6.破談

 帰ってきたナオの顔が赤く腫れていた。

「ナオ、どうしたの?」

「父親に叩かれた……」

 ナオはそう言うと力が抜けたようにその場にへたり込んだ。

「ひどい。ちょっと待ってて!」

 私は箪笥(たんす)から手ぬぐいを取り出して部屋を飛び出した。ペタペタと鳴る足音も気にせずに速足で給仕場に行き、手ぬぐいを冷たい水に浸す。それをギュッと絞るとすぐに部屋に戻った。気が急いて最後の方は駆け足になっていた。

「ナオ」

 私はナオの隣に座ると顔を覗き込んで、冷えた手ぬぐいを張れた頬にそっと当てた。

 少し呆然とした様子のナオはしばらく私を見つめていたけれど、急に私の首に腕を回して抱き着く。

「ちょっとナオ、冷やせないよ」

 ナオの顔は私の顔の横にあるから手ぬぐいを当ててあげることができない。

「結婚、なくなったよ」

 そう言ったナオの声はすっかり落ち着いていた。そして体を離すと私の手から手ぬぐいを取って自分の頬に当てた。

「ナオ?」

 ナオは実家への手紙に結婚をしたくないという旨を綴った。その手紙を受けて、今日はナオのお父さんがここにやってきていたのだ。

 結婚がなくなったということは、お父さんはナオの気持ちを理解してくれたのだろうか。でもそれならばこんなにひどく頬を腫らすはずがない。

「勘当だってさ……。あー、清々したー」

 私は目を見開いてナオの顔を見た。ナオは軽い口調で言ったけれど、勘当はそんな簡単な話ではない。ナオは親子の縁を切られてしまったのだ。

「ごめん。私のせいだ……」

「どうしてミィが謝るの? ミィのせいじゃないよ」

 私は首を横に振る。

「違う。私のせいだよ。私が無理矢理に……」

 するとナオは怖い顔をして「ミィ」と言った。

「無理矢理なんかじゃなかった。最初は驚いたけど、絶対に無理矢理なんかじゃない」

 私はナオの顔をじっと見る。ナオは少し恥ずかしそうに目を伏せると私の頬に手を添えてそっと唇を重ねた。

「あのとき、私もミィと離れるのがすごく嫌だった。だけど仕方がないって諦めようとしてた。だって、ミィと離れたくないって想うのがどうしてなのかよくわかってなかったから……。だけどミィがああしてくれて……、それで私も気付けたんだよ。ミィとずっと一緒にいたいって本当に思ってるよ」

「だけど……」

 それでも胸に押し寄せる罪悪感は消えない。

「ねぇ、その顔はなに? 私と一緒にいたくないの? 結婚した方がよかったの?」

「そんなわけない!」

 私は即座に叫んだ。

 ナオとずっと一緒にいたい。離れたくない。結婚してほしくない。それは本当の気持ちだ。だけどそのためにナオが勘当されてしまったのだと思うと、あのとき欲望を抑えられなかった自分を悔いてしまう。

「私は後悔してないよ。だからそんな顔しないで」

「でも勘当なんて……どうしてそんなことになってしまったの?」

 するとナオはきまりが悪そうな顔をして頬を掻いた。

「私だって最初の内はちゃんとわかってもらおうと思って話していたんだよ。だけどまったく私の話を聞いてくれないし、わからずやだし……。しまいには「お前の意見なんて聞いていない!」とか言うものだから……」

 ナオ自身の結婚の話なのに全く話を聞いてくれないのは酷いと思った。働きに出る前、私にも少し結婚の話が出ていたし、働きに出ることにも反対されたけれど、私の話を聞いて最後には許してくれた。

