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観客席はすでに超満員となり、それ以外のアンサンクトナディアの街中の至るところにもレースを観戦するための人だかりができていた。トゥラディア最終日のメインイベントに、アトリア全体が最高潮の盛り上がりを見せているようだった。
レースの開始時間が近づくと、各ピットの前に出された機体にそれぞれのパイロットが歩み寄って観客に手を振る。毎年恒例のセレモニーだ。
ハンスもゾフィーもヴィルも、堂々と機体の前に立ち、笑顔で手を振った。すると会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
その拍手を聞きながら、ゾフィーは9日前のことを思い返していた。
兄に連れられてパーティーから抜け出した翌日の夕方、クリスの家から兄と共に家に帰った。クリスは義兄がまた兄に何か危害を加えるのではと考えて家に戻ることに反対したが、兄はこのままゾフィーが帰らなかったらきっと義父は監視のためにゾフィーだけ連れ戻しに来る、それなら自分と一緒に家に帰った方がいいと言って聞かなかった。私もやはり義兄のことが心配でクリスと共に説得しようとしたけれど、一方で兄が私を守るために一緒に居ると言ってくれたことは嬉しかった。
家までの帰り道、二人で夕暮れの街を歩いた。
「…お兄ちゃん、私…、チャンピオンシップに出ていいのかな…?」
私の口から出た唐突な質問に、先を歩いていた兄がゆっくりと振り返った。
「…なんでだよ?お前はランキング1位だろ。去年のチャンピオンでもあるんだし、出ない方がおかしいだろ。」
当然のように答えると、兄は再び前を見て歩き出した。私は兄の少し後ろを歩きながら続けた。
「だって、私のせいでお兄ちゃんがケガをして…。今回はお兄ちゃんがずっと目標にしてきたパイロット試験も兼ねてるのに、私が万全の状態で出られてお兄ちゃんがケガを押して出場しないといけないなんて…。」
何となく兄の方を見れなくて、私は少し俯いて石畳の道路を眺めていた。
「だから、お前のせいじゃないって言ってるだろ。俺が勝手にやったことなんだから気にするなよ。」
「…でも…、私、ちゃんと飛べる自信ない。」
弱々しい私の言葉に、兄は何も言わず黙った。私は後ろを歩きながら泣きたいような気持ちになった。
そのまま少し歩いたところで、兄は突然振り返って私の手を取った。
「ゾフィー、ちょっとこっち来いよ。」
ケガをしてない左手で私の右手を握って、兄は走り出した。私は突然の行動に戸惑いながらも、パーティーから連れ出されたときよりも自分がもっとどきどきしていることに気づいた。兄はそのまま石畳の住宅街を抜けて、港の方へと向かった。
港のすぐ手前にある公園に入ってから、広い芝生の真ん中あたりで兄は私の手を離した。訳が分からないまま息を整えていると、兄は私に言った。
「ここ、覚えてるか?ずっと前に一度だけ父さんの飛行演舞を見に来たんだ。俺が5歳くらいの頃だったかな。」
言われてからゾフィーは改めて辺りを見まわした。正直場所がここだったのかはちゃんと覚えてないが、兄と一緒に父の飛行演舞を見た日のことははっきりと覚えている。
「…覚えてるよ。クルトおじさんと三人で見に来たんだよね。」
「うん。俺はあのときの父さんの飛行を見て、パイロットになろうって決めたんだ。」
夕暮れの空を見上げながらはっきりと言い放つ兄の目は、あの日父の機体を見上げていたときと全く同じだった。どこまでも澄んで底から光をたたえているようなその目は、まさしく一番兄らしい、真っ直ぐに透き通るような印象を与える美しさがあった。
なぜかわからないけれど、気づいたら私の目には涙が溢れていた。慌てて兄にばれないようにさっと下を向いた。
「俺はさ、あのときから何があってもパイロットになるって決めてるから。たとえケガをしても、妹の方が自分より才能があっても。」
兄は空から視線を戻しつつさらに続けた。
「だから、今さら何があっても変わらないよ。お前がレースに出ようが出まいが関係ない。…でも、お前だってあのとき父さんの飛行を見て、憧れたんだろ?お前の操縦の腕は父さんの才能を継いでると思うけど、それだけじゃチャンピオンになんかなれない。必死で努力して、自分の操縦に誇りを持ってる。…そうだろ?」
その言葉は私の心に強い風が吹き通るような衝撃を与えた。私は涙が溢れたまま兄を見た。
「…何泣いてるんだよ。」
私を見て兄は少し笑った。
「…うん、私…、私も、お父さんに憧れたの。あのとき、お兄ちゃんと同じように。」
涙が溢れて止まらなくなってしまったけれど、理由はわからなかった。
「バカ、泣くなよ。ハンカチなんて持ってないぞ。」
それでも兄は自分のシャツの裾で私の頬を軽く拭ってくれた。
「レースに出るなら、手加減しようなんて考えるなよ。自分の操縦に誇りを持ってるなら、それを最大限に出せ。お前のチームクルーだってお前を信じてレースに出るんだ。裏切るなんてできないだろ?」
私はしっかりと頷ずいた。すると兄は優しい笑顔になって、じゃあ帰るか、とだけ言った。
私は自ら涙を拭いながら、今度のレースでは自分の最大限の力を出そうと誓った。兄の言葉も、自分のチームクルーも裏切ることなんてできない。
私は自分の心がこれまでで一番レースに熱くなっているのを感じた。そしてまたしても兄に救われたことに気づき、自分はもっと強くならなければと思った。
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