9.旅
壮ちゃんと暮らした部屋を退去した。持ち物の多くを処分して、私に残ったのは愛車に乗せられる程度の荷物だけだった。
大内さんを抱いた日、眠る大内さんを残して私はひとりで部屋を出た。大内さんから渡されたしわだらけのお札はそのまま部屋に残してきた。
仕事をまっとうで来たのならば受け取ってくるべきだったと思う。だけど私の最後の仕事は、仕事とは呼べないお粗末なものだった。
彼女と肌を合わせる喜びに陶酔してしまった私にお金を受け取る資格はない。
大内さんはそれからも図書館に顔を出さず、あれから一度も顔を見ないまま図書館を辞めた。
顔を合わせたところでどんな顔をすればいいのかわからなかったからちょうどよかったと思う。大内さんには私のことなんて早く忘れてほしい。
「んじゃよろしくお願いします」
車の助手席に乗り込んだ壮ちゃんがシートベルトを締めながら言った。
「はい、お任せください」
私はゆっくりと車を発進させる。
部屋を退去したその足で壮ちゃんはフランスで待つ彼の元に行くらしい。だから私は運転手を買って出たのだ。
すべてをリセットして私は清々しい気持ちになっていた。
「美也ちゃんはこれからどうするの?」
「しばらくのんびり旅をしようと思ってる」
「そっか、いいね」
壮ちゃんは笑みを浮かべた。
「壮ちゃんは向こうについたらすぐに式を挙げるの?」
「うん。その予定。それからしばらくヨーロッパを回って新婚旅行をするんだ」
「いいな、楽しそう」
彼がポッコリしたおなかをかわいいと言ってくれるなんて惚気ていたのに、あれから毎日腹筋をしていたのを私は知っている。彼はきっと壮ちゃんのそんなところがかわいくて仕方ないんだと思った。
パッと見た感じ、腹筋の効果がでているのかどうかわからなかったけれど、きっと素敵な式になることだろう。
「美也ちゃんも好きな人と旅をすればいいんじゃない?」
「だから、好きな人なんていないってば」
一瞬の脳裏に浮かんだ顔を私は笑い飛ばして消した。
見送りは駐車場まででいいと言われて、私は壮ちゃんと空港の駐車場で別れる。
空港の中に姿が消えるまで束の間夫だった人を見送って、私は愛車の運転席に身を沈めた。
そしてカーナビに住所を入力して一人旅をスタートさせた。
休みながら長距離を運転してようやく目的地についた。
私は車から降りてグーっと背を伸ばしてトントンと腰を叩いた。
ぐるりと辺りを見回して視野に入るのは田んぼと畑と山だけだった。たまに通りかかる人が珍しいものを見るように私の姿に視線を送る。
あまりに変わっていない景色に私は思わず笑ってしまった
道路は舗装されているし、遠くに見える小学校はガッチリしたコンクリートの姿になっている。民家は建て替えられてきれいになっていたけれど、基本的にはあの頃と変わっていない。
私は記憶を頼りに道を歩いていく。
そして記憶通りの場所に民家を発見した。想像していたよりもずっと立派な建物になっている。
表札には『山野辺』と書かれていた。『山野辺都』の生家で間違いないはずだ。
庭先で農機具を洗っている男性がいた。
腰が曲がりはじめていて七十歳は超えているように見える。男性は私の姿に気付いて腰を叩きながら顔を上げた。
「なんか用かね?」
男性は大きな声で私に声を掛けた。私は少し近づいて男性に尋ねる。
「こちら、山野辺さんのお宅ですよね?」
表札を見たのだから間違いないのだけど、いきなり本題を出すのも憚られた。
「ああ、そうだが?」
「こちらのお宅に昔、都さんという方はいらっしゃいましたか?」
「都?」
男性は渋い顔をして首をひねる。そうしてしばらく考えてから「ああ」とつぶやいた。
「たしかオレのオヤジの妹がそんな名前だったかな」
「そうですか」
