三章 呼ぶ声と -陸拾参夜 いまはただ-
週末、実が泊まりに来ることになった。
大学生の夏休みはまだあと三週間程あるが、小学生の夏休みは残す所あと一週間である。宿題の一つである絵日記のネタにしたいから僕の部屋に遊びに行きたいと言い出したのは、盆の帰省の折、僕が帰り支度を始めた頃だった。
宿題が半分弱しか終わっていなかった実は、一通り自分で終わらせること、絵日記に書くなら自分で電車の乗り継ぎ等を調べて一人で行くことを両親(主に父)に言い渡された。
僕には実がわからなかった所を教えて、終わったら何処かに連れて行ってやるようにとのお達し付きだ。前者は構わないが、後者は今だに場所を決めていない懸案事項である。
昼前に最寄り駅に迎えに行くと、僕を見つけた実に興奮しきりの様子で抱きつかれた。
「一人でこれたよ!」
「ああ。いらっしゃい」
電車の中でもちゃんと座っていたとか、モノレールから見下ろす街並がすごかったとか、楽しそうに、誇らしげに語る実の手を引いてアパートへ向かう。そういえば、小野以外の人とこの道を歩くのは初めてかもしれない。
「あれっ?」
「ん?」
アパートに着いて階段に足をかけた時、頭上から知った声が落ちてきた。顔を上げると、サングラスをかけた小野が口を開けたまま固まっている。
「お兄ちゃん、ともだち?」
「ん?ああ」
「おとうと!?」
答えようとしたら小野が叫んだ。今度はこちらが驚いて見上げると、口に手を当てた小野が「……ゴメン」とこぼす。
「えーと、小野将宗くんだ。小野、弟の実」
階段を上りきった所でそれぞれを紹介する。実は僕の後ろに半分隠れながら小野を窺い、小野はなんとも形容し難い顔で言葉を探しているようだった。「あっ」と声を上げて、慌ててサングラスを外す。
一頻り観察し終えたのか、実が掴んでいた僕の手を放して一歩前に出た。
「はじめまして。草町みのるです。あにがいつもおせわになってます」
「!?」
ぺこりと頭を下げた実に驚愕の眼差しを向ける。数瞬の後に小野を見ると、やはり驚きを隠せない顔とかち合う。実に視線を戻すと、今日一番のやりきった顔をしていた。
「実?それ……」
「お父さんがね、お兄ちゃんのおともだちに会ったら言いなさいって。ぼく、じょうずにできた?」
「あ、ああ……上手過ぎてびっくりした……」
褒めて褒めてと全身で主張する弟の頭を撫でる。小野がハッとした顔でしゃがみ込んだ。実の視線に合わせて、やや緊張気味に笑う。
「ごていねいに、ありがとう。えっと、お兄さんの友達の小野です。よろしく……えっと、ミノルくん」
小野が右手を差出すと、実は嬉しそうに両手で握って笑う。
「うん、よろしく!えっと、マサ……まさくん?」
「!?」
さっきから驚き通しで疲れた。そうか、子どもは下の名前で呼ぶのが普通……なのか?
