8.未来
節約をして目標の金額を貯めた私たちは、約束通り紡績工場を辞めて一緒に暮らしはじめた。
私たちは既に二十五歳になっていた。
十六歳から少しずつ貯めたお金も長屋の一軒を借りて、必要な家財道具を揃えたらあまり残らなかったけれど、私たちは満ち足りていた。
紡績工場では一年半もの間まともに触れ合うことができなかったから、余計に喜びが大きいのかもしれない。
「また頑張ってお金を貯めなきゃね」
私が言うと
「それよりもおいしいものが食べたいよ」
とナオが笑った。
なんとなくまたお金を貯めなくちゃいけないと思っていたけれど、使うあてがあるわけではない。これまではナオと一緒に暮らすとく目標に向かってお金を貯めてきた。だけどそれが実現した今は貯めるよりもナオと一緒においしいものを食べる方が素敵なことのように感じた。当たり前に素敵なことを考えられるナオと暮らす日々に胸が躍る。
私たちの新しい家は、六畳と四畳半の二間続きだ。寮では四畳半に二人で住んでいたのだから比べられないほど広い。その上小さな台所まで付いていた。
便所は長屋の住民で共用だけど私たちの住まいの隣だから雨の日でも軒下を通っていけるから濡れることもない。季節や風向きによってはハエや臭いが気になるかもしれないと大家さんに言われたけれど、その分家賃は安くしてもらえた。
家に荷物を運び入れると荷ほどきもそこそこに長屋の住民に挨拶に行った。
女二人で挨拶に回ったから、どの家でも訝し気な視線を送られた。だけどそのことを直接尋ねたのは隣に住む田原さんの奥さんだけだった。
「アンタたち二人で住むのかい? そりゃ広く使えていいねぇ。ウチなんて五人もいるから狭くてさ。旦那の稼ぎが良けりゃ広い家に越せるんだけどね」
そういってカラカラと笑ってから私たち二人の顔を見比べる。
「でも女二人で住むなんて珍しいね。姉妹にしちゃぁ似てないし……」
その視線に不躾な好奇心を感じて私は少しだけ嫌な気分になった。だけどナオは笑顔を浮かべて明るく答える。
「私たち、いとこなんです。前の職場も一緒で仲良しなんですよ」
「へぇ、いとこなのかい? 仲が良くていいねぇ」
ナオの嘘を田原の奥さんはすぐに信じたようだった。
確かに結婚をして子どもを産んでいてもおかしくない年齢の女が二人暮らしするのは奇妙に思われるのかもしれない。だけどこうして嘘をつかなければいけないのは少し悲しい。
田原の奥さんはそれから気前のいい八百屋さんの場所や銭湯の割引日などについて教えてくれた。そうして話してみると、田原の奥さんは少しお節介で気さくな人なのだとわかった。
もしも最初の質問で機嫌を悪くして口を利かなかったらこうして色々教えてもらえなかったかもしれないから、やっぱりナオの嘘がお手柄だったのだと思う。少し複雑な気持ちだったけど、私たちは仲の良いいとことしてこの長屋で暮らしてくことになった。
あいさつを終えて家に戻り、私は一息つく間もなく荷ほどきに取り掛かった。ナオは夕飯の買い出しに商店に出掛ける。これまでは寮で食事を出してもらえたけれど、これからは自分たちで作らなければいけない。
私は買ったままで置いてある鍋や包丁をサッとあらって片付けることにした。早速今夜から夕食を作らなくてはいけないから、台所が片付かないことにはどうしようもない。
そしてふと思いついたことを口にする。
「冷蔵庫……」
最近は冷蔵庫や洗濯機、テレビが三種の神器と呼ばれてもてはやされている。もちろん私たちの家にそんな高級品はない。だけど冷蔵庫を買うのはいいかもしれないと思った。
ナオは「おいしいものが食べたい」と言っていたし、冷蔵庫を買えば買った食材を保存しておけるから、いつでもおいしい食事を作ることができるはずだ。
これから寒い季節になるから冷蔵庫はあまり必要ない気がするけれど、夏になったらすごく便利だと思う。お茶も冷やしておけば、暑い日に冷たいお茶をすぐに飲むことができる。
自分の思いついた名案に心が弾んでやる気がムクムクと湧き上がってきた。私はそのやる気をそのまま片付けに向けて、ナオが帰ってくる前に大方の片づけを済ませることに成功した。
「ただいま」
ナオがそう言って玄関をガラガラと開けて帰ってきた。
「おかえりなさい」
そう答えて、これからこんな暮らしが続くのだと思うとムズムズとむず痒いような恥ずかしいような気持ちになる。
ナオに知られるともっと恥ずかしくなりそうだから、「遅かったね、ナオ」という言葉を付け足して誤魔化した。
「色々見てたら遅くなっちゃった」
「面白いものあった?」
