7.肌
「相馬さん、再契約しないんですって?」
どこから聞きつけたのか同僚の一人が言った。
「ええ」
私は神妙な顔と笑顔の中間の表情を作る。
「次のあてあるの?」
「いえ、特にないんですけど……」
「じゃあどうして? 相馬さんなら再契約できたでしょう?」
基本的には良い人たちなのだけど、こういうときは面倒だなと思う。
「ちょっと疲れちゃったというか……少し期間を置いてリフレッシュでもしようかと思って」
そう言いながら私は返却された本をカートに積んでいく。
「いいなぁ、私独り身だからそんな余裕ないや。結婚してると余裕があっていいよね」
嫌味なのか純粋にそう思っているのかわからない同僚の言葉に私は曖昧な笑みで答えてからカートを押してカウンターを離れた。
週に三回以上図書館に顔を出していた大内さんは、最近全く現れていない。
きっとレポートやテストで忙しいのだろう。などと考えてみたけれど、本当は私と顔を合わせたくないだけだということはわかっていた。
「本格的に嫌われたかな……」
ポロリと独り言がこぼれて私は辺りを見回した。
嫌われても仕方ないと思うけれどやはり少し寂しい。街で出会ったときの大内さんの顔が脳裏をかすめた。
激しい怒りの炎が瞳の中に宿っているようだった。若いあの子にあんな目をさせてしまったことに罪悪感を抱く。
壮ちゃんは私が大内さんのことを好きなんじゃないかと言ったけれど勘違いだ。
確かに大内さんのことは気にかかる。
私は傷つきやすく純粋だった中学生の大内さんのことを知っているし、本や図書館を好きになってくれたこともうれしく思っている。
大内さんが気になるのは、そんな彼女を私が傷つけてしまったからだ。
それに大内さんは『尚子』とは似ていない。ナオはいつでも私に道を示してくれるような人だった……そこまで考えて頭を振る。
最近特に前世の夢をよく見るようになったから、思考が『都』に近づいてしまっているようだ。『尚子』が導いていたのは『都』であって私ではない。
それに私は『尚子』に似た人を探しているわけでもない。あまり『都』に近づきすぎるのは危険だと思った。
どうして私に前世の記憶が残っているのか、その理由はわからないけれど、きっと過去の過ちを繰り返さないためだと思う。
前の人生で私はたくさんの過ちを犯した。
甘美で幸せだった日々に溺れて『都』は多くの人を傷つけた。一番傷つけたのは『尚子』だろう。
前世の記憶に意味があるのならば、それは贖罪をするためなのだと思う。
図書館での仕事を終えて私は愛車に乗り込んだ。
鞄からスマホを取り出して確認するとデリヘルのマネージャーからメッセージが入っていた。
辞めることを連絡しようと思っていたけれど、後回しにしたままだった。
私はマネージャーに電話を入れる。
― ミヤコさん、今日行けますか?
私はデリヘルに『ミヤコ』という源氏名で登録している。いい源氏名が浮かばず、思わず馴染んだ名前にしてしまったのだ。少し『尚子』に申し訳ないような気がしたけれど、呼ばれ慣れた名前だったから仕事中も自然に受け入れられた。
「そのことなんですけど、断っていただけますか?」
― え? 体調でも悪い?
「いえ、この仕事を辞めようと思っていて」
― どうして? って詮索しちゃダメだよね。
「すみません、急で」
― うーん、でも残念だなぁ。
「私みたいなおばさんにもう需要はないでしょう」
― そんなことないよ。ミヤコさんのテクニック評判いいから。
「ありがとうございます」
もしもテクニックを褒められるのだとしたら、それはきっと『都』と『尚子』のおかげだろう。あの二人はふれあいを本当に楽しんでいた。私は仕事として割り切った行為だけど、彼女たちの行為には愛が溢れていた。
― じゃあ、若いキャストの指導だけでも続けるってのはどう?
