第23話 隣のお姉さんは家事が出来ない


「ほとんど寝られなかった……」


 気付けば、外は蒼がかった薄明かりで覆われているようだ。

 小鳥のさえずりが朝の優雅さを、犬の吠える声が朝の騒々しさを。そして、眩しい光と共に太陽が顔を出し、新たな1日を迎えたことを総出で伝えてくれている。


 時刻は早朝五時。

 起き慣れた時間とはいえ、ほとんど寝られなかった身としては結構辛い。


 寝られなかった理由は他でもない。

────神崎さんが今日、恐らく看病に来るからだ。


 何を怖れてる? 可愛いお姉さんに看病してもらえるからいいじゃないか? ……そう思えたら苦労しない。

 窓の四隅が揺れ、小石でもぶつかったような音が不規則に鳴る。そうだ、こんな嵐のような強風が今からやってくるんだ。


「……にしても、風強くなってきたな」


 落ち着いた爽やかな朝とはうってかわって、空は曇りだし、風は強く吹き、淀んだ空気が窓の外を支配していくようだ。

 確か、今日は近所で花火大会があったはずだ。もしかしたら中止になるかもな。





──────ピンポーン。


 ……どうやら、来てしまったらしい。


「ど、どうぞー。鍵は開いてるのでー」


 心を落ち着かせ、深呼吸。

 大丈夫、そんな心配することなんてない。一応は彼女も立派な大人の女性だ。多少失敗しても、そんなの些細なこととして水に流せばいいじゃないか。




「おじゃ、おじゃじゃじゃ、まします!」


「神崎さん、おはようござ────へ?」


 ……そんな、その場しのぎの言い聞かせは無へと消えたようだ。


 無地の半袖白シャツにデニムという、いたってシンプルな服装。

 シンプルなはずが、ベルトに挟まれている数々の道具のせいで意味不明さが突出している。

 はたき棒二本、モップ二本、包丁三本、プッシュ式洗剤一つ。そして、両手にはそれぞれ掃除機と箒が握られている。


 彼女の格好を例えるなら────そう、数々の武器を身に付け闘うと有名な武蔵坊弁慶といったところだろう。


「え、えーと……どうしました? 凄い格好です……けど……」


「あ、え、えと、か、看病に来ました!」


 どう見ても、看病に来た人の格好には見えない。端から見るに、俺を抹殺しに来たターミネーターという所だろう。


「そ、そうですか……ありがたいですけど、今日は」


「────せ、世話をさせてくださいっ!」


 帰宅を促す言葉を、喉に押し込まれてしまった。彼女は頭を下げ、続けた。


「あんなことになって……神山君も傷だらけになって……全部、私が……しっかり、していなかったせい! 本当に……ごめんなさいっ!」


「い、いやいや神崎さんのせいじゃないですから! ややこしくさせたのは自分でもありますし……」


「う、ううん。これは私の責任。だから……今日だけでも、世話……させてくだ……さい!」


 前に、田中さんは言っていた。女性にもプライドがある、と。

 頭を下げ、一向に顔を上げる様子はない。きっと、俺が許可するまでこうしてるつもりなんだろうな。


 ……しょうがない。ここは、こちらが骨を折ることにした方がいいようだ。


「……分かりました。じゃあ今日一日、身の周りのこと、お願いしてもいいですかね」


「────っ! は、はい! ま、任せてくだ、さいっ!」


 顔を上げ、満面の笑みをこちらに向けた。子供のように無邪気な笑顔が、俺の心をくすぐる。


 少しでも動く度、身に付けている道具が鬱陶しく騒ぐ。包丁の刃に映る俺の顔は、ひきつっているように見える。

 心が揺れても、表情は正直な様だ。


「え、えっと……その腰につけた道具は部屋に戻してきてくださいね?」


「ふぇっ!? で、でもこれは世話をする上で必要だったり……するわけで……」


「いいから戻す!」


「ふぁ、ふぁいいいいいぃ!」


