三章 呼ぶ声と -伍拾肆夜 わすれじの-
「お兄ちゃん、いつまでこっちいられるの?」
弟の実が期待に満ちた目で見上げてくる。
小野以外の人間に会いたくなって外に出た。マスターの所でもよかったのだが、あそこは小野との思い出が邪魔して落ち着けない気がしたのでやめた。
気分転換もかねて帰って来た実家は暑くない程度の設定で冷房がかかっていて、実がまとわりついて来ても不快にはならない。短めの前髪が跳ねる額を眺めて、時々痛む自分の額に手を添える。
朝起きて、思いつきで帰って来てしまったから小野には帰省することを伝えていない。徒歩の時間を含めても電車で一時間強で帰宅できるが、あまり遅くなりそうなら連絡を入れなければ。僕だって弟は可愛いから少し申し訳ない気持ちになったが、こればかりは仕方が無かった。
「……夕方には戻るよ」
「えー!?とまってってよ!話したいこといっぱいあるのに!」
「ん……ごめんな、約束があるんだ」
むくれる弟の頭を、なるべく優しく撫でる。
高校二年生の時の春に改築した実家は、風呂が広い。足を伸ばして肩まで湯につかってゆっくりしたかった……のだが。
「お風呂なら入れないわよ?」
「え?」
「給湯器が調子悪くてお湯が出ないのよ。明日修理に来てもらうから、今日はみんな銭湯」
久々に家族団らん、昼食のカレーライスを食べていた時だ。風呂に入ったら戻る旨を伝えたら思わぬ返答があった。
「それじゃあ、仕方ないな……適当に戻る」
「ええ!?いっしょに行こうよ!プール行ってせんとー行こうよ!」
「そうだぞ、せっかく帰って来たんだ。銭湯くらい一緒に行ってやれ」
「あ、宿題みてやってくれる?実、おじいちゃんちでも全然やらなかったのよ」
ろくに連絡も寄越さない息子の扱いなんてこんなものだろうが、随分と好き勝手言ってくれるものだ。まあどれもこれもさして大変ではないからいいのだけれど。
「プール以外はわかった」
「なんで!」
「いい加減に宿題なさい」
母に嗜められた実がしおしおとうなだれる。
小学二年生の宿題をみてやるくらい、なんでもいいから遊んでやれと言われるよりずっと楽だ。遊んでやれと言われても、幼少の頃から読書ばかりだったから何をしたらいいかわからない。
平仮名の多い、懐かしさを覚える弟の宿題を手助けして夏の日差しが傾き始めた頃、家族で連れ立って銭湯へ向かう。東京は少し裏道に入ると銭湯が結構ある。入り口が見えて、実が駆け出した。
入ってすぐの靴箱にサンダルを入れていると、背後では父に抱えられた実が家族分の小銭を番台に渡している。夏の夕方、脱衣所に客の姿は少ない。
実が父に全身くすぐられるように洗われる隣で頭を洗う。実は父と僕の背中を真剣に流すと一仕事終えた顔で湯船に向かった。
浴槽は三つに区切られていて、小さいがサウナと水風呂もある。ジャグジーの浴槽には先客のおじいさんがいて、実が意気投合して盛り上がっている。一番大きな浴槽でその様を眺めていると、隣に父が腰掛けた。
「隣、失礼するよ」
「うん」
「あー……たまには銭湯もいいな」
「……ん」
二人して肩まで浸かって足を伸ばす。湯の中の白い四肢を眺めながら、心地良さにため息を落とした。
「なぁ、真。好きな人でもできたか?」
「ぶっ……けほ、ぅ…………は、はい?」
唐突な父の問いに耳を疑い、浴槽内で少し滑って口に湯が入った。胡座をかいて湯から顔を離す。
「なんて言うかなぁ……春休みに帰ってきた時と顔つきが変わったように見えたからさ」
「そう……?」
笑いながら続けられた言葉を受けて顔に手を伸ばして触れてみるが、自分ではよくわからない。父は顔に湯をかけて、僕と同様に座り直す。
「真は母親似だよな。千尋さんと初めて会った頃とホントそっくりだった。んで、今は僕が口説いて口説いて、意識し始めた頃と同じ顔してる」
「え……」
千尋というのは母の名だ。両親は互いを名前で呼ぶ。
思わぬ方向へ話が進んで何を言えばいいのかわからず、ただ父の横顔を眺めた。
「僕さ、千尋さん口説き落とすのに五年かかったんだよね」
「…………」
唐突に始まる昔話に、何故今始まったのかという疑問が混乱に変わって相槌も打てない。実が湯船の淵に腰掛けておじいさんと楽しそうに談笑する声が響く。
「初めて会った頃はさ、なんかもう、ひたすらに仕事してて。人生の楽しみ?それで飯が食えるんですか?みたいな」
恐らく、実父が亡くなってしばらくの頃だろう。
誠弘さんと僕は血がつながっていない。実とも、半分だけだ。幼い頃に実父を亡くし、誠弘さんが「父」になってからもう十年だ。
母は表情豊かとは言い難い人で、幼い頃に笑ったり泣いたりしている所を見た記憶はない。有川先輩くらいの歳で子どもを産んで、女手一つで育てた労苦はいかばかりか。