「すみません。しばらく旅に出ようと思っていて」
― そうなんだ……。じゃあまた気が向いたら戻ってきてくださいね。
「はい」
― あ、でも今日のお客様だけはお願いできませんか?
「うーん……」
さすがに私も今すぐ辞めるなんて申し訳ないような気がした。でも他にも対応できるキャストはいるはずだ。
― 今日のお客様、ミヤコさんを指名してるんですよ。
デリヘルのホームページには簡単なプロフィールが掲載されているから指名されることもある。例えば私と同年代の女性が、あまり若い子だと気後れするからという理由で、年齢の近い私を指名する。
そうした指名であったとしても、私の他にも四十代のキャストがいるから問題ないはずだった。
「他の方にお願いすることはできませんか?」
― どうしてもダメならお客様に連絡してみるけど、その人、絶対にミヤコさんにしてほしいっていう希望で。
「絶対に?」
― 名前に見覚えはないんだけど、前にミヤコさんが対応したお客様じゃないのかな? それこそミヤコさんのテクニックにハマっちゃったんじゃないの?
「何を言ってるんですか。そのお客様のお名前は?」
― ミエさん、かな? ローマ字でエム、アイ、イー。
頭の中で『Mie』とローマ字に変換する。その名前は私の記憶の中にもない。
「わかりました。では今日の仕事を最後の仕事にさせてください」
― 了解。じゃあ、指定の場所と時間をメッセージで送るね。
「お願いします」
電話を切ってしばらく待つと、マネージャーからメッセージが届いた。
カーナビに指定されたシティーホテルの住所を入力する。指定された時間から考えると、一旦自宅に戻っている余裕はなさそうだ。
私はそんなにたくさんデリヘルの仕事をこなしてきたわけではない。それでも十年以上続けてきた仕事だ。
有終の美ではないけれど、最後のお客様に満足してもらえるサービスをしよう。そう心に決めて指定されたシティーホテルに車を走らせた。
ホテルに到着した私はフロントを素通りして指定された部屋に向かう。
ホテルに来る前にデパートに寄って化粧室で着替えと仕事用のメイクを済ませた。さすがに図書館勤務用の落ち着いた服と化粧で来るわけにはいかない。
時間があれば自宅に帰ってシャワーも浴びたかったけれどそれだけの余裕はなかった。まだ汗をかくような季節ではないからいきなり汗臭いなんて言われないとは思うけれど、プレイの前にシャワーは浴びようと心に決める。
エレベーターに乗り込み十五階のボタンを押した。どうやらこのホテルの最上階のようだ。その上に十六階があるけれどそこにはスカイレストランという表記があり客室はなかった。
私は記憶を辿って再度『Mie』という人物を検索する。どうしても私にという指名ならば、一度は相手をしたことがあるはずだ。だけど該当する人物は思いつかなかった。
すべてのお客様を覚えているわけではないし、特にはじめたばかりのころのお客様は、私も必死だったから記憶があいまいだ。
それにお客様は常に同じニックネームを利用するわけではないから、以前は別の名前を使っていた可能性もある。
こういうときはいつもよりも緊張する。
相手は私のどこかを気に入って指名してくれたはずだ。それなのに私が全く相手のことを覚えていないと、少なからず落胆させてしまう。
エレベーターがゆっくりと止まって扉が開いた。十五階の表示を確認してからエレベーターを降りる。少しだけヒールが沈み込む厚いじゅうたんが敷かれた廊下を進む。足音が鳴らないような工夫なのかもしれない。一人の宿泊者もいないかのようにフロアは静まり返っていた。
私はスマホを開いて部屋番号を再度確認する。ここで間違えてしまったら笑い話にもならない。
間違いないことを確かめてからフゥと息を付いて笑顔を作った。
『Mie』さんのこと、顔を見て思い出せればいいのだけれどと思いつつ、私は部屋の扉をノックした。