「あったよ。あっ、もう片付け終わったの?」
「うん、大体」
「スゴイ! ミィは素敵な奥さんだねぇ」
「ナオだって素敵な奥さんだよ」
そうして二人でクスクスと笑う。
「それなら暗くなる前に銭湯に行こう。買い物のついでに場所も確かめてきたよ」
「うん。それじゃぁ準備するね」
ナオは買ってきた食材を台所に置き、私は着替えなどを準備した。そして並んで銭湯への道を歩く。
その道すがら、私はさっきの名案をナオに離した。
「うーん、冷蔵庫ねぇ。使うかな? なくても大丈夫なんじゃない?」
私は名案だと思ったのに、ナオはあまり乗り気ではないようで少し残念だった。
「だけどこれから自分たちで食事を作るでしょう? 食材を保管しておければ買い物も楽になるんじゃないかな?」
「それはそうかもしれないね」
「それに夏にはサイダーを買って冷蔵庫で冷やして飲めるんだよ」
「サイダー? それは良いね!」
ナオはグイッとサイダーを飲む真似をした。
ナオが冷蔵庫の良さに気付いてくれて私は満足する。
「ところで冷蔵庫ってどうして冷たくなるんだろうね、ミィは知ってる?」
「知らない……大きな氷が入っているのかな?」
「それなら大きなかき氷も食べられるね」
「えー、氷を食べちゃったら冷蔵庫が冷えなくなっちゃうんじゃないの?」
笑いながらそんな話をしていたらあっという間に銭湯に着いた。
番台でお金を払って女湯の脱衣所に行き、服を脱いでカゴの中に入れていく。私よりも一足早く服を脱いだナオが浴場の扉を開いて中に消えていった。私も慌ててその後を追う。
浴場は思ったよりもこじんまりしていた。洗い場でナオと並んで体を洗う。
「背中洗って」
ナオはそう言うと私に背中を向けた。手ぬぐいでごしごしと背中を洗うとナオは「うぅ、気持ちいい」と唸った。
「ナオ、お年寄りみたいだよ」
私が笑うとナオはプゥと頬を膨らませて振り返った。
「今度はミィの番」
そう言われて私はナオに背中を向ける。自分では背中の隅々まで洗うことができないから、確かにこうして洗ってもらうと気持ちがいい。だけどナオのように唸ることは我慢した。
ナオはそれが不満だったのかザバンと乱暴にお湯をかける。
それから二人で湯船に浸かった。少し熱めだったけれど浸かっている間に慣れていく。
「冷蔵庫を買うなら夏までにがんばってお金を貯めなきゃね」
私が言うとナオは「そうだね」と言った。
「そのために、まずは仕事を探さなきゃ」
紡績工場を辞めた私たちは無職だ。わずかに残っているお金も生活を続けていればすぐに無くなってしまう。これからも二人の生活を続けていくためには仕事をしてお給金をもらわなければいけない。
今はどこも人手が不足しているようだから、すぐに見つかるとは思うけれど、ちゃんと見つかるまでは不安だ。
「私、仕事見つけてきたよ。だからそんな心配そうな顔をしなくても大丈夫だよ」
ナオ私の頬を軽くつねってから笑顔を浮かべて言った。
「え?」
「駅の近くに大きな食堂があったの覚えてる?」
私はアパートへの道を思い出す。確かに駅を降りて商店街に入ったすぐの場所に立派な食堂があった。
「結構活気のあるお店だったよね」
「うん。この辺りにも人が増えたから忙しいんだって。店員さんを募集してたから話を聞いてみたの。そうしたら明日からでも着て惜しいって」
「そんな急に? 大丈夫なの?」
「ご主人も奥さんもいい人そうだったよ。ご主人はちょっと声が大きくて驚いたけどね」
そう言ってナオはクスクスと笑った。
「どうして食堂なの?」
「ミィが考えた冷蔵庫と同じだよ。おいしいものが食べたいから」
「そんな理由?」
私が驚いてナオを見ると、ナオはケラケラと笑った。
「そう。それでね、ずっとずっと先の話なんだけど、いつかミィとお店を開きたいなと思って」
私はナオを見つめて言葉の続きを待つ。
「何か目標があった方が仕事も楽しいでしょう? 私は働いてお金を貯めながら、食堂の仕事を勉強するの。それでミィと二人で小さな食堂を開くんだよ。どう? 楽しそうでしょう?」
私が考えた冷蔵庫よりもずっと名案だと思った。
「うん、楽しそう。じゃあ、私も食堂で働けるか聞いてみなくちゃ」
私が言うと、ナオは首を横に振った。
「ミィは別の仕事を探してほしいな」
「どうして?」
これまで一緒の工場で働いていたから、私はこれからも一緒に仕事をするのだと思っていた。
「食堂をはじめたらお金の計算をしなきゃいけなくなるじゃない。計算は私よりミィの方が得意でしょう。だから事務のお仕事をして計算を覚えてほしいの」
「だけどそうするとナオと一緒にいられないよ……」