 彼女は台風のようにくるくると騒々しく部屋を出て、自室へ一旦戻っていった。


 …………不安だ。不安しかない。

 でもきっと、意外と無難にこなしてくれる……はずだ。


 俺は、淡く頼りない希望を抱いていることしか出来なかった。





「神山君っ!」


「ど、どうしました?」


「雑巾でテレビを拭いていたら……と、塗装が剥がれました」


「強く拭きすぎ!」


 それからはまぁ……小山な希望は頂から段々と削れていった。


「か、神山君っ!」


「こ、今度はなんですか?」


「だ、台所の排水溝にゴミを入れてたら……み、水が溢れて……」


「どうしてそこにゴミいれてたのぉ!?」


 失敗に次ぐ失敗。

 掃除、洗濯、炊事。全てが上手くいかず、失敗報告が数分置きにやってくる。


「か、神山……君」


「は、はい……」


「…………お粥、こんなでしたっけ」


「……こんな真っ黒で魚臭いマグマのようにドロッとしたお粥は初めて見ましたよ。……何を入れたんですか?」


「…………い、イクラや、え、栄養ドリンクを色々」


「お粥に不要なものばかりなんですがぁ!?」


「げ、元気になると思ってぇっ!」


 その中でも、洗濯だけは失敗報告が少なく、順調に進んでいるようだ。上手くいっているのが楽しいのか、鼻歌が聞こえてくる。


「か、神山君! 洗濯物、今から外に干します……ね!」


「分かりまし……いやちょっと待って! 今日は強風で!」


「ふぇ? ────ふぎゃあああああぁぁ!」


 何の躊躇もなく豪快に開けたベランダの窓から、激しい突風が駆け込んでくる。

 風は、せっかく片付けていた部屋を再び散らかせ、風に乗って入り込んでくる新たなゴミが部屋中に舞っている。


 そんな過酷な状況の中、神崎さんは必死に洗濯物を干そうとしている。


「か、神崎さん! ほ、干さなくていいから! 早く窓閉めて!」


「え、は、はいぃ!」


 ピシャッ、と勢いよく窓は閉められた。

 風に乗って入り込んだ新聞紙や葉っぱが、部屋中の至るところに散布されている。


 ……一から掃除のやり直しだなこれは。


「か、神崎さん、掃除は後で自分がやりますから、今は休んで……あれ、洗濯物は?」


「ふぇっ? あ、あれ? ど、どこに…………あ」


「え、窓の方見てどうし────え」



 ベランダに放置された洗濯物達。人を押し退ける程強い風。


 つまり…………。




「今、風に飛ばされてるのって────俺の下着……ですよね?」


「ソ、ソウデスネー」


 一枚、二枚、三枚……と、雛が次々と巣から飛び立つように風に飛ばされていく。

 その光景を見る俺達は、燃え尽きたように真っ白で、ただただ呆然と見ていることしか出来ない。


「か、神山……君」


「えぇ、飛ばされていきますね。あぁ、飛び立つ様を見ていると親鳥になった気分ですよーあははー」


「す、すぐとりますうぅ! ごめんなさああああああぁいっ!」


 目から洪水のように激しい涙を流しながら、ベランダに出て飛び立ちそうな下着を必死に回収しようとしている。

 捕まえてもまた一枚飛んでいき、それを捕まえても更に飛んでいき、見ていると側からすれば、意味のない動作だ。


 嗚呼──俺は何故、この人のことを好きになってしまったんだろう。


 一瞬の疑問を浮かべていると、神崎さんが洗濯物を抱え部屋に入ってきた。

 髪は乱れ、Tシャツもヨレヨレ。一波乱巻き込まれた後のように疲弊しているようだ。


「────洗濯物、また洗います……」


「…………はい」


 神崎さんは顔を俯かせ、弱々しい足取りで洗濯室に入っていった。


────時刻は午前十一時頃。

 俺は、いつになったら解放されるんでしょうか……。

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