少し待つとカチリと鍵を開ける音がして静かに扉が少しだけ開いた。だがすぐに閉じる動きに転じる。
私は慌てて手を出して扉を抑えた。
どうやら今日のお客様は少し愛想がないようだ。扉をあけてすぐに部屋の奥に戻ってしまったらしい。
私は速やかに部屋の中に体を滑り込ませた。
「こんばんは、ミヤコです」
私は後ろ手で鍵を閉めながら声を掛ける。部屋の奥にいる相手の顔は見えない。まず私の源氏名を告げるのは、もしも部屋を間違えていた場合でも被害を最小限にできるからだ。全く身に覚えのない人ならば「誰?」という反応をするだろう。
そうして部屋の主がお客様で間違いないことを確認してからシステムの説明をしたり希望を確認したりするのだ。
この部屋の主は私の名前を聞いても何の反応も見せない。部屋違いという可能性はなさそうだけど、かなり緊張しているのかもしれない。
私はゆっくりと部屋の奥に足を踏み入れた。
そして室内が見渡せる場所まできたところで身動きが取れなくなった。
ベッドの端に腰を掛けて燃えるような目で私を見ていたのが大内さんだったからだ。急激に跳ね上がった心拍数を抑えるように私は大きく息を付く。
「またなの? 今度は何の話?」
大内さんは黙ったままだ。
私は口を開いたことで少し冷静さを取り戻していた。私を呼び出したのが大内さんなら『Mie』とは『ミー』と読むのだろう。大内さんがかつて飼っていた猫の名前。
「ああ、そうだ。図書館の件なら今月いっぱいで辞めるから」
大内さんの眉がピクリと動いた。
「それを確認したかったんでしょう? こんなホテルを取らなくても直接聞いてくれればよかったのに」
大内さんが何の言葉も発しないから私はひとりで話し続ける。
「今日のこれはキャンセルにしておくわね」
この仕事を辞めることは言わない。それは大内さんには関係のないことだからだ。そして部屋を去ろうと思ったのだけれど、なんだか悔しくなって余計なひと言を足してしまった。
「もうこういうことは迷惑だからやめてくれる? 営業妨害よ」
すると大内さんが立ちあがって大股で私の元へと歩み寄った。手が上がる動作が見えて叩かれるのだと思った。私は咄嗟に目をつぶって痛みに耐える準備をする。だけど頬に痛みが走ることはなかった。
代わりに唇にやわらかな感触が当たる。目を開けて確認するまでもない。大内さんが私にキスをしていたのだ。
震える唇をただ押し付けるような不器用なキスに胸が締め付けられた。『都』がはじめて『尚子』にしたキスもこんな不器用で乱暴なキスだった。
体を離した大内さんは握りしめていたくしゃくしゃのお札を私の胸もとに押し付ける。
「お金、払えばヤれるんでしょう」
「大内さん?」
「仕事なんだから誰とだってヤれるんでしょう」
大内さんは相変わらず燃えるような瞳で私を睨みつけている。怒りのこもった瞳だった。だけど怒りだけではないような気がした。それは私の願望なのかもしれない。
「大内さん」
「ゴチャゴチャ言わないで!」
大内さんは大きな声で言うとお金を私に押し付けて服を脱ぎはじめた。私はどうすればいいのかわからずただその様子を眺めていた。
一枚ずつ布を剥ぎ素肌が露わになっていくと、大内さんの肌に触れたいという欲求が湧き起こる。
私は押し付けられたお札を見つめて「これは仕事だ」と自分にいいきかせる。
私はバッグと受け取ったお金をテーブルの上に置いた。
「もちろん仕事なら喜んで。けど、その前にシャワーを浴びていい?」
私は『ミヤコ』の顔になって大内さんに言う。すでに下着姿になっていた大内さんは、服を剥ぐ手をとめて頷いた。
浴室まで行ってから服を脱ごうかとも思ったけれど、すでに服を脱ぎはじめている大内さんがいたので、私はその場で服を脱ぐことにした。
私の一挙手一投足を食い入るように見つめる大内さんの視線を感じる。その視線だけで濡れてしまいそうになる自分に動揺した。私は動揺を隠しつつ最後の一枚まで脱ぐと浴室へと足を進める。
