第8話 隣のお姉さんが時々積極的で怖い


「この日が、やってきてしまった……」


 神崎さんに手料理をご馳走してもらうということで、約束していた当日、俺は彼女の扉の前で立ち尽くしていた。


 春も終わり、気温も上がりつつある今日。外で立っていると、自然に汗が垂れ流れてくる。いや、これは冷や汗かもしれないけど。


 何故俺はここで馬鹿みたいに立っているのか。招待されているならチャイムを鳴らして入ればいい……そう思うだろう。


「料理……怖い……」


 怖いのだ。料理が出来ない彼女の料理を食べるのが怖くて怖くて仕方ないから、チャイムボタンに人差し指を添えたまま硬直してしまっているんだ。


「だ、大丈夫だろ。きっと……」


 そうだ、きっと大丈夫だ。約束した夜、生で切らずに乗せた未処理の海鮮丼を作るとか言ってたけど、きっと冗談だろ。


 あぁ、大丈夫だ。そうに違いない。俺は、聞いていた聞くべきでなかった情報の記憶を一時的に除去し、空っぽの頭でチャイムを鳴らした。


「あ、は、はいっ!」


 ドタドタと走る音が近づいてくる。これは、ずっと待機していた感じだな。準備は出来てるってことなのか? 少し待つと、ゆっくり扉が開いた。


「あっ! 神山、君……よ、よよようこそ、いらっしゃましぃたっ!」


 色々言えてない言えてない。姿を見ると、中央に黒猫の絵が描かれた変哲もない白いTシャツ、膝がちょうど隠れた薄緑のスカートというシンプルな服装だった。髪も綺麗に整えられていて、近くにいるとシャンプーの匂いなのか柑橘系の甘酸っぱい香りが漂ってくる。


「きょ、今日はありがとうございます。入ってもいいですか?」


「は、はぁい! ど、どどど、どうぞ!」


 挙動不審な彼女を見ながら中へ入ると、涼しい風と共に自然で鼻に優しい香りが俺を包んだ。流れていた汗は引いていき、心地良い香りが、安心感を生んでいくようだ。


「き、汚い部屋です……が」


「そんなそんな、おじゃましま……おぉ」


 ちょっと抜けている彼女のことだから、部屋は少し散らかっているのかと思った。でも、思いの外綺麗で、イメージでいう女の子の部屋そのもの。全体的に家具が薄い緑色で統一されていて、普段の服装からも緑好きなのが感じられた。


「そ、そこで座って……いて、くだ、さいっ!す、すぐ作り…………つ、作りますの……で!」


「あ、はい。それじゃ……」


 中央にあるテーブルの前に座ると、彼女は何やらブツブツと呟いている。


「大丈夫、大丈夫……出来る、出来る」


 不安が押し寄せる。いったい何を食べさせられるのか、そればかり頭で浮かぶ。


「えっと、何を作ってもらえるんでしょうか」


「ふぇっ!? え、えーと……」


 海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だ海鮮丼は嫌だーーーーー。





「海鮮丼、ですっ!」


「あぁ……はい。タノシミニシテマスネ」


「は、はぃっ!」


 終わった……。彼女の笑顔は眩しかったけれど、その後ろで無数の生々しいタコやイカの足が蠢いているようで、俺の胃袋は悲鳴を上げそうだ。


「よ、よぉーしっ!」


 気合いを入れ、緑色のエプロンに身を包む神崎さん。背中で紐を結ぶ様子を見ていると、何故だか照れ臭くなる。


 今更だけど、ここは女性の部屋だ。入ったことのない未知の領域。そんな場所に招待され、俺は彼女の手料理を食べられる。こんなに男として幸せなことはないだろう。


 何も知らなかったら……だけども。


「よいしょ、よっと」


 後ろ姿を見ていると、不思議と不安は消えていった。何の迷いもなく、てきぱきと動いているのが分かるからだ。


 そういえば、昨日の夜、こんなこと言っていたようなーーーーー。


「きっと明日は大丈夫! 絶対成功する!」


 成功という言葉が引っ掛かっていたけど、彼女の言動には自信が溢れていた。そんな確証がなかった自信は、今ようやく、本物だと実感した。


「なんだ、これなら大丈夫そうだな」


 なんなら少し手伝おうとは思っていた。でも、これなら問題ないな。気持ちに余裕が出来始めていた頃、神崎さんが台所から大きめのどんぶりをお盆に乗せてやってきた。


 腕が真っ直ぐピンと伸び、脚もぎこちなく、動きが実験段階のロボットのようだ。


「ど、どどどど、どうぞ……」


 俺の前に置かれたどんぶりには蓋が閉められ、いったいどうなっているのか……と、期待感と多少の不安感が入り混じる。


「さてーーーーーおぉ」


 蓋を開けるとーーーーお見事の一言。


 イカやタコは均等な大きさで刺身になっていて、サーモンがふちの周りを花が咲いたように占め、イクラが中央で輝きを放っている。数々の一品が色とりどりに添えられ、一番目立つ大きい海老が食べてほしそうに俺の目を見てくる。


