3

「ハンス、腕はどうだ?」

 二人が去って行ったのを確認して、ケガの状態を心配したジャンがハンスに声を掛けた。


「大丈夫!ここ数日で痛みはだいぶ引いてきたよ。モーリスさんにもらった痛み止めの効果もあると思うけど、10日前に比べたら随分状態は良くなってる。」

 ハンスは笑顔で答えたが、強がりなのか本当なのか、ジャンには判断がつかなかった。ただどちらにしろ今日のレースを辞退するという選択はハンスの中に一ミリもないことだけは確実だった。するとジルベールが真剣にハンスの目を見て続けた。

「レース中に少しでも危険だと感じたらすぐに離脱しろよ。お前がパイロットになりたい気持ちより命の方が大事なことは明白だろ。判断を誤るなよ。」

 ハンスはジルベールの目を見返してから、わかってるよ、とはっきり答えた。

「本当に大丈夫なの?この10日間は結局一度も飛行訓練はできてないし、感覚が狂ったりしてない?」

 ハンスの答えを聞いても不安を拭えないイアンが、確かめるように重ねた。


「それまで毎日散々訓練してきたから、嫌でも染み付いてるよ!」

 相手の不安を吹き飛ばすようにハンスが笑って答えたとき、誰かが後ろからそっと制服の裾を引っ張った。

「…ハンス、これ。」

 振り向くとそこにいたのはヘンリーだった。

「パイロットウォッチ。付けて。みんなで選んだんだ。」

 差し出された手に載せられている時計を見て、ハンスは驚いた。

「え、これ…俺に!?」

 突然のことに戸惑いながらも、ヘンリーに促されたハンスはそれを手に取った。群青色の文字盤に銀で数字が刻まれた美しい時計だった。ナビタイマーや回転計算尺も付いた、パイロット専用の腕時計だ。


「なんだよ…、全員こんなことする柄じゃないだろ!?」

 引き続き戸惑った様子のハンスに対して、クリスが柔らかく微笑んだ。

「これが最後になるかもだからな。…このレースでパイロットになるんだろ?」

 その言葉にハンスはようやくハッとした。自分がパイロットになったらもうこのチームでレースに出ることはない。そうだ、これが最後になるかもしれないんだ。…いや、最後にすると決めたのは自分だ。そんな当たり前のことがすっかり抜けていたことに今更ながら唖然とした。


「…みんな……、ありがとう。」

 一瞬ごめんと言おうとして、それは違うと思った。みんなは全部わかった上で本気で協力してくれたんだ。

 ハンスの反応に全員が笑みをこぼした。

「絶対優勝しろよ!腕のケガなんて関係ない、だろ?お前が言ったんだからな!」

 エリックが声をあげると同時に勢いよくハンスの肩に手を掛けた。

「俺たちの努力を無駄にするなよ!!最高の一体を造ったんだ、文句は言わせないぜ。」

 同じようにアルバートが反対側からハンスの肩をバンっと叩くと、ハンスは改めてはっきりと答えた。

「わかってるよ!このために散々訓練してきたんだ。もちろん優勝する!」

 ハンスの想いは何があってもブレない。たとえケガがどんな状態であっても変わらないだろう。するとレイが注意するように口を開いた。

「飛行中の最大Gは8〜10Gにもなる。訓練してない普通の人間なら確実にブラックアウトするレベルだ。そんな中で骨にヒビの入った右腕がどうなるか…。もちろんイメージトレーニングは飽きる程やってると思うけど、想定外のことなんていくらでもあるよ。」

 真面目なレイが心配のあまりつい口にした言葉だったが、若干脅すような内容になってしまったことを後悔したのか、改めて言葉を付け足した。

「…でも、僕たちはハンスを信じてる。」


 迷うことなく全員が頷いた。間違いなく全員の本心だった。ここには誰一人としてこのことを否定する者はいない。

 ただひたすら走り続けるハンスを誰もができる限りサポートしたいと思った。そういう魅力がハンスの中にあることを知っていた。

 他にはない強い光で周りを強烈に照らし、かつ周りからも光を集める。ハンスの近くにいるとその眩しさに目が眩みそうになることがある。それでもどうしようもなく引き寄せられてしまうのは、太陽がなければ生きていけない自分たちの性質を変えられないのと同じだ。


「ありがとう。俺もみんなを信じてる。…あとは任せてくれ。」

 ハンスはずっと前から覚悟を決めていたから、もう何も怖いものは無かった。

 ずっと前ー、幼い頃飛行機に熱中し、父の姿に憧れ、パイロットになることを決めたときからずっと。

 それを阻む障害が何であれ、乗り越える以外の方法は自分にはない。だから何があったって平気だ。ただ真っ直ぐ突っ走ればいい。仲間と機体を信じて、誰よりも早く飛べばいいだけなんだ。

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