ナオは寂しくないのだろうか。私は少しの時間でも多くナオと一緒にいたい。
「少しだけ寂しいけど、仕事じゃない時間はずっと一緒にいられるよ。それに私たちは、おばあちゃんになるまでずーっと一緒にいられるんだよ。二十年も三十年もずーっとずーっと一緒にいるために、それぞれができることをしようよ」
私は想像した。しわが増えて髪も白くなった私たちが並んで食堂に立ってお客さんに料理を出している。お客さんに「今日もうまかったよ」なんて言われて「また来てね」と送り出す。ナオが料理を作って、私がお客さんから代金を受け取る。たまにナオが代金を受け取ったときには、おつりを間違えて私を呆れさせるんだ。
私は思わずクスリと笑う。
「何を想像したの?」
「なんでもない。でも素敵だね」
「でしょう?」
ナオは小鼻を膨らませながら目を弓型にして笑った。
ナオを好きになってよかったと心から思う。ナオは素敵な未来をいつでも私に見せてくれる。ナオと一緒ならどんなときも楽しくいられると思った。
それから一週間が過ぎて、私は建設会社の事務員として働くことになった。道路を作ったりビルを作ったりするので大忙しだと言っていた。
元々社長の奥さんが事務員として仕事をしていたのだけど、手が回らなくなっているという。お給金も前の会社よりずっと高かった。
伝票には見たこともないような大きな数字が並んでいて驚いたけれど、一月も働くとそれにも慣れた。
そろばんを弾くのも随分早くなった。計算が上手くなったと感じるごとに、ナオと開く食堂に近づくような気がしてうれしかった。
ナオは昼食の時間から夕食の時間までが仕事で、私は朝から夕方までが仕事だ。
ときどき仕事が終わってからナオが働く食堂で夕食を食べながら仕事が終わるのを待つ。ナオが忙しく働く姿を眺めていると私も頑張ろうという気持ちになれた。お客さんがナオに言い寄るのを見てしまうと少し、いやかなり不快になって頬を膨らませてしまう。そんな私をみてナオは苦笑いを浮かべた。
二人が揃って休みの日には、近くに散歩に出掛けたり、並んで本を読んだりしてゆったりと過ごした。
そうして最初の夏には約束通り冷蔵庫を買うことができた。
冷蔵庫のどこを探しても大きな氷が入っていなかったから、二人してケラケラと笑った。
ナオが働いている食堂の奥さんからガスの炊飯器をもらった。食堂で使っていたものだけど、お客さんが増えたから大きな炊飯器に買い替えたらしい。二人分のごはんを焚くには大きすぎるくらいだった。はじめて家でごはんを焚いた日には、本当にごはんが炊けるのか不安で、ずっと横について眺めていた。
二人で暮らす時間が増えるごとに、家の中に二人のものが増えていく。それは幸せの欠片をひとつずつ集めているような感じがした。
喧嘩をしてしまうこともあったけれど、その分だけ仲直りをして、それ以上に愛し合った。
少しずつだけどお金も貯まって、遠い夢だと思っていた食堂を開く夢が現実味を帯びてきたある日、私の実家から手紙が届いた。
手紙にはお金を工面してほしいと綴られていた。兄の娘が病気になってその治療のために急にお金が必要になったらしい。
「私たちにだってお金なんてないよ」
私がその手紙を捨てようとするとナオが私の手を止めた。
「貯めたお金があるじゃない」
「何言ってるの? あれは二人でお店を出すためのお金でしょう」
「それはまた頑張って貯めればいいでしょう」
「十六であの家を出てからもう十七年たつんだよ。私はこれまでずっと実家に頼らずにやって来た。仕送りだって続けてる。これ以上できることはないよ」
「大切な家族でしょう」
ナオは私のせいで家族から勘当されたままだった。あの日からナオは家族と連絡を取っていない。だからその言葉に胸が痛んだ。
「私にとって大切な家族はナオだけだよ」
それは本心だった。ナオと共に過ごした年月は、私が実家で暮らした年月を超えている。単純に年月だけの話ではない。私にとってナオは本当に特別な存在だ。だからナオと貯めたお金を実家に送りたくはなかった。
「だけどそれでもしも姪御さんに何かあったら、きっとミィは後悔すると思うよ」
ナオは勘当された自分の家族にできないことを私にはやらせたいのかもしれない。
「それにお金は貸してほしいって書いてあるじゃない。いつか返してもらえるんだし」
ナオはそう言って笑う。だけど私は実家の金銭事情を知っていたから、返すあてなんてないとわかっていた。きっとナオもわかっているのだろう。それでもそう言っているのだ。そんなナオの気持ちに折れて、私は実家にいくばくかのお金を送った。