「真のせいとか、無理してたとかではないと思うよ。仕事は好きだったんだろうし。……ただね、生きるのに必死って感じがしたからさ、そんなんじゃそのうち折れるだろうなーって」
僕の顔が翳ったのを見てとったのか、父はあくまで和やかに、微笑み混じりに語る。
「いつまで続くかなーって思ってたんだけど、まったく折れそうな気配なくてさ。二年経って、アレはホントにたまたまだったんだけど……」
当時を思い出したのか、父が照れくさそうに笑う。
「昼休みの終わりに、誰もいない階段の踊り場で手帳眺めて笑ってたんだ。すっごい優しい顔で。そん時だね、落ちたの。あーこの人にずっとこういう顔しててほしーって」
「母さんが……?」
「へへー想像できないだろ?アレは僕だけのヒミツ」
得意げに笑う顔は、とても母と同年代には見えなかった。恋する少年の目をして、愛おしそうに笑うその人が、とても眩しい。
「ま、そんなこんなでね、恋に落ちて、子持ちの未亡人て事実にも負けず五年かけて口説いて、ようやく真のお父さんになれたわけですよ。実がいるのも真のおかげだな」
「僕?」
「そうだよ。だって、手帳に挟んでた真の写真見て笑ってたんだもん、千尋さん」
僕を見て笑う母が想像できない。一番印象に残っているのは、仕事に向かう後ろ姿だ。
ふいに、真剣な視線で射抜かれた。何を言われるのかと思わず身構える。
「気を付けろよ真。涙は女の武器なんてのは嘘だ。まあ間違っちゃいないが、最強の武器は笑顔だからな」
「……はあ」
父は大真面目に断言する。気圧されるように頷いた。
「で?」
「ん?」
「どんな子?」
「…………」
興味津々といった顔で詰め寄らないでほしい。そもそも、好きな人がいるというのは父の誤解だ。正しくは、僕を好きだと言う人がいる。しかし、事実を話すことはいささか躊躇われた。
誤解はさしあたり置いておいて、小野をどんな人間か説明するならなんと表現したものだろう。世話焼きで、うるさくはないけれどよく話して、きらきらした目で、よく笑って。
「……眩しい、人?」
言ってから、一昨日の天鵞絨を思い出して疑問形になった。
あんなに濃い色を見たのは初めてだった。けれど、思い返せばその深い色の中にも光は確かにあって、やはり眩しいという表現は間違っていないと思い直す。
「そっか」
どこか嬉しそうに、父がうんうん頷いている。文月君や有川先輩と小野の事を話した時にはなかったくすぐったさを感じるのは、やはり相手が父だからだろうか。
「今度、家に連れておいで。あ、土日な。僕がいる時」
「、…………」
うん、と答えようとして、できなかった。友達を家に連れて来ることはおかしいことではない。したことはないけれど。
友達としてなら問題はないが、言い寄られて意識している相手として小野を呼ぶことを安易にしてはいけない気がした。僕自身が気にしていないだけで、僕たちは男同士だ。両親や実が知ったら、傷つけるかもしれない可能性を失念していた。
友達でいい、知ってくれるだけでいい。けれど何もしないまま終わりたくないと言った小野の顔が過る。好きと言う時の優しい顔は、大切な人たちと笑いあえないかもしれない未来を覚悟した顔だったのだろうか。
「真」
「っ!……なに」
ハッとして顔を上げる。柔らかい笑顔と目が合って、知らず表情が翳る。どうしたらいいのか、わからない。
「連れておいで。真が選んだ人なら、大丈夫。きっと仲良くなれるよ」
「…………」
声に出して答えることはまだ出来なくて、無言で頷いた。けれど、少しだけ心が軽くなった気がする。
「……父さんに絆された母さんの気持ち、ちょっとわかった」
「ん?」
再び足を伸ばして、肩までお湯に浸かる。じんわりと熱が広がっていく。
「そんな羽毛布団みたいな顔で笑うのは、ずるい」
「……忘れんなよ、笑顔は男の武器でもある」
ニヤッという効果音が付きそうな、いたずらっ子の顔で父が笑う。武器というか、いっそ魔法だ。一般人である僕が勝てる気がしない。
にこにこ笑いながらぐりぐりと頭を撫でられる。甘やかし半分、照れ半分なのがわかったので甘んじて受け入れた。
「ぼくも!」
「おーよしよし」
顎まで浸かっていた湯船のお湯が揺れて鼻にかかる。実が父に飛びついていた。おじいさんは先に上がったようだ。
実のようには、きっとなれないだろうけれど。父や、小野みたいな人に近づけたらいい。なれなくても、優しい人の笑顔を曇らせない人でありたい。
いつか、覚悟をもって笑えるような人になりたい。