困惑した様子の小野も、すぐに慣れたのかぶんぶん振られる手を好きにさせて笑っている。
部屋の前で鍵を出しながら、そういえば突然の来訪であることを思い出して問う。
「小野、こんな時間に珍しいな。どうした?」
「あ、うん。さっき仕事上がりに伯父さんがスイカくれてさ。おすそわけ」
「スイカ!?」
「うん。ミノルくんも一緒に食べよ」
「ぼくもいいの?」
「もちろん」
はしゃぐ実を部屋に上げて、小野が差出したスイカを凝視する。
「デカイな……」
「うん……半分は持って帰るよ」
「お兄ちゃん、おなかすいた!」
玄関先で一抱えあるスイカをつい眺めてしまって、実の声で現実に戻ってくる。
丸のままでは入りそうになかったので、ちゃぶ台にまな板を乗せて包丁を用意する。小野がまな板にスイカを乗せると、実が不思議そうに首を傾げた。
「スイカわり、しないの?」
「え?」
「せっかくまんまるなのに」
我が家のエンゲル係数は恐らく然程高くない。僕が実家暮らしの頃も、母がスイカを丸ごと買ってくることはなかった。
「新聞紙とラップ……とかでなんとかなるかな」
「うちに新聞はないぞ。そもそも何で割るんだ、スイカ割れる棒なんてない」
「あ」
「……やらないの?」
「う、ウチから持ってくるよ!」
小野がすっかり実の言いなりになっている気がするのは気のせいだろうか。問題なのは小学生に強くでられない小野か、はたまた年長者を手の平で転がす弟か。
兄の複雑な心境を他所に、ちゃぶ台の上のまな板に実がバスケットを広げている。小野は疲れの残る顔ながら楽しそうにそれを眺めていた。
「お母さんがサンドイッチ作ってくれたんだ!まさくんもいっしょに食べよ」
すっかり打ち解けた様子の二人を見て、飲み物を出さなくてはいけないことを思い出した。割るのはいいが、それまでスイカはドコに置けばいいんだろう。風呂場か。
サンドイッチは昼夜兼用だったようでそこそこ量があったが、食べ盛りの実と仕事明けの小野の胃袋にすっかり収まった。夕飯は素麺に決定だ。
スイカを冷やす方法と割る方法は夜までに考えることにして、転がらないように風呂場の洗面器に避難させる。一度帰って寝直すという小野を実が引き止めたので、実が宿題をしている間に仮眠を摂らせる為にベッドに追いやった。
「おやつの時間におこしたげるからね!」
「わかったから、さっさと宿題やろうな。静かにしてないと小野も寝られないだろ。で、どこがわからないんだ」
「こくごと、さんすうのこういうの」
実が示したのは、国語のテキストと算数の文章問題だった。パラパラとめくると単純な計算問題はほとんど埋められていて、とりたてて突拍子の無い間違いも見受けられない。
「相変わらず、問題は読解力か……」
「どっかい……てなに?」
「読解力。何を聞かれている問題なのかがわからないだけだよ。大丈夫、できるようになる。国語からやろう」
実の小学校入学と僕の大学進学が同じ年だったため、今までまともに勉強をみてやったことはなかった。盆に帰った時に少し教えたので、その時よりはマシになっているようだがやはり応用問題になると難しいようだ。
読めない漢字、知らない単語が出てくる度に質問されるので、うるさくないかと小野を窺うが、気にした風も無く静かな寝息をたてていた。
「お兄ちゃん、なんでも知ってるね」
「そんなことはない。知らないことがたくさんあるから大学に行ってるんだよ」
「へぇ……でも、いみがわかると国語もおもしろいね。先生よりお兄ちゃんの言い方のほうがずっとわかる」
実は解答欄の埋まったテキストを掲げてきらきらと目を輝かせた。言葉を理解することの楽しさをわかってくれたなら、教えた甲斐もあったというものだ。
扇風機が仕事に励み、飽きたとぐずることもなく実が宿題を片付けて、遮光カーテン越しの日差しがベッドにやわくかかる頃になって、背後から声がかかった。
「ねぇ、その体勢、暑くないの?」
いつのまにか起きていた小野が、ベッドに横になったままこちらを見ていた。自分の左腕を枕代わりにしている。
「へーきだよ?」
「この方が読みやすいからな」
「あ、そう……宿題、どんなのやってんの?」
足の間で僕を背もたれ代わりにしていた実が嬉々としてベッドへ移動し、宿題を広げた。僕が教えた所を小野に説明している。これはいいかもしれない。人に説明すれば理解も深まる。