 凄い、店に出しても良いレベルだ。


「す、凄いですね……えっと、食べていいですか?」


「は、はいっ!」


 一つ一つ、米と一緒に口へ入れていく。すると、新鮮でプリプリした魚介の幸は、口内で踊り出したようだ。米とのダンスは唾液というカーテンであっという間に閉められ、幸福感と充実感が喉を通して流れ込んでくる。


 美味しすぎて手が止まらず、あっという間に完食してしまった。


「ふぅ……美味しかった」


「ど、どうでした……か?」


「あ、凄く美味しかったですよ! いやぁ、まさかこんなに料理が上手なんて知りませんでした! 店で出しているような完成度で、ほんとに凄かったです!」


「店で……え、えと、よ、よよ、良かった、です!」


 店で出しているような料理が作れるんだ、きっと特別な調理器具を使っているんだろう。俺はある好奇心が芽生えた。


 台所が見てみたい、と。


「台所どうなってるんですか?」


「あ、えっ!」


 俺は立ち上がり、台所へ引き寄せられるように足を進めた。好奇心が、俺の体を操縦しているように。




「ま、待って!」


「えっ?」


 声に振り返ると、目の前に飛び込んでくる神崎さんが視界に入った。


「ちょ、うわっ!」


 そのまま体勢を崩し、仰向けに倒れてしまった。瞑っていた目を開くと、見慣れた女性が俺の上に……。


「ーーーふぁっ!?」


 顔の横に神崎さんの頭がある。大きな胸は俺の胸板に当たり、脚が股の間にある。柑橘の香りと若干の汗の匂いが鼻に入ってきて、俺の心臓が跳ねているように感じる。


 これは……不味い。非常に、不味い。女性をあまり知らない俺にとって、この状況はどうしたらいいのかまったく分からない。


「と、とにかく起こさなきゃ」


 彼女は気を失っているみたいだ。起こせば、きっといつものようにあたふたして、離れてくれるに違いない。


「神崎さん、神崎さん起きてください!」


 無理矢理起き上がろうにも、腰が抜けたのか力が入らない。立ち上がるには、神崎さんに起きてもらう他ないようだ……。


「ん……あれ、私ーーーーーえっ」


 気がついた彼女と目が合う。顔と顔は、息がかかるくらい近くて、鼻先も当たりそうだ。


 沈黙が続く。一定間隔で鳴る時計針の音だけが、耳に入ってくる。


「私……もう……」


「えっ、神崎……さん?」


 息が荒くなるのを肌で感じる。体の熱も上昇していくのが伝わってくる。それに合わせるように、俺の心臓も激しく暴れだす。


「神山、君……もうだめ、私ーーーーー」


 唾を飲み込んだ。自然と近付いてくる麗しい唇に、拒否という思いは何故か出てこない。


 理性は蒸発寸前だ。今にも自分から唇を付けてしまいそうになる自分は、なんだかんだ言ってただの盛んな男なんだって思ってしまった。本当に情けない、口だけだ。


 でも……こんなんじゃないんだ。俺はこんな展開希望していない。もっと普通な形で、ちゃんとした関係でしたかった。


 望んでいたことじゃないのに関わらず、男としての本能は黙っていない。俺は、流されるように手を彼女の背中へ回そうとしている。


 答えは変わっていないはずなのに、俺は……このままーーーーーー。








「よっすーっ! 沙耶! 彼とは上手くいったかぁ! ウチが協力したとはいっても、お前のことだから今回も駄目……で……」


 鍵のかかっていなかった扉が突然開き、現れたのは見知らぬ女性。俺と神崎さんは同時に女性の方へ目を移す。


 しばしの沈黙。滲み出る汗はお互い尋常ではない。そして、沈黙は見知らぬ女性によって破られた。


「あー…………ご、ごゆっくりぃ!」


「「ーーーーちょっとまってぇぇぇぇええっ!」」


 二人で手を伸ばすも、女性は鼻歌を歌いながらどこかへ去っていってしまった。誤解というものを抱いたままーーーー。

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