第二章
一、チャンピオンシップ
1
「おいハンス、忘れてるぞ。」
着替え終わって控え室から出ようとしたところを呼び止めて、クリスはハンスの頭に制帽を載せた。
「ああ…堅苦しいから嫌なんだよな。このレース用の制服もそうだけど。」
それでもハンスは制帽を改めて被り直した。
「この制服に憧れてる奴らも沢山いるんだぞ。学校の伝統だから、多少堅苦しくても守らないとな。」
まるで先生のように言いながら、クリスは制服の一つである白い手袋を両手にはめた。
上は紺色の詰襟に鷹の校章が入った赤い腕章をつけ、下は同じ紺色のスラックスをやはり同色のロングブーツに収めている。伸縮性や通気性についても最大限に考慮された実用的な制服とも言えるのだが、その有用性が認められているのは機能よりも見た目に拠るところだろう。
航空学校を大学や大学院まで進んだ者は、一般企業においても軍においても政治の世界においても、いわゆる幹部候補となり得る。つまりエリートの養成学校であり、上流階級の子息子女であっても難関試験を突破せねばならない点で狭き門となっている。さらに航空レースでも結果を出してきたことで、まさに文武両道の象徴としての威光を最大限に高めるために、ハンスの言う「堅苦しい」制服は効果を発揮していたのだ。
自分たちがエリートであるという認識は無いが、自身が子供の頃に憧れたように、この制服を着てレースに出ることを夢見て航空学校を目指す子供たちの期待を裏切るようなことはできないとクリスは考えていた。まぁ、そんなことはレースの結果に比べると大海における一握の砂ほどにささいなことだけれど。
それよりいよいよ本番だー。何とかこの日を迎えられたが、ハンスの怪我のことを考えるとやはり心配は拭えない。
本当にレースに出場させて良いのかという迷いは、この10日間常にクリスの頭の中にあった。
ただもはや自分や他の誰が何と言ってもハンスの気持ちが変わらないことはクリスが一番よく分かっていた。それならもう自分がサポートできる精一杯のことをやるしかない。とにかく今日で全てが決まるんだからと、クリスは改めて気持ちを引き締めた。
10日前、ハンスがゾフィーを連れて逃げた日の夜、ハンスとゾフィーは共にクリスの家に泊まった。義父や義兄は激怒してるだろうから今日は家には帰らない方がいい、とクリスが主張したからだった。
さらにケガが学校にバレるとまずいので、翌日ハンスはとりあえず学校を休むことにした。ゾフィーも同じく学校を休んでクリスの家に留まった。義父たちはきっとゾフィーを探しているに違いないと思われたからだった。
学校を休むかわりに、ハンスは義父たちが居ない昼間に一度家に帰ることにした。
もしかしたらマリーからパーティー後の義父たちの様子を聞けるかもしれない。それに制服や本など必要なものを取りに帰る必要もある。ハンスはクリスの家からそう遠くない自分の家まで歩いて帰り、そっと玄関の扉を開けた。
家の中は静かだった。キッチン、リビング、客間などマリーが居そうな場所を覗いてみたが、どこにも見当たらなかった。買い物にでも出ているのかもしれない。仕方なくハンスは一旦自分の部屋へ必要なものを取りに行った。
ところが部屋に入った直後に玄関のドアが開く音がした。部屋のドアからそっと階下の玄関を覗くと、マリーが買い物から帰ってきたところだった。
「マリー!」
ハンスは部屋を出て階段の上からマリーを呼んだ。
「あら、ハンス様、学校は?まぁ!その腕…」
ハンスの腕が包帯で固定されていることに驚いてマリーが何か言いかけたところで、突然階段下にある電話が鳴った。マリーは一旦言いかけた言葉を呑み込んでお待ちください、お電話だわ、と断りながら駆け寄って受話器を取った。
ハンスは仕方なく終わるまで待とうと思い、再び自分の部屋のドアを開けた。瞬間、マリーに呼び止められた。
「ハンス様、お電話です!」
ハンスは2階の手摺りから顔を出して再び階下をのぞき込んだ。
「…誰?」
「ご主人様の秘書をされているスミルノフ様からです。」
