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 ハンスはただいま、と言おうとしたが、養父や義兄たちの存在に気づいて口を閉じた。そのまま黙って階段に向かおうとした兄に、義父が後ろから声をあげた。


「おい、今何時だと思ってる。どうせ機体の整備だとか言って仲間とつるんでいたんだろう。くだらないことばかりしてないで、大人しく勉強でもしてろ。大学まで出たら適当に口をきいてやると言ってるだろう。…とにかく我々に迷惑をかけるような行為だけはするなよ。」


 兄は養父の言葉を無視し、そのまま早足に階段を駆け上がって自分の部屋に入っていった。

「まったく、可愛げのない奴だ。」

 吐き捨てるようにそう言って、養父たちはようやく客間に入って行った。

 ゾフィーとマリーは顔を見合わせてふっとため息をついた。お食事のご用意ができましたらお声がけしますね、とだけ言うと、マリーはすぐにキッチンの方に戻って行った。


 相変わらず養父の兄に対する態度はことさら冷たい。私に対してより遥かに険悪だ。最初から養父はそうだった。この家に引き取られた当初から養父は明らかに兄のことを毛嫌いしていた。

 原因は分からないが、兄は父によく似ていて、養父は父と兄弟であるにもかかわらず随分仲が悪かったらしいから、そのあたりのことが関係しているのかもしれない。だとしたら、兄は完全なとばっちりだ。それに本当にそのことが原因だとしたらどうすることもできない。父はもう亡くなってしまっているんだから。


 自分の部屋で制服から普段着に着替えていると、マリーがドアをノックして食事の用意ができました、と伝えに来てくれた。ありがとう、お兄ちゃんには私が伝えるから、と返事をしてからすぐに部屋を出た。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」

 ゾフィーはハンスの部屋の前まで来てそのドアをノックした。返事はないが、少し間を置いてからゆっくりと扉を開ける。するとハンスは制服のままベットで仰向けになって航空力学か航空設計か何かの分厚い本を読んでいた。


「…なんだよ。返事してないぞ。」

 ハンスはゾフィーに目もくれず、そのままの姿勢でページをめくっていた。

「いつものことでしょ。飛行機の本を読んでるときは返事もしないんだから。マリーが夕食の用意ができたって。」

 ハンスは引き続き本を読み続けながら空返事をした。

「うーん…後にするよ。今いいとこなんだ。」

「そんなこと言って、この前も結局食べてなかったでしょ。夢中になりすぎよ。パイロットは体力も要るんだから、ちゃんと食べた方がいいわ。…それにちょっと相談もあるの。」

「相談…?」

 意外な言葉にようやくハンスはゆっくりと本を閉じ、上半身を起こしてゾフィーを見た。

「なんだよ?」


 2人は仲が悪いわけでは無いが、思春期の兄妹らしくお互いのプライベートに干渉するようなことはまずなかった。そのためゾフィーの口から出た「相談」がハンスに打ち明けられるようなことはこれまで殆ど記憶にない。

 ゾフィーはハンスの質問に答えることもなくやや早口で促した。


「ほら、早く着替えて。ダイニングに来てね。」

 ドアを閉めながら声を掛けると、ゾフィーはそのまま階段を降りてダイニングへ向かった。



 ハンスがダイニングに入ると、白いテーブルクロスがかけられた大きなダイニングテーブルに、マリーが用意した鮮やかな料理が並んでいた。

 白味魚のバターソテーにレタスとパプリカのサラダ、トマト入りのチーズパイ、温かい野菜スープにパンなど、いつものごとくしっかりとバランスの取れたメニューだ。

 ハンスは黙ってゾフィーの向かいに用意された席に座った。


「お坊っちゃま、お飲み物は何になさいますか?」

 ハンスが席に着いたのを見て、すぐにマリーが声を掛けた。

「その呼び方、やめてくれって何度も言ってるだろ。ハンスでいいよ。あと飲み物は自分で取るから大丈夫。」

 ハンスが困ったように言うと、マリーは少し微笑んだ。

「失礼しました、ハンスさま。では私は下がってご主人さまの給仕をさせて頂きますね。」

 キッチンにある玄関側のドアを開けてマリーが部屋から出て行くと、同時にハンスは席を立って飲み物を取りに行った。

 キッチンの冷蔵庫から瓶に入った水を取り出し、戸棚に並んだガラスコップを一つ掴んで水を注ぐ。ゾフィーに飲むか?と尋ねたが、マリーが淹れてくれたから大丈夫と言うので、グラスを持って席に戻った。

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