ラックにある薄い辞書に手を伸ばす。小学校低学年くらいなら、このくらいの単語数でも困ることはほとんどないだろう。
「実、これあげる。知らない単語やわからない言葉があったら調べてごらん」
「え、いいの?」
「知ってる言葉が増えると、本を読むのが楽しくなる。僕がいない時も部屋に入っていいから、興味がある本は読んでみるといい」
「うん!見て見て!もらった!」
実がはしゃぎながら小野に報告する。ひとしきり自慢すると満足したのか「つぎ、こっちおしえて!」と鼻息荒く膝の上に戻ってくる。キラキラした目で見上げられた。そんなに喜ばれるとは思わなかったので驚く。
弟とはいえ子ども相手にどう接していいかわからず、子守りを頼まれても要領を得ない実の話をひたすら聞くことしかできなかった。楽しそうに話すから、それで満足してくれているのかと思っていた。
これから実が本を読むようになったら、もう少し構ってやれるだろうか。共通の話題ができて、聞くだけではなく僕も話せるようになったら。僕の知識が実を楽しませることができたら。
弟の成長を嬉しく、楽しみに思って頭を撫でた。
「なに?」
「なんでもない」
くすくす笑う声が聞こえて振り返れば、胡座をかいた小野が楽しそうに笑っている。
「よかったね」
「……ん」
僕らのやり取りを実が不思議そうに眺めていた。気付いた小野はベッドから降りて僕の隣に腰掛けると、実の頭に手を伸ばす。
「仲いーんだね」
「うん!お兄ちゃん大すき!」
「お兄ちゃん、優しいもんねぇ」
「まさくんもお兄ちゃんすき?」
「……うん。だいすき」
「いっしょだね!」
「……おやつ食べようか」
居たたまれない会話に逃げを打った。小野が吹き出して笑うのを無視して、実用に買っておいた菓子を出そうと膝の上の弟を退かして立ち上がる。
どんな顔で言ったのかなんて知りたくない。実の前で挙動不審になるのは嫌だ。僕のなけなしの兄の沽券に関わる。
机に並んだ市販の菓子を八割程片付けると、小野を交えて実の宿題を手伝った。何度か生徒が二人になったような感覚になりながらも、日が傾いてヒグラシが鳴く頃に宿題を終える。
「じゃあ、オレ帰るね」
「かえっちゃうの?」
「え」
「かえっちゃうの?」
「…………」
全てではないにしろ宿題という大仕事を終えた実が、帰り支度を始めた小野を再び引き止めた。残念そうな顔で見上げられた小野に視線で助けを求められるが、僕が決めることでもないしと傍観を決めこむ。
「あ、明日来るよ!ほら、スイカ割りの道具持って!」
「…………」
「ゆ、夕飯もらってってもいいかな!?」
「ああ」
一瞬顔を上げたが、あからさまにしゅんとした実に根負けするように叫び声が響く。
「あした、何してあそぼうねー」
「なんか、ごめん」
「いいよ。仲良くしてくれるのは嬉しいし」
結局。小野は今晩泊まって明日のおでかけにも同行することになった。弟が醸し出す、断ってはいけない気分にさせる言動を面白がってよいものか、兄として何か言うべきなのか僕にはわからない。言うべきだったとして、何と言ったものだろう。
はしゃぎ疲れたのか、実は夕飯の途中からうつらうつらし始めていた。フラフラしながら小野と共に床に布団を敷く実を横目に食器を片付ける。今日は冬布団とベッドの上の夏布団を床に敷き詰めて雑魚寝だ。
「いい子だね、実くん」
「ああ」
「はは、兄バカ」
「知ってる。実、寝る前に風呂入れ」
軽口の応酬の間に片付けを終え、実を風呂に入れようとユニットバスのドアに手をかける。開けて最初に目に留まったものに、思考が一瞬止まる。洗面器にギリギリのサイズ感でスイカが鎮座ましましていた。
「忘れてた……」
「あ。……ちょっと母さんに相談してみる」
同じく忘れていたらしい小野が背後で声を上げ、打開案を求めて携帯電話を手にした。そちらは任せて実を起こし、ユニットバスへ放り込む。複数人入れる程広くはないので、帰省の時のように一緒に入ろうとはごねなかった。
「え、マジ?」
焦ったような小野の声に振り向くと、しばらくの問答の後に心底困った顔で僕を振り返った。
「どうした?」
眉を寄せて考えるようなそぶりを見せた小野は、一言「わかった」と言って通話を切った。体ごとこちらに向き直り、控えめに口を開く。
「えと……親が、スイカ割りするなら明日スイカと草町とミノルくん連れて帰って来いって」
まさかのお宅訪問要請である。想定外だったのでとっさに返事ができない。
「なんか、珍しく父さんがやる気になってて。いつもはこういうの見てるだけなんだけど」
小野は己の父の行動が理解できないようで、いたって真面目に不思議がっている。僕の個人的なイメージだが、小野を育てた人たちなら皆で集まっての催し物は好きそうなものだが、実際はそうではないのだろうか。
「実が行くと言えば、僕は構わない。明日出掛ける場所も決まってなかったし、お邪魔でないなら願ったりだが」
「あーうん、そうだね、ミノルくん……来たがるかな。夏休みのお出かけがお兄ちゃんの友達んちってアリなの?あのくらいの子が楽しめそうなもの、ウチにはあんまないと思うんだけど」
小野の心配を他所に、風呂上がりの実は絵日記のネタとしては地味なお出かけの提案を喜んで受け入れた。シャワーを浴びて多少眠気が飛んだようだが、すぐに効果が切れて小野の膝にもたれるように眠ってしまう。
小野が実を抱き上げて布団の上に寝易いよう体勢を整え、タオルケットをかけてくれた。僕よりよほど兄らしい気がする小野に小さく声をかける。
「無理して泊まらなくてもいいんだぞ。どうせ明日は小野の家に行くんだし」
「……おにーちゃんは泊まってほしくない?」
小野は拗ねたように口を尖らせて実の頭を撫でる。
「そうじゃなくて、子どもは寝てても騒がしいから。休まらないだろう」
「昼間寝たし、オレ一人っ子だから楽しいよ。こういうの、なんてんだっけ?か……か?」
「『川の字』か?」
「それそれ。オレ初めてかも。なんかいーね」
交代でシャワーを済ませ、実を挟んで向かい合うように腰を落ち着けた。一人暮らしには充分でも、三人で横になろうと思うと少々手狭だ。宿泊学習よろしく雑魚寝がしたいと言った実はさっさと寝落ちてしまったが、起きた時に小野にベッドを使わせていたら怒るだろうか。
タオルで濡れた頭を乾かしながら母親にメールを打っているらしい小野に声をかける。
「足伸ばせるか?ベッド使ってもいいんだぞ」
「おにーちゃん、仲間はずれはよくないよ?」
気を遣っているつもりが、軽く躱される。気にしないのなら構わないが、身内と友人が隣で寝転がっている様がどうも落ち着かない。
「どうかした?」
「何がだ?」
「なんか、変……じゃない?」
そう言われても思い当たる節がない。状況は確かに非日常だが、変だと言われる程順応できていないのだろうか。
「ぉ……にちゃ……」
「いいなー弟。かわいー。ホントにおにーちゃん大好きなんだね。どんな夢見てんだろ」
寝言を呟いた実の頬を小野がつつく。やっぱり、うっすらと蚊帳の外にいるような違和感がある。実弟と赤の他人の兄弟のような構図が面白くないのだろうか。
「草町?眉間にシワ寄ってるよ」
「む」
言われて眉間を指でさすりながら、すとんと何かが元に戻ったような感覚を覚える。小野を見れば、また名前を呼ばれた。一つだけずれていたパズルのピースがはまる。
「小野。『おにーちゃん』て呼ぶな」
「ん?」
「僕の弟は実であって小野じゃない」
「あ、うん。ごめん。……そこ引っかかってたの?」
「多分」
曖昧な答えを返したが、何かがつっかえていたような感覚は消えている。僕のことを誰がどう呼ぼうが認識ができれば支障はないし、気にしたことも無かったのに。
僕と小野の間に実がいる。そんな気にする程のことでもない距離が気になったのは、今までが近過ぎたからだろうか。
「真」
一瞬、自分が呼ばれたのだと気付かなかった。実を見ていた視線を持ち上げると、小野が反応を窺うように僕を見ている。
「ん?」
「あ、えっと。すきです」
「うん」
片膝を抱えていた姿勢から正座になって両手で札を差し出された。実の体の上でそれを受け取るのは気が引けて、ついでに消灯してしまおうと立ち上がる。両手で受け取ってから小野を窺うと、耳の先を赤くして少し焦ったように笑った。
「なんか新婚さんみたいだね」
「は?」
「子どもの両側で両親が寝るっていう、なんつーの?ザ・家族みたいな」
バレバレの照れ隠しに突っ込むのも面倒になって、僕は無言で部屋の電気を消した。
呼び方一つで距離を感じたり、踏み込まれたような気持ちになって動揺した顔を見られたくなかったたりとかでは、断じて無い。
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