貯めたお金がすべて無くなったわけではない。だけど明らかに目減りした金額を見ると、私とナオの夢が五年は遠のいてしまったように感じた。
ナオは「ミィと一緒にいられるのならゆっくりでもいいんだよ」と言って笑ったけれど、私はとても辛かった。だから私はそれまで以上に仕事に精を出すようになった。
建築の仕事はますます忙しくなって従業員も増えていた。それでも人手が足りないことがあったから、私は率先して残業をしたり休日出勤をしたりして、一日でも早くナオとのお店を開くために頑張った。
そんな日々が三年近く続いたころから、私はなんともいえない倦怠感に襲われることが多くなった。
疲れがたまっているのかもしれない、風邪をひいたのかもしれない、そう思いながらも私はそれを放置して仕事に精を出した。
夜遅く帰ってくるナオには申し訳なかったけれど、ナオが帰る前に布団に入ることもあった。だけど倦怠感が抜けることもなく一月以上がたった。
ナオに心配をかけたくなくて、ナオの前では元気に振る舞っていたけれど、会社への通勤も辛く感じるようになっていった。
そのとき思い切って病院で診てもらえばよかったのだけど、少しでも早くお金を貯めたかった私は、病院に支払うお金ももったいないと思って我慢した。少し我慢すればそのうち治るだろうという甘い見通しで、私は重たい体に鞭を打った。
次第に食欲が落ちて発熱するようになった。めまいや吐き気も伴い、ひどい腰の痛みも感じた。
そのころにはナオも私の体調の悪化に気付いて、何度も病院に行こうと言ってくれたけれど、私は「少し寝れば治るよ」と言って病院に行こうとしなかった。
そして仕事中に倒れて病院に担ぎ込まれたときには手の施しようのない状態まで病気が進行していたのだ。
初老のお医者さんが、ベッドに寝かされた私の顔を覗き込んで「どれだけ我慢強いんですか。もっと早く病院に来てくれれば」と眉をしかめた。
お医者さんから病気のことを説明してもらった。詳しいことはわからなかったけれど、腎臓か肝臓かその辺りの臓器の病気らしい。早く見つけていれば薬で病気を治すことができたのだけど、ひどくなりすぎて体中に毒が回ってしまったのだと言われた。
その日の夜になってナオが病院に駆け込んできた。顔を真っ青にしているナオは私よりも重病に見えた。
「ごめんナオ、心配かけて」
ナオはただ首を横にふって私の手を握る。
お医者さんに治らないのならば家に帰りたいと訴えたのだけど聞き入れてもらえなかった。入院の費用もばかにならない。それが心配だった。
その日からナオは一日中私に付き添って病院にいた。
「ミィのご実家に連絡したから。きっともうすぐお父様とお母様が来てくれるからね」
ナオが言う。
「連絡なんてしなくていいのに」
「親子が会えるいい機会じゃない。だからご両親が来るまでに元気になろうね」
ナオはそう笑顔を作ってそう言ったけれど、お医者さんが宣告した通り回復することはなかった。
ナオは日増しにやつれていった。「ごはん食べてる?」「ちゃんと寝てる?」何度そう聞いてもナオは笑顔を作るだけで私のそばを離れようとしない。
「毎日ここにいて大丈夫なの? 食堂の仕事は?」
そう聞いてもナオは笑みを浮かべるだけで答えてくれなかった。
私の病状は日増しに悪化していった。激しい痛みを抑えるために、強い薬を使うようになった。だけど強い薬を使うと意識が朦朧としてナオと話すこともできない。それが嫌で薬を拒んだこともあるけれど、痛みに耐えきれずにナオに八つ当たりをして傷つけてしまった。
「ナオ、別れよう。もう私のことは捨てていいよ」
私は何度もナオにそう言ったのにナオは私の手を離そうとしなかった。
「早く元気になってあの家に帰ろう」
「また一緒に銭湯に行こう。背中を流してあげる」
「お隣の奥さんの赤ちゃんが生まれたよ。すごくかわいいの。赤ちゃんと一緒に遊ぼう」
ナオはそうして毎日私を元気づけようとしてくれた。だけどナオの語る未来が決して実現できないことを私は知っていた。
もっと早く病院にかかっていればよかった。
実家にお金を送らなければよかった。
ナオと二人で暮らさなければよかった。
ナオの結婚を引き留めなければよかった。
ナオを好きにならなければよかった。
私の心には後悔ばかりが渦巻いていた。どうして私は、こんなにも大好きなナオを悲しませることしかできないのだろう。
そうして私は、大きな後悔を胸に抱いてこの世をさった。
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