シャワーを浴びて大きく何度か息を付いた。
これは仕事だ。私はプロとしてお客様を満足させなければいけない。ただそれだけを心の中で念じる。
気配を感じて振り返ると大内さんも浴室に入ってきていた。
「一緒にシャワー浴びる?」
私は自分の緊張を隠して軽い口調で言った。大内さんは何も言わずに足を進める。
「ちょっと狭いね」
私が言ったときには大内さんの体は触れそうなほど近くに来ていた。少し丸みを帯びた体に透き通るような白い肌、ハリのある二つの丸みと緊張するその先端。私は大内さんの体から目が離せなくなった。
「あー、やっぱり若いと肌のハリが違うわね」
話すことで自分の緊張をほぐそうとしたけれど、なかなか上手くいかない。むしろますます緊張して胸の奥がキューっと締め付けられる感覚が走った。
「あの、触っていい?」
ようやく口を開いた大内さんは私の胸を見て言った。
「どうぞ」
私が答えると大内さんは恐る恐る手を伸ばしてそっと私の胸に触れた。ぎこちない動きでただ触れただけなのに、なぜか電撃を浴びたような痺れを感じて思わず体を引いてしまった。
大内さんは驚いたように目を開いて私を見た。
「そうだ、身体、洗って上げましょうか?」
うまく誤魔化せただろうかと思いつつ、ボディーソープを手に取って両手をこすり合わせて泡立てる。
どうすればいいのかわからず棒立ちになっている大内さんを正面から抱きしめるように腕を回して泡立った手のひらで背中を撫でた。
大内さんの肌を視界から外すことには成功したけれど、今度は全身で大内さんの肌を感じる。
肌と肌が、胸と胸が、溶け合うように張り付いた。私は作業に集中すべく大内さんの背中を泡立てていく。大内さんの腕が私の首元に回されてさらに体が密着する。
耳元で響く大内さんの息遣いに私は興奮していった。
「大内さん、こういうこと、はじめて?」
私が聞くと、私の肩に顔をうずめるようにして大内さんが頷いた。
「緊張しないで」
それは大内さんに言った言葉だけど、私自身に対して言った言葉でもあった。まるではじめてのときのように緊張している。
「菜穂美……」
吐く息とともに大内さんの声がした。
「名前を呼んでほしい……」
耳に響く大内さんの声は、私の脳を直接揺さぶるようだった。しびれていく脳に必死で理性のブレーキをかける。
「わかった、菜穂美」
そう答えて大内さんの背中に両手を這わせた。
円を描くように背中をなぞり、ゆっくりと腰のカーブへと手を滑らせる。ビクリと体を震わせる大内さんの反応に私は興奮していく。
「菜穂美」
耳元で囁くと大内さんは私の首に回す手に力を込めた。
背中を這わせる手をゆっくりとおろしていき、やわらかなおしりのカーブに指を這わせながら大内さんの首すじにキスを落とす。
大内さんは「ん」と押し殺すような息を吐いた。
「ナオ……」
無意識にその名前を呼んでしまったことに気付いて慌てて「菜穂美」と言い直す。
全身の細胞という細胞が沸騰するようだった。これまで何人もの女性と肌を合わせてきたけれどこんな感覚になったことはなかった。
大内さんの肌に触れて、声を聞く度に『都』の意識に支配されていく気がした。欲望のままに大内さんを抱きたいと思った。
だけど私は『都』じゃない。そして大内さんは『尚子』ではない。
全身が性感帯になったように大内さんの肌に触れるだけで快感が走った。
私は今にも手放したくなる理性を必死で手繰り寄せる。
これは仕事だ。これから先、大内さんが本当に大切な人と出会い、愛を育んでいけるように、私は精一杯の奉仕をする。それが最後に大内さんにしてあげられる唯一のことだ。
私は何度も自分にそう言い聞かせながら大内さんを抱いた。
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