父がパシャンと音を立てて顔に湯をかけた。そのまま短く整えられた髪をかき上げると、どこか嬉しげな顔が曝される。結婚してからだけれど、実が産まれる前から誠弘さんは父親の顔をしていた。ほとんどしなかったけれど、甘えべたな僕の頼み事を断ったことは一度もない。
「――父さん、頼みが……あるんだけど」
その一言で、幸せと喜びに満ちた顔をすることを知っている。
夏の長い日が完全に落ちる頃、帰宅した僕を出迎えたのはアパートのドアの前で踞る小野の姿だった。三歩分の距離をおいて立ち止まった僕に気付いた小野が顔を上げる。
「おか、え………………え?」
「ただいま」
「え!?」
「……ただいま」
「えっあっ、おかえり!?」
「うん」
パクパクと酸素を求める金魚よろしく、開いた口が塞がらない小野を眺める。そういえば去年も似たような顔を見た気がする。もう少し、涼しくなった頃だっただろうか。
部屋の出入り口を陣取られているから退いてもらわなければ僕もどうしようもない。どうしたものかと軽くなった後ろ頭を掻く。
「……つは」
「ん?」
「夏は、長い方がラク、じゃなか、た?」
「うん。……実家帰ったら父親いたから、ついでに?」
「オヤジさん?」
「ウチは母より父の方がこういうのは器用だから。家を出るまではよく切ってもらってた」
「そう、なんだ」
長いまま左右に分けている方が楽だった前髪もバッサリ切ってもらった。こんなに短くしたのはいつ以来だろう。視界が開けて、色んなものがよく見える。
「顔、赤いけど大丈夫か?熱中症とか」
「ち、違うチガウ!体調不良では!なくて!」
耳まで赤くした小野が慌てたように否定して、じい、と僕を見る。少しずつ落ち着くと、ふわりと微笑んだ。
「そんな短いの初めて見たけど、いいね。似合ってる」
「……そうか」
直球で褒められて少し照れた。視界が開けているということは、相手からも僕の顔がよく見えるということだ。きっと恥ずかしいと思っているのは小野にもバレている。けれど、それもいいかと思った。誤摩化せないのなら、意地を張る必要もない。
「昨日はすまなかった。頭、大丈夫か?」
「あ、うん。ビックリしたけど平気だよ。草町こそだいじょうぶ?」
「たまに痛む」
「えっごめん、オレそんな石頭だった?」
「そこは謝るのか」
わかっていない顔で首を傾げる小野をドアの前から追いやって鍵を開ける。
昨日も一昨日も、小野は謝らなかった。謝罪が必要なことをしたとは思っていないのだろう。謝ってほしいのかと問われれば、僕の答えは否だ。
驚いた。怖かった。驚き過ぎて感覚が麻痺していたと言えなくもないが、嫌ではなかったと思う。
僕自身が小野をどう思っているのかが知りたいのであって、小野の行動は判断材料だ。頭が冷えればちゃんと考えられる。そうだ、小野の存在や行動を嫌だと思ったことはない。
「夕飯、食べたのか」
「まだだけど」
「食べて行くか?」
小野の目を見据えて問う。自分から目を合わせることは、随分久しぶりな気がする。不意を突かれた色をしたのは一瞬で、すぐに凪いでほんの少し目尻が下がる。
「うん。食べてく」
「ん。カレーでいいか?昼の残りもらってきたんだ」
連れ立って部屋に入る。大丈夫。普通に目を見て話せる。向かい合って食事もできる。時々ひどく驚くけれど、小野との穏やかな時間がなくなったわけではない。
「草町」
呼ばれて振り返る。三歩分離れた所から手を伸ばして、小野が札を寄越す。僕が手を伸ばせば、簡単に届く距離。
「すきだよー」
間延びしてふざけた風を装った告白は、ここ数日挙動のおかしかった僕への気遣いだろうか。勘ぐるのが馬鹿らしくなるくらいに裏表の無い、まっすぐな想い。
「うん」
手を伸ばして受け取る。込められている想いの大きさがわかってきたから、小さな紙片は初めて手にした時よりもずっと重く感じた。
恋人は一生でただ一人と誓ってくれても、人の心が移ろうことを知っているから未来は要らない。そんなうたを詠ったひとが抱えていたのは、現状を最上だと思える強さか、それともリスクを恐れて向上心を捨てた弱さか。
「小野は、一生で僕だけだと誓えるか」
なんと答えるのか、興味が湧いた。数回瞬きをした小野は、こてんと首をかしげる。
「どうかな。誓っても誓わなくても、どうなるかなんてわかんなくない?」
「それはそうだ」
シンプルで、嘘の無い答えに納得した。同時に満足して、食事の支度に取りかかろうと小野から視線を外す。
「草町じゃない誰かを好きなオレは、あんま想像できないけど」
狭い廊下ですれ違い様に笑いながらさらりと付け足されて、誓われるよりも恥ずかしい答えに聞いたことを後悔した。
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