どうやらこの男性は兄の息子らしい。『都』は十六歳で家を出てから一度も帰省していないため、甥や姪とほとんど面識がないはずだ。
それでも私の記憶通り、この場所に山野辺家があり、『都』という女性が存在していたことを確認できた。
あの夢は私の空想ではない。
「あんた誰だね?」
私を怪しむのも当然だろう。私はそんなときのために考えていた言い訳を口にする。
「実は私の母が若いころ都さんのお世話になったと聞いて……。仕事でこちらの方に寄る用事があったので訪ねてみようと思いまして」
「うーん、そうなのかぁ。すまんねぇ。オレも叔母のことはよく知らんで」
「いえ、こちらこそ急にお訪ねしてすみません」
「親御さんはまだお元気なのかい?」
「いえ、すでに亡くなりました」
「そうか……あんたの母親っていうのは古河っていう人かね?」
心臓が跳ね上がった。『古河』とは『古河尚子』のことを指しているに違いない。
「古河さんのことをご存じなんですか?」
「知ってるって程じゃないがね。毎年お盆の時期になると叔母宛てにお供えを送ってきてたんだよ。何十年か前から届かないから亡くなったのかもしれないねぇ」
「そう、ですか……」
『尚子』はどれだけ長い時間、『都』のことを想ってくれていたのだろう。それを考えると涙があふれてしまった。
「あや、どうされたんだね」
「いえ、なんだかちょっとすごいなと思ったら……」
男性は訝し気な顔をしながらも、ウンウンと頷いた。
「叔母は三十代で若死にしてるから、本当に長いこと気に留めてくれてたよ。本当に律義な人だったねぇ。あんた、古河さんのことも知ってるのかい?」
「ええ、少し」
「うちの家族でも叔母と古河さんはどんな関係だったんだろうって噂してたんだよ。あんたは知ってるのかい?」
「いえ」
「まぁ、そうだろうなぁ」
男性はなんだか不思議なものを見るような顔をして、涙が止まらない私の顔をマジマジと見つめていた。
『都』の甥に丁重に礼を伝えて私は山野辺家を後にした。
それから車で駅のある繁華街に移動してビジネスホテルに宿をとる。
この駅は、『都』が紡績工場に働きに出るとき汽車に乗り込んだ場所だ。この駅から旅立って『都』は二度とこの地を踏むことが無かった。
頑ななまでに実家に帰ろうとしなかったのは、かつて『尚子』が結婚させられそうになったことを覚えていたからだ。結婚適齢期も過ぎた女が、のこのこ実家に帰ったら強引に結婚させられるのではないかと思っていた。
家族のことを思ってなかったわけではない。だからずっと仕送りだけは続けていた。それでも血のつながりのある家族よりも『尚子』の方が大切だった。
『都』が帰れなかった土地に私がいることを『都』はどう思うのだろうか。
『都』が故郷に別れを告げた駅の周辺はすっかり様変わりしていた。田舎とはいえ、この辺りで一番大きな駅だから、開発が進んでいるのは当然だ。
むしろあの頃は店も家もほとんどなかったから開発がしやすかったのではないかと思った。
軽く駅周辺を散策してからファミレスで夕食を食べてビジネスホテルに入った。
シャワーを浴びてベッドに横になった途端眠ってしまった。『都』の故郷に来たから、昔の夢を見るのではないかと思ったけれど、長距離の運転で疲れていたからか、夢もみることなくグッスリと眠ることができた。
翌日は朝早く車に乗り込み、次の目的地に向かった。
再び長いドライブをして辿り着いたのは郊外にある大型ショッピングモールだ。
ショッピングモールの駐車場に車を止めてその周辺を歩き回る。図書館で手に入れた古い地図のコピーを片手にゆっくりと風景を確かめながら歩く。
このショッピングモールは紡績工場跡地に建ったものだ。