ハッとしたハンスはすぐに階段を降り、マリーにありがとう、と伝えつつ慌てて受話器を取った。マリーは改めてハンスの腕を見て何か言いたそうだったが、ハンスが話し始めるとひとまずキッチンの方へ下がって行った。
「…お電話代わりました、ハンスです。」
「秘書のスミルノフです。よかった…!いらっしゃったんですね。朝から何度かお電話していたのですが繋がらなくて。せめて使用人の女性に言付けだけでもと思っていたのですが、ご本人とお話できるとは思っていませんでした。」
「今さっき家に戻ったところです。僕に何か御用でしょうか?もしかして、昨日のこと…」
「ええ、そうなんです。会場の隅の方に居たので気づくはずもないと思いますが、実は昨日私もパーティーに参加していまして、ハンスさんがゾフィーさんを連れ去ったのを見て、慌てて先生のところに駆け寄りました。」
「義父やあの婚約者という男はあの後どうなりましたか?今もゾフィーを探しているんでしょうか?」
聞きたい情報があふれ、ハンスは焦ってスミルノフに聞いた。
「いえ、それが大変意外なことになりまして…。簡単に言うと、あの婚約者のアドルフ様がゾフィーさんをかなり気に入ったようで、つまり本気になったと言いますか。改めて場を設けて正式に申し込みたいという話になりまして。」
「申し込みたいって…結婚をですか?」
「はい。正式に両方の親を交えて結婚の話を進めたいということです。」
「なんでそんなことに…!?あのとき、義父やあの男はかなり怒っていたと思いますけど。」
「ええ、あの直後はそうだったのですが、私どもの方からゾフィーさんを連れ去ったのは実の兄で、決して恋人などではないということをまずは説明しました。アドルフ様は初めはゾフィーさんを手に入れられなかったことに怒りを示しておられましたが、他の男に奪われた訳ではないということで一旦は安心したのか、逆に手に入らなかったゾフィーさんをどうしても手に入れたいという気持ちになられたようで…。」
ハンスはその男の単純な思考に呆れながらも、それはそれで面倒なことになったと思った。
「ええと…、その正式な申し込みというのは具体的に決まってるんでしょうか?」
「ええ、少なくともトゥラディアの後ということになりました。ヴァルツァレク長官は…、あ、アドルフ様の父親はヴァルツァレク国防長官なのですが、そのヴァルツァレク長官はトゥラディアに合わせて訪れる各国の政府関係者やVIPとの会合の予定が詰まってまして、正式に事を運ぶならトゥラディアの後の方が都合が良いとのことで。一方アドルフ様はゾフィーさんが去年の優勝パイロットとして今年もチャンピオンシップに出場なさることを聞くととても感心した様子で、ではその大事なレースが終わってからにしようということでご納得されました。かなり意外でしたが、それだけゾフィーさんに本気になっているということでしょう。」
ハンスはたった一度会っただけでそこまで本気になるアドルフという男の気持ちが全く理解できなかったが、とりあえずしばらくは安全だと思うと少し安心した。
「なるほど、わかりました。詳しく教えて頂いてありがとうございます。」
「いえいえ、あなたに負担をかけてしまって本当に申し訳なくて…。とにかく、トゥラディアが終わるまでは安全ですから、ご自宅に帰られても大丈夫かと。先生は正式に結婚の話が決まったことで今朝からかなり上機嫌でいらっしゃいます。ハンスさんのことも、あれで逆にアドルフ様が本気になってくれたとおっしゃってますから、何か危害を加えられるようなこともないでしょう。…チャンピオンシップまでは、ハンスさんもゾフィーさんも大事なレースに集中してください。その後のことは、私も一緒に考えましょう。」
ハンスはスミルノフの言葉に安堵して電話を切った。トゥラディアの後には何か対策を考えないといけないが、義父側にも味方がいると思うと心強かった。まずはゾフィーにもこのことを伝えて、スミルノフの言う通り自分たちはまずレースに集中しようと決めた。
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