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 開催地であるアンサンクトナディアにあるレース会場正面となる海沿いには、横幅が600m近くにも及ぶ大階段のような観客席が設置されている。観客席は海に向かってレースコースが見やすいように設計されており、コの字型になった席の左右の部分は開かれたように海へと斜めに伸びていた。

 観客席の下部には出場する9つのチームのためのピットがずらりと並んでいて、スタート地点に向かうまでの間はこのピットに各機体が保管される。ピットの前の観客席に囲われた部分は幅の広い道路になっていて、ピットから出された機体がスタート地点に向かう際にはこの道路から北側の滑走路に向かって移動する。

 そのため、北側の観客席の下の一部は機体が通れるようにトンネルのような構造になっていて、レース開始前だけそこが開け放たれる。ピットの裏側にはそれぞれのチームの控え室やシャワー室なども備えられた、まさに大舞台にふさわしい大規模な施設となっていた。


 レースの開始時間が近づくと、機体はピットからスタート地点に移される。チャンピオンシップでは9体の機体が同時にスタートするため、滑走路はその長さだけでなく幅も相当な距離がある。

 海に向けて走るこの広大な滑走路を確保できる土地を探した結果、このアンサンクトナディアが開催地に選ばれたのだ。チャンピオンシップの会場となる前までは只の海沿いの小さな田舎街だったアンサンクトナディアは、今やアトリアを代表する観光地となっている。


 観客席の最上部中央にはガラスで囲われたVIP専用席があり、ラスキア本土や海外から訪れたVIP達は最もレーストラックを見渡せるこの特等席で観戦する。アトリアのエアレースは世界的に有名なため毎年このVIP席も争奪戦となるが、半分以上は自国の航空技術や優秀なパイロットを披露するためにラスキア政府が招いた、政治的な影響を受けた招待客となっている。


 レース開始まで一時間ほどとなった頃には、観客席はだいぶ賑やかになってきていた。ハンスとクリスが控え室を出てピットに移ると、すでにチームクルー全員がレース用の制服を着て機体の最終点検を実施していた。

 早速ハンスたちもそれに加わろうとした瞬間、ピットの外から陽気な声がした。


「よぉハンス、調子はどうだ?」

 声を掛けたのはランキング3位でレースに出場するデルフィーノだった。ハンスよりふた回り以上年上で、会社の代表パイロットとして長年レースに参戦しているベテランだ。

「めちゃくちゃ良いよ!機体の改良にも成功したし、今回は絶対優勝するよ。」

 ハンスは自信たっぷりの笑顔で答えた。レースに参戦するパイロットは沢山いるが、ハンスたち学生やヴィルのような10代の若いパイロットとチームクルーは少ないため、ベテランたちによく可愛がられていた。

「まーた大口叩きやがったな。まぁ、毎度お前の成長には感心させられるが。…だがまだまだ、俺に勝つには10年早いぜ。」

 デルフィーノがにやっと笑うと、今度は2位のウルバノがタバコを吹かしながらふらっとやってきて口を挟んだ。

「お前が10年なら、俺は20年だな。ハンス、俺たちベテランを舐めるんじゃねぇぞ。…まぁ、ゾフィーがいるから説得力はないが。」

 ウルバノはワハハ、と笑いながら煙を吐いた。するとたちまちデルフィーノが文句を言った。

「パイロットのくせにタバコ吸ってるような奴が偉そうに言うな。ここは学生のピットなんだからせめてあっちで吸え!」

「うるせぇ、俺はタバコを吸った方が速くなるんだ。俺に負けてるくせに紳士ぶるな、この万年3位野郎が!」

「なんだと!?ほとんどタイムは変わらないだろうが!前回のレースだってー」

「ちょっと、喧嘩するならあっちでやってよ!!」

 いつものごとく言い争いを始めた二人をハンスが追い出そうとすると、クリスがスッとやってきて声をかけた。


「デルフィーノさん、ウルバノさん、お久しぶりです。前回のレースではお二人ともベストタイムを出されてましたね。今回は調子はいかがですか?」

 柔らかいクリスの声に、二人は睨み合うのをいったん止めて反応した。

「おう、クリス。俺は絶好調だぞ。お前は相変わらず女にキャーキャー言われてるみたいだな。俺の若い頃にそっくりだ。」

 ハンスはどこかで聞いたことがあるセリフだな、と思った。

「ウルバノさん程じゃないですよ。それに僕は色んな女の子に声を掛けられるけど、残念ながら本命には相手にされてないんです。」

 笑顔で答えるクリスに対し、デルフィーノがからかうように突っ込んだ。

「お、本命がいたのか?誰だよ。もしかしてゾフィーか?ますますきれいになってるもんな。」

 その言葉にハンスはついクリスの顔を確認した。ハンスもクリスに本命がいると聞いたのは初めてで、デルフィーノと同じく真っ先にゾフィーじゃないかと思ったのだ。だがクリスはいつもの柔らかい笑みを含んだ表情のままだった。

「ゾフィーだとしたら大変ですよ。今日もピットに男性ファンが殺到して警備員が出てるくらいですからね。恋人がいるとなったらそいつは夜もうかうか寝てられないでしょう。僕はしっかり寝ないとだめなタイプなんです。」


 クリスに鮮やかにはぐらかされたところで、デルフィーノとウルバノのチームクルーが二人を呼びに来た。じゃあな、俺たちを抜きたいなら必死でかかって来いよ、と言い残すと、二人はようやくそれぞれのピットに戻って行った。


 結局クリスの本命が誰かは分からなかったが、ハンスは自分から直接聞こうとは思わなかった。やはりそもそも恋愛に関してそれほど興味を持てなかったのだ。

 まぁただの冗談かもしれないし、などと思いつつ自分たちの作業に戻っていった。

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