この場所に『都』と『尚子』が出会った紡績工場があった。だけどショッピングモールをいくら見上げても当時の面影を感じられない。
足を延ばしてかつて二人が『デイト』をした商店街に行った。そこには少しだけ当時の風景が残っていた。
あの頃手が出なかったモダンなお菓子を売っていた洋菓子店は老舗の風格を醸し出していた。
『都』と『尚子』は手を繋いで店の前に立ち、遠くからショーウィンドウを眺めて「いつかこの店でケーキを買おう」と話していた。
寮の部屋が別れることがきまり、一緒に過ごす最後の日にケーキをひとつ買って二人で仲良く食べてた。
はじめて食べる洋菓子の味に、二人は飛び出しそうなほど目を丸くした。
随分様変わりをしている街並みを古い地図を頼りに歩き回ったけれど、古本屋を見つけることはできなかった。古本屋があったと推測される場所にはマンションが建っていた。
二人が足しげく通った古本屋は、実際に見たいと思っていた場所のひとつだったから少し残念だ。
しかしそれだけの時間が流れているのだから仕方ない。
私は車に戻って次の場所を目指した。
早くその場所を見たいという気持ちを抑えて、私は目的地近くの繁華街でビジネスホテルに泊まった。
翌日は車を繁華街に停めたまま、電車で目的地に移動する。
目的の駅はすっかり新しく立派になっていて当時の面影はまったくない。
そこから駅前の商店街に足を進めた。商店街に入ってすぐに足を止めて見回したけれど、かつて繁盛していた食堂は無くなっていた。その場所はビルになっていて、一階部分には小さなテナントが四つ並んでいる。
食堂は『尚子』が働いていた場所だ。
『尚子』は昼食時と夕食時の給仕として働いていたのだけど、調理を覚えたいと言って少し早く店に入り、仕込みの手伝いまでしていた。
『都』は「あんまり無理すると体を壊しちゃうよ」といつも言っていたくせに、自分の方が倒れてしまったのだから本当に馬鹿だなと思う。
私は商店街を折れて一本裏の通りに入る。地元の人しか通らない路地を抜けた先に銭湯があった。
外観は少し手を入れているようだけど、しっかりとあの頃の面影が残っている。まだ開店前だったので私はその前を通り過ぎて足を進めた。
しばらく進んだ先で足を止めて大きなマンションを見上げる。やはりあの長屋はもう残っていなかった。
だけどマンションの敷地の端に古い桜の木が一本佇んでいるのを見つけることができた。
長屋の端に生えていた、あの頃はまだ若かった桜の木だけは残っている。春になって桜が咲くと、誰ともなく長屋の住人が桜の下に御座を広げて宴会をはじめた。
私たちが通りかかると「ちょっと寄ってきな」と声を掛けられて二人でご相伴に預かった。自分たちの家から夕食用にと取っておいた料理を持ってきて参加したこともある。
最初は女二人で住んでいる私たちを遠巻きに見ていた人たちも、次第に仲良くなって色々と気にかけてくれるようになった。
私は二人で散歩した道や買い物をした店を回って歩いた。辺りはすっかり様変わりしていたけれど、ときどき見つける当時の面影に笑みがこぼれた。
銭湯が開店する時間になったので銭湯まで戻る。
扉を開けて中にはいるとタイムスリップしてしまったのかと錯覚した。それほどまでに当時の面影を残している。
番台でお金を払って脱衣所に向かう。
はやる気持ちを抑えて服を脱ぎ、浴場の中に足を踏み入れた。
古ぼけた壁や床に長い年月を感る。それでもそこに『都』と『尚子』がいるような気がした。
体を洗ってから、相変わらず少し熱いお湯に身を沈めた。
私は心の中の『都』に声を掛ける。
「もう、いいよね?」
そうして私は『都』と決別した。
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