また文月君が笑う。

「……どうして、そんなに嬉しそうなんだ」

「人のコイバナって楽しくないすか?しかも草町先パイのだし」

 釈然としない。ぶすくれている僕を置いて、文月君が飲みもののおかわりに席を立った。パフェの器は綺麗に空になっている。

 戻って来た文月君が「一本ください」とフライドポテトを攫う。半分以上残っている皿を文月君の方に寄せた。

「んで、草町先パイ的にはどーなんすか?脈アリっすか?」

「脈って」

「だって、オレが小野サンに草町先パイの話する時の小野サンみたいな目してますよ」

「…………」

「……先パイ?」

「…………?」

「んな、何言ってんだコイツみたいな顔で首かしげられても」

 思ったことがそのまま顔に出ていたようだ。顔に出るタイプではなかったのに、表情筋が緩んだのだろうか。自分の頬をつまんでさすった。

「……さっきも言っていたけど、顔、変わったか?太ったかな」

「女子すか。イヤ、むしろやつれたでしょ。病み上がりだし。……顔っていうか、表情っすよ。人間ぽくなってきてる感じ」

 文月君は寄せられた皿を戻しながらもパクパクと食べる。

「旦那とか、他の先パイたちも小野サンと仲良くなって草町先パイ変わったって言ってましたよ」

「先輩たちが?」

 先輩たちにそんな風に認識されていたとは思わなかった。確かに先輩方よりも小野と話すことは多かったが、知り合った時期はそう変わらない。

 僕が、どんな風に変わったと言うんだろう。

「オレはいいと思いますよ?無表情でひたすら本読んでるより、笑ったり驚いたり怒ったりしてる草町先パイのがオモシロそう」

「面白い……」

「あれ、ダメっすか?うーん……じゃあアレだ。ミリョクテキ?」

「……?何の話だっけ」

「アレ?なんだっけ」

 二人して首を傾げる。会話の流れを思い返しているうちにカフェラテを飲み終えたので、おかわりをもらおうと席を立つ。文月君も二杯目を飲み終えたようでついてきた。

 ドリンクバーでスイッチを押した時、文月君が声を上げた。

「変わるのは悪いことじゃないって話っすよ!ね、そんな感じが言いたかった!」

「そ、そうか……」

 勢いに押されて若干引き気味に答えると、文月君のくりくりした目が僕を覗き込んだ。僕も知らない僕自身を覗き込まれる感覚に、動けなくなって立ち尽くす。

「……文月君?」

「変わっちゃっても別人になるわけじゃないし、オレらが草町先パイをキライになったりとかはしないっすよ。小野サンは、喜ぶと思う」

 瞠目して、息を呑む。けれど、どこかストンと納得している自分がいた。

 自覚のない変化を指摘されることが不可解だったのではなくて、自身が変わることで周りとの関係が変わることをおそれていたのか。自覚がないから、関係性がどう変わるのかも予想ができずに不安になっていた。

 僕が変わっても、文月君たちは僕を嫌いにならないと言う。父は、僕が変わったと言って嬉しそうに笑っていた。小野はどう思っているだろう。喜んでいるのだろうか。他人の変化を嬉しく思う感覚とはどういうものだろう。実の成長を微笑ましく思うのとは違うものか。

 小野も、少し変わった。

 感情を隠すことが減った。まだ見えない部分はあるけれど。

 以前よりずっと柔らかく笑うようになった。笑っていてほしいと言った時からは余計に。

 僕に触れることが、少しだけ増えた。指先がほんの少し絡んだり、髪や頬をかすめたり。

 小野の変化を嫌だとは思わない。驚くことも戸惑うこともあるけれど、マイナスの感情を抱いたことはなかった。

 隠して辛そうな顔をされるより、恐る恐る手を伸ばされるより、驚いて戸惑ってもどう思っているのか知りたい。どんな時に、どういう風に触れたいと思うのかを教えてほしい。

 与えられてばかりなのに、まだ欲しがるのかと自分に呆れる。

 感情を知りたがるのなら、僕も思ったことを言った方がいいのだろうか。上手く言葉にできないかもしれないけれど。

 言いたいことを我慢したり、気を遣ったりする方ではない自覚はある。元々口数が少ないだけで、言葉にしていないことがないわけじゃない。

 百夜通いが終わる頃には、少しずつでも小野に何かを渡せたらいい。変化を怖がって立ち止まるより、変わって、進んでみたい。進んだ先で、彼はきっと笑ってくれる。


 夏の早い日の出がせまる頃、携帯電話が来客を告げる。

 すっかり本の世界に入ってしまっていた。バイブの音にハッとして、窓の外が明るいなと思って、もう一度我に返って携帯を開く。

 ――起きてる?

