六、ゾフィー
1
少しずつ日が長くなってきたなと、夕暮れの街を歩きながら思う。
アトリアの州都であるセントラルは島の西側の海からほど近い場所にある。春のはじめ、太陽が傾きかけて少し冷たくなった心地良い潮風がゾフィーの頰をなでた。
自分の機体の整備を終えて学校から家へ帰る途中、いつもの通学路からはずれて港の方へ足を向ける。
門限まではあと少しだけ時間がある。穏やかな海を見ていると、このままどこかへ行ってしまいたいような気持ちになった。
もう少し足を伸ばして港の先の方まで行けば、兄たちが作業をしている基地がある。思い切って行ってみようか…とも考えたが、お兄ちゃんはきっと怒るだろうなと思ったら、ふっと笑いが込み上げてきた。
兄とは一歳違いだったから、昔からよくケンカをした。自分としてはほとんど覚えてないのだが、クルトおじさんが今でもその話をしょっ中するから、きっとそうだったのだろう。
でも私が覚えているのは、実は兄の優しい部分だけだ。
昔私が家で一人で遊んでいたとき、キッチンにあった食器棚のガラス戸に大きなヒビを入れてしまったことがある。
なぜそんなことになったのかは覚えていないのだが、私は当時の家政婦さんに怒られると思って一人リビングで泣いていた。するとそこに兄がやってきて、なんで泣いてるかを尋ねられた。私は兄をキッチンに連れて行って食器棚のヒビを見せた。
すると、兄は意外なことを言った。
「ここの端に小さいヒビがあるだろ、これは俺がつけたんだ。その延長だと思われるから大丈夫だよ。俺がやったことになるからさ。」
見るとガラス戸の端の方には確かに小さなヒビがあった。
今思えばそれで私がつけた大きなヒビがごまかされるかは正直どうかと思うが、小さかった私はその言葉で自分の気持ちが一気にすうっと軽くなるのを感じた。
兄には昔からそういうところがあった。普段は私のことを構うような感じでもないのだが、困った時にはどこからともなくすっと現れて、思いもよらず心が救われるような一言を放ったりする。
きっと私だけじゃなく、周りの人みんなにそうなのだろう。だから兄の周りにはいつでもたくさんの人が集まってくる。
私はそんな兄をずっとうらやましく思っていた。兄のようになりたいと思った。
それが今では兄の方が私に嫉妬している。
私が初めて航空機を操縦したのは、航空学校に入って半年後の十二歳のときだった。指導教官を後ろに乗せてのテスト飛行だったが、そのときからもう何をどうすればいいのか、なぜかほとんどを理解できるような感覚になっていた。
機体から伝わる振動で、風の向きや強さ、気流の波の大きさのようなものが手に取るようにわかった。私はただその指示に従って操縦桿を動かし、初めてのテスト飛行で難しい背面ターンを成功させた。後ろで教官が叫ぶ声がかすかに聞こえたが、ほとんど耳に入らなかった。
あの空と風と一体になったような高揚感は、その後もずっと私を捉えて離さない。その延長で今は学校の代表パイロットとしてレースに参戦している。
兄はきっと、ずっと父の影を追っているんだと思う。
父を亡くしたとき私にさえ涙ひとつ見せなかった兄だが、あのとき一番泣きたかったのは兄であったに違いない。
私が物心ついたときから、兄は飛行機に夢中になっていた。
空軍パイロットとして活躍していた父は、私たちに飛行機のことや他のパイロットの話など、父が知っているたくさんのことを教えてくれた。父が遠征から帰ってくると、兄はいつも父に飛びついて話を聞きたがった。
過去に一度だけ、私たちは揃って父の操縦を見たことがある。
当時トゥラディアで行われていた飛行演舞で、父がチームのリーダーとして操縦桿を握ることになったのだ。
真っ青な空に先頭をきって駆け抜ける父の機体の迫力とその美しさに、私たち二人は言葉もなく魅了された。
父の機体を見上げているときの、どこまでも澄んで底から光を湛えているような兄の目をすぐ隣で見た私は、ああ、兄は将来パイロットになるんだな、と思った。
…兄なら一度心に決めたことを曲げることはないだろうから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます