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 そんなことを思い出しながら、ゾフィーはしばらく港の近くにある街灯の下のベンチで海に沈んでいく夕日を眺めていた。そのうちパッと街灯の灯がついた瞬間、いつの間にか辺りがすっかり暗くなっていることに気づいた。

 ハっと腕の時計を見ると、すでに門限をだいぶ越えてしまっていた。

 

 ゾフィーは慌ててカバンを持って駆け出した。門限を越えたことがもし養父にバレるとうるさく言われる。自分は別にそれでもいいのだが、そのことによってまた兄と養父が険悪な雰囲気になってしまうのは嫌だった。

 

 息を切らしながら家に着いたときには、門限を一時間以上も過ぎてしまっていた。養父や義兄が家にいないことを祈りながら、そっと重厚な玄関のドアをあける。


 吹き抜けになっている広い玄関ホールの天井にはシャンデリアがさみしく輝き、磨き上げられた冷たい大理石の白い床はいつも通り靴跡一つ付いていない。

 玄関の向こう側はカーペット敷きになっており、そのすぐ左側に二階に上がる階段がある。階段を上ると家族の個室やゲストルームが多数並んでいて、玄関ホールの右側は広いリビングダイニングとキッチンがあり、左側には豪華な客間が備えられている。

 七年前に初めてこの家に連れてこられたときには、豪華なつくりなのになぜか寂しいような、静かで冷たい印象を持った。それは数年住んだ今でも変わらない。この家が自分の家だと思える感覚は無かった。



 ゾフィーが靴音を立てないようにこっそり二階にある自分の部屋へ行こうとしたら、たまたま使用人のマリアンヌがキッチンの方から出て来て玄関を横切ろうとした。


「まあ、お嬢様、今お帰りですか。」


 ゾフィーに気づいたマリーは少し驚いた顔で声をかけた。


「うん、ちょっと訓練が長引いて…。お養父さんやお義兄さんは今日もまだお仕事?」


「そろそろ帰ってこられるそうですよ。今日は職場の方を連れて来られるそうで、その準備をしていたところです。」


「…そう、わかった。じゃあ私は部屋に行ってるね。夕飯も部屋に持って来てくれる?」


「ご主人様方のお食事は客間にご用意しますから、お嬢様はダイニングでお召し上がりくださいませ。ハンスお坊っちゃまももうお帰りでしょうから。」


「お坊っちゃまなんて言ったらまたお兄ちゃん嫌がるわよ。でも、じゃあ帰って来たら一緒に食べようかな。」


「そうなさいませ。それよりお嬢様、また門限をお破りになって?この前もお父さまに厳しく言いつけられたばかりでしょう。」


「ごめん、訓練の後ちょっと港のベンチでぼうっとしてたらいつの間にか時間が過ぎちゃって…。」


「まぁ、危ない!もう暗くなるのが早くなっていますし、明るいうちに帰らないと。港の方は街灯も少ないでしょう。お嬢様のような美しいお嬢さんが暗い中一人で外を歩いているなんて思ったら、お養父さんでなくても心配しますよ。最近のセントラルは昔よりだいぶ治安が悪くなってますから。」


 マリアンヌは眉間にしわを寄せた。それは本気でゾフィーを心配している声だった。


「ごめんなさい、これからは気をつけるね。今日のことはお養父さんには内緒でお願い。」


 そう言って手を合わせるゾフィーに、マリアンヌは仕方ありませんね…、明日からは本当に気をつけてくださいよ、と言いながらため息をついた。


 この家の中で兄と私の唯一の味方と言えるのがこのマリーだ。七年前に私たちがこの家に引き取られたときからずっと何かと気にかけてくれていた。使用人として主人の命令に従うことは絶対だが、養子としてやってきて冷たくあしらわれている私たちをいつも程よい距離感で見守ってくれている。


 ゾフィーがマリーと別れてから部屋に向かうため階段を登りかけたとき、ガチャっと玄関が開く音がした。振り返ると、養父のヨーゼフが義兄のフリードリヒを連れて帰って来たところだった。

 さらにその後ろから見慣れないスーツ姿の人物が一人家に入って来た。マリアンヌは慌てて三人を迎えた。


「ご主人様、おかえりなさいませ。お荷物をお持ち致します。」


 養父はいつものように黙って持っていたカバンをマリーに渡した。そして後ろにいた人物に顔を向けながら言った。


「秘書のスミルノフだ。会議をするから、客間に酒とペンを用意してくれ。」


「もうご用意できてますよ。スミルノフ様、どうぞこちらへ。上着をお預かり致します。」


 養父の秘書だというその人は、義兄とそんなに年が離れていないように見えた。ゾフィーはそのまま気づかれないようにそっと階段を上がろうとしたが、養父が気づいて声をかけられた。


「ゾフィー、そこにいたのか。こっちへ来て挨拶しなさい。」


 ゾフィーはそう言われて仕方なく玄関へ戻った。スミルノフはマリアンヌに上着を渡すとゾフィーの方に向き直った。


「娘のゾフィーです。いつも父がお世話になっております。」


 そうお辞儀をして顔を上げた時、スミルノフは一瞬はっとした顔をしたが、すぐに笑顔をつくった。


「お父さんの秘書をさせてもらっているスミルノフです。もう6年近く秘書をやらせて頂いているのですが、お嬢さんにお会いしたのは初めてですね。こちらこそいつもお世話になっております。」


 握手のために差し伸べられた手を、ゾフィーはすっと握った。養父の秘書と言うと養父と同じように権力欲にまみれた腹黒いイメージがあったのだが、意外にもその人からはそんな感じを受けなかった。



 挨拶を終えて養父たちが客間に向かおうとしたとき、再び玄関のドアがガチャっと勢いよく開いた。タイミングの悪いことに兄のハンスが帰って来たのだ。

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