「ナオのお父さんはとても厳しい人なんだね」

「そんなんじゃないよ。ただお酒を飲むお金が欲しかっただけだと思う」

「そんな……」

「新しい舟を買うお金がいるとかって言ってたけど、いつも呑んだくれててほとんど漁に行かないんだよ。そんな話、信じられるはずないじゃない」

「ナオのお父さんって漁師さんなの?」

 そういえばナオの故郷の話を今まで聞いたことが無い。ナオの元気さは、海辺の町によく似合うと思った。

「一応ね。でも全然働かないの。だからお金が欲しいんでしょう」

「どうしてお金が欲しいと結婚になるの?」

 食い扶持を減らすというのならば理解できた。ウチの家もそうだったからだ。だけど今のナオはもう家を出ている。

「支度金をたくさんもらえるはずだったんじゃないかな」

 そこまで教えてもらって私はようやくお金と結婚の話が結びついた。だけどナオのお父さんが本当にお金欲しさでてナオを結婚させようとしていたのなら、勘当するよりも無理矢理連れて帰って結婚させるような気がした。

「それならどうして勘当されてしまったの?」

「あんまりわからずやだから、つい、将来を約束した人がいるって言っちゃったの」

 私は頭からサァーと血の気が引いてくのを感じた。

「あと、もうその人と深い関係だから結婚なんてしないって……そうしたら、バチーンだよ」

 私はどう良いのかわからずに、口をパクパクさせることしかできなかった。

「大丈夫、ミィのことは言ってないよ。どこの男だ! って大騒ぎはしたんだけどね」

 ナオはカラカラと笑って続けた。

「私がもう処女じゃないってわかったから、用無しになったんだと思う」

「どういう意味?」

「結婚は処女じゃなくちゃ駄目なんじゃないの?」

「そうなの?」

「私もよく分からないけどそういうことだと思う」

 私たちは二人で首を傾げた。

「ともかく、勘当されたんだからもう結婚話もないし、仕送りだってしなくてよくなるんだよ。これからは本を二冊、ううん三冊買える」

 そうしてナオが目を弓にして笑うから私の気持ちも軽くなっていった。だけど少しだけ引っかかることがあった。

「ねぇ、ちょっと変なことを聞いてもいい?」

「なぁに?」

「ナオって……えっと……処女じゃないの?」

「ん? んー、どうなんだろう」

 男性と関係を持つと処女ではなくなるという話は聞いたことがある。けれど女同士の場合がどうなのか聞いたことが無かった。

「調べたら処女かどうかわかるのかな?」

「どうしてそんなことを気にするの?」

 ナオが眉根を寄せて口を尖らせる。

「えっと、だって、もしもナオがまだ処女だったら、またお父さんが来るのかなと思って……」

「なんだ、そんなことを気にしてたの? 大丈夫だよ。勘当までしだんだよ。もしも来たとしたらもこっちから勘当するよ」

「本当?」

「本当。だからこれからもずっと一緒だよ」

 ナオは頬に当てていた手ぬぐいをちゃぶ台の上に置いて私を抱きしめた。

「親に勘当されたし、結婚のあてもないし、私にはもうミィしかいないよ。だから絶対に離さないけど、それでもいい?」

「うん」

 私もナオの背中に腕を回した。しばらく抱き合ってからどちらからともなく口づけを交わす。最初は軽く触れるだけの口づけだったけれど、段々と口づけが深くなっていく。

「痛っ」

 ナオが体をビクッと跳ねあがらせて、まだ赤く腫れている頬を抑えた。

「ほら、まだ冷やさないと。もう一度、手ぬぐいを濡らしてくるね」