 一言だけのメールが、少し懐かしかった。玄関までの数歩を進み、ドアを開ける。空は白んでいて、けれどまだ太陽に熱されていない空気は涼しくて心地いい。

「なんか……久々に危なかった……つかれた……」

「お疲れ」

 夜のうちにメールが来て、朝方になると聞いていたから読書をして待っていた。気付いたからよかったものの、時間を忘れて夢中になっていたから謝られても困る。以前の様に拗ねさせる様なことにならなくてよかった。

 昨日……もう一昨日か。会った時は元気だったのに、今は大分疲れているようだ。うっすら目の下に隈も見える。

 珍しいものを見たとそのまま眺めていると、あくびをかみ殺して鞄を漁る。

 もう、かれこれ二ヶ月近くになる。毎日、毎日、飽きもせず。それどころか楽しそうに、嬉しそうに。時々、辛そうな顔もするけれど。

「おかえり」

「……ただいま」

 なんとなく、口をついて出ただけだったのだが、小野が一瞬動きを止めて驚いたような顔で僕を見てから返す。

「遅くなって、ごめん。……気付いてもらえなかったらどうしようとか、すげー疲れたとか、色々ふっとんじゃった。草町のおかえりってすごいね。ありがと」

 隈が消えたわけではないのに、先ほどまでの疲労感を感じさせない優しい顔で笑う。礼と一緒に札を差出された。

 僕の一言なんかで、そんな風に変わる小野を不思議に思う。けれど、そんな小野の笑顔を見ただけで今の今まで起きていた意識が眠気に襲われた僕も、人のことは言えないのかもしれない。笑った顔を見ると、勝手に気が緩む。

 重くなり始めた瞼を気力で支えながら手を伸ばす。いつ来るとも知れない相手を待って夜を明かして、さっさと寝てしまえばよかったとうたうそれを受け取った。

 遅くなるという連絡があることも、どんなに遅くなってもちゃんと来ると信じられることも、うたが詠まれた当時の人からしたらどれだけ羨ましい話なのだろう。

 眠気のせいか思考を明後日に飛ばしていると、またあくびをする音に顔を上げる。ついさっきまで仕事をしていたのだ。疲れがふっ飛んだなんて言っていても、それは比喩であって事実ではない。眠いことに変わりないのだろう。うつらうつらしている。

「……ねるか」

「へ?」

 小野の手首を掴んで中に引き入れ、ドアを閉めて鍵をかけると部屋の中へ連行する。電気を消しても、明るくなり始めた世界がぼんやりと部屋の中を照らしていた。

 眠気と混乱でされるがままの小野をベッドに放った。隣にうつ伏せで倒れ込む。

 半分閉じた目で小野を見ると、さっきまでほとんど瞼に閉ざされて見えなかった伽羅色が僕を見ている。睡魔に最後の抵抗を試みて、暗闇でなお僕を捉える瞳に問う。

「なぁ……ぼくは、そんなにかわったか?」

「え……?」

 昼間、文月君と話したことを思い出す。色々、考えてみたんだ。

「ぼくがかわって、おのがよろこぶなら……がんばってみようとおもう」

 なあ、小野。僕は、小野が変わっていくのが嫌ではないよ。僕がわかるように、逃げなくてもいいように、ゆっくり示してくれてありがとう。

 思っていることを伝えられるように、言葉を探すことを、声にして形にすることを止めない。

「……きれいだ」

 見開かれた目が、薄暗い部屋の中でも頼りない朝日を集めてきらきら光る。

 手を伸ばして、栗色の前髪を払って、とても綺麗なそこに自分の姿が見えたことに暖かい感情を覚えたまま、意識を手放した。

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