 私は手ぬぐいを持って立ち上がる。給仕場に急ぐ足が軽くて今にも飛び上がりそうだった。

 結局、ナオの頬の腫れが完全に引くまでに三日もかかった。食事をとるのも辛そうで、見ている私も辛くなった。

 当のナオは「早く治さないとミィと口づけができない」と言って私を赤面させた。

 ナオの頬の腫れがようやく治っってから訪れた早番の日、私たちはいつものように街に繰り出した。

「ねぇミィ、好きな人と一緒に出掛けることを『デイト』って言うんだよ。知ってる?」

「誰に聞いたの?」

「この間読んだ本に書いてあった。だからこれは『デイト』だね」

 そして私たちは手を繋いで街の中を歩き回る。これまでもナオとの散策は楽しかったけれど、それまで以上に楽しく感じた。

 どんなものを見ても胸が弾んだし、些細なことがおかしくて笑い転げてしまった。

 寮に帰る前に古本屋に立ち寄る。今月はもう本を買っていたけれど、ナオは二冊の本を買ってニカッと笑った。

 寮に帰って夕食をとったあと、私たちは部屋に戻って本を読んだ。壁に背を預けて並んで座って本を読む。ただそれだけのことが幸せだった。

 ナオは今日買ったばかりの本を読んでいた。

「どんな本を買ったの?」

 私は自分の本に視線を落としたまま聞く。

「吉屋信子(よしやのぶこ)」

「作者さんの名前?」

「うん」

「どんな内容なの?」

「今読んでる」

「あ、そっか、そうだね」

 そうして私も読書を再開する。だけどすぐにナオが口を開いた。

「私が読み終わったらミィも読むといいよ」

「うん」

「少女と少女のお話。私たちみたいな」

「そうなの?」

「うん」

 そっと横顔を見ると、ナオは真剣な表情で文字を追っていた。その横顔がきれいだなと思った。口づけをしたくなったけれど、読書の邪魔をしてしまうから、グッと堪えて私も本を読んだ。



 私とナオはそれまで以上に仲良くなった。

 相変わらず私たちを「双子みたいだ」なんて揶揄する人がいたけれど、心の中では「双子じゃなくて夫婦なんだ」と思っていた。

 かつて少し離して敷いていた布団は、重なるくらいぴったりと寄せて敷くようになっていた。そして互いに布団の内側に体を寄せて手を繋いだり抱き合ったりして眠った。

 手足の冷えがひどいナオは、私の手足が温かいと言って喜び、冷たさで逃げる私を追いかけるようにして手や足を絡ませた。

 私たちが早番で、隣室の子が遅番の夜には密やかに肌を重ねた。何度も肌を重ねながら、触りたい場所や触って欲しい場所を教え合い、お互いに満足できる行為を研究した。特にナオは研究熱心で、私はときどき思いもよらない声を上げて恥ずかしくなってしまうことがあった。

 そんなとき決まってナオは自慢げに口角を上げて笑うと、私にその声を出させようと何度も繰り返した。

 いくら隣室が仕事で空でもあまりに大きな声を出すと、寮の他の部屋の人に気付かれてしまう。だから声が出てしまいそうなときはナオが唇を当てて塞いでくれた。

 だけど唇の感触が心地良くて余計に声が出てしまいそうになる。一所懸命に堪える私を見て、ナオは嬉しそうに目を弓型にした。

 親密な私たちの関係は少しずつ周囲に噂されるようになっていった。

 工員の多くが女性で刺激的な出来事も少ない環境の中で、私たちはかっこうの的だったのだと思う。結婚をして辞めていく同僚が多い中で、いつまでも結婚をしないでいたことも標的になる要因になったのだろう。

 ある日私たちは寮母さんに呼び出された。

「あなたたちがいかがわしい関係なのではないかと噂されているのは知っていますか?」

 その言葉に私はドキドキしてしまったけれど、チラリと覗き見たナオはとても堂々としていた。

「いかがわしい?」

 私は少し首をひねってとぼけて見せる。

「女工同士で仲が良いのはいいことだと思いますが、度が過ぎてはいけません」

「度が過ぎるとは何がいけないのでしょう?」

 尋ねたのはナオだ。

 寮母さんはコホンと咳払いをひとつした。

「おかしな声を聞いたという人もいますよ」

「おかしな声? それはきっとナオのせいです」

 私が言うと、寮母さんはピクリと眉を動かして私を見た。ナオも心配そうな視線を私に送ってる。

「ナオの手、いつも冷たいんです。嫌だっていうのにいつも首とか腕を触るからウワッってなるんです」

「なるほど……ですが、おかしな声を聞いたという人はたくさんいますよ」

 寮母さんの言葉に、寮のみんなは夜な夜な壁に耳を当てているのだろうかと思った。

 それにしても寮母さんは私たちからどんな話を聞き出したいのだろう。私の言葉を疑っているようだけど、本当のことを話したら大変なことになりそうな気がした。

「もしかしてあれかな?」

 ナオが私を見て言った。あれとは何かわからなくて私はうまく話しを合わせられない。

「本の朗読やお芝居の真似事をして遊んでいるでしょう。その声がうるさいのかもしれないよ」

「そうなのかな?」

 それは実際に二人でやっている遊びだった。

 寮母さんはフゥとため息をついた。

「わかりました。ともかくみんなに誤解を与えるようなことはしないようにしてください」

 そうしてその場は開放されたのだけど、一週間後に部屋割りの変更と班の変更の通達が届いた。

 ベテランの私とナオを別々にして、それぞれ新人女工の指導をするためという名目だった。

 その通達に私は絶望した。

「大丈夫だよ、ミィ。会えなくなるわけじゃないから」

 泣きそうな顔でナオが私を抱きしめた。

「そうだね。仕事の時間が一緒のときにはご飯を一緒に食べよう」

 私は提案する。ナオも笑顔で頷いた。

「また街で『デイト』をしょう」

 私も笑顔で頷いた。

 遠くに離れるわけではない。同じ寮にいて、同じ工場で働いている。だからいつだって会うことができる。

 そう思っていたけれど、実際に部屋が変わり、班が変わるとナオと顔を合わせることはほとんどなくなった。

 おそらくわざとそうなるようにしていたのだと思う。

 だから私はナオに手紙を書いた。もしも誰かに見られてもいいように、本当にたわいもない内容しか書けなかったけれど、手紙のやりとりをするだけでも少し気持ちが落ち着いた。

 新しく同室になった女の子は大人しくていい子だったけれど、一緒の部屋にいると落ち着かなかった。

 はじめて会った日から仲良くなれたナオとは全く違って驚いた。そしてナオが私以外の誰かと布団を並べて寝ているのかと思うと、胸の奥から沸々と熱い何かが湧き上がってきた。それが嫉妬という気持ちだと気付くまで二月かかった。

 三月たって私たちが表向き平穏に過ごしていたことで、仕事ではナオと顔を合わせられるようになった。

 二人とも早番だった日、私たちは久しぶりに街で『デイト』をした。

 ほんの半日では語りつくせないほど話したいことがあった。

 ナオの話で驚いたのは、ナオも私の同室の女の子に嫉妬をしていたということだ。なんだか少しだけうれしかった。

 私はナオと同室の女の子に嫉妬をしていたけれど、ナオは部屋にいても落ち着かなくて困っていたのだという。本も集中して読めないから、食堂や中庭で本を読んでいたそうだ。

 だけど同室の女の子が、ナオに嫌われているのだと勘違いをして泣いてしまったから最近は部屋で本を読んでいると言っていた。

「やっぱりミィの隣じゃないと落ち着かないよ」

 ナオは眉尻を下げて言う。

「私もナオの隣じゃないと落ち着かない」

 私はそう答えてナオの手を握った。

 そうしてギリギリの時間まで街で過ごしてから寮に帰った。

 手を繋いで寮に帰る道すがら、ナオがはっきりとした口調で私に言った。

「もう少しお金が貯まったら、この会社を辞めて一緒に暮らそう」

 私はそんなことを考えたこともなかったから驚いた。驚いたけれど迷うことはひとつもなかった。

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