第3話 隣のお姉さんが乞食すぎて困る
翌朝、案の定俺の目のクマは広がった。一昨日より寝れたとはいえ、ほぼ寝られていないことに変わりはない。
「ふぅわぁああ……今日行けば休みだし、まぁ、眠いけど頑張るか」
変なタイミングで寝入ったせいか、起きた時間もいつもより早かったようだ。窓から射し込む朝日がうっすらで、まだ空が薄暗く青くない。
「…………」
隣の壁を見る。多分まだ寝てるんだろうな。物音が一切しない。にしても、昨夜は男には厳しいものがあったな。勘違いで終わったけど……。
俺はいつもよりゆっくりと朝食を作る。スクランブルエッグにゆで卵。豆腐に炙った納豆をかけた炙り納豆腐。ほうれん草のお浸しに、昨日作っておいたシジミ汁。そしてメインの焼き鮭。
最後には、定番のほっかほかのお米だ。
「いただきます」
手を合わせ、一日何事もないことを祈りながら、俺は箸に手を付けた。
「─────あぁぁあああああっ!」
祈りは、開始数秒で無へと帰された。
隣から聞こえてくる声の震えた悲鳴。あぁ、また何かあったのかな。遅刻しそうだとか、深夜のドラマを録画し忘れていたとか、その辺りだろう。
「……ご飯買うの……忘れた………冷蔵庫、カラッポ……」
想像以上だったよおい。冷蔵庫に何もないってありえるのか? 普通は休みの日か仕事帰りに数日分の食料を買っておくだろう。言っちゃあ悪いが……だらしない。
「いや! これはチャンスと考えるべき!」
どういうことだろうか。何がチャンスなんだろうか。
「朝食を神山君の部屋でご馳走してもらう!」
あっははー! またまた訳のわからないことを言い出したぞー!
どういうことだよ! なんで食べるのが何もないからって俺に頼るんだよ!
「そうすれば、色々お話出来るし……仲良く出来るだろうし……えへへぇ」
それで仲良くなれたらどんだけ心が広いやつなんだよ。
「よぉし! 勇気を振り絞って……いざ!」
隣の玄関が開く音がする。恐らく、あと三秒でチャイム音が鳴り響くだろう。
─────ピンポーン。
ほらな。
「…………」
って、また黙りか! 勇気振り絞ったんじゃないのか! しょうがない……出ますか。俺は重々しく腰を上げ、扉を開けた。
「……はーい、なんですかー」
「ひゃっ!?」
また俯いていると勝手に思っていた。だがそれは間違いだった。
しっかりと顔を上げていたのだ。綺麗で透き通った大きな眼が、俺の汚い目やにまみれの眼と合った。
「あ、え、えーと……」
彼女は四つ葉のクローバーが小さく均等に多く描かれたパジャマを着ていて、上には桃色のカーディガンがかかっている。起きたてなせいか、髪は所々寝癖が付いていて、整えられてないのがすぐ分かった。
「あ、あ、あああああ……あのぉ」
「は、はい、なんで……しょう」
用件は知っている。さっき本人が言っていた。だから分かりきっている答えを待つ必要がない。けれど、俺は何故か身構えてしまった。
「…………は、ん」
「えっと……はい?」
彼女は周りの空気を全部吸い出すように息を吸い込み、大きな胸が更に大きくなった。
「ごおおおはぁあああんっ! たべさせてくださっぁぁぁあああいっ!」
音が周りの金属に反響して、俺の耳を壊していく。あぁ、おかげで目が覚めたよ神崎さん。代わりに耳が永遠の眠りにつきそうだ。
「わ、悪いですけど、いきなりそんな……」
「うるせぇぞ朝っぱらから!」
「子供が起きちゃうじゃない!」
各部屋からクレームが横降の雨のように、俺達に向けて飛んでくる。そりゃ、朝からあんだけ大声出せばな。
って! そんな悠長なこと考えてる場合じゃない! バレる前に部屋に入らないと! 色々文句言われまくって俺まで巻き込まれる!
「えっ? ふぇっ?」
神崎さんははぐれたアヒルのようにオドオドしている。くそぉ……しょうがないかっ!
「神崎さん! こっち!」
「えっ!? ひゃ、ひゃい!」
俺は少し乱暴に手を引いて、部屋に入れた。扉を閉めると、他の部屋の扉が開く音と何人かの足音が聞こえ、部屋の前で足音が止まる。
「ここらで聞こえたんだがな……神山君! 起こしたら悪いが、さっき奇声をあげたやつ見なかったか?」
扉越しから聞こえるのは、このアパートで怖いと評判の雷門さんだ。普段は正義感を振りかざしてアパートで起こるトラブルに率先して首を突っ込み、原因となった人に酷い罵声を浴びせると言われている。俺は何故か気に入られているらしく、例えトラブルに巻き込まれても、被疑者扱いは決してしないのだ。
今回も、疑っている感じはしない。
「あー、何も見てないですよ! 猫か何かが叫びだしたんじゃないですかねー!」
我ながらなんて苦しいごまかし。
「猫……か。猫なら仕方ないな。ふむ……すまんな起こして、それじゃ」
「はい!」
こんなありふれた分かりやすい嘘を信じるものなんだな。ドッと緊張の糸がほぐれ、ため息と共に体の固さが抜けていくようだ。
とりあえず、一つ目のトラブルは回避したとして……残るは……。
「え、えええっとぉ……」
神崎さん、だよなぁ……ま、しょうがないか! ここまで来たら食べてもらおう。
「神崎さん」
「は、はっははははいぃ!」
「すぐ準備するんで、そこのテーブルの前で座って待ってて下さい」
「え、あ、はいっ!」
小鹿のように足を震わせながらテーブルへ向かう神崎さんを苦笑いで送りながら、俺は今朝作ったメニューを素早く準備していく。明日の分だったが、また作ればいいだろう。
「はい、どうぞ」
「な、ななななな……」
用意した品に驚愕の表情を向ける神崎さん。そこまで驚く内容だったろうか。俺にとっては普通の朝食なんだが。
「さ、食べましょ。食べてさっさと部屋に戻って下さいね」
「え!? は……はいぃ……」
あからさまにショボンとしながら食べ始めた。ちょっと言い過ぎたか?でもこれくらい言わないと、また食べに来るかもしれない。心を鬼にせねば。
「ご、ごちそうさ……ま、でした……」
食べるの早いな! 用意してたった数分だぞ……。でもこれで、大人しく部屋に戻っていくだろう。
「お粗末様でした。さ、食べたら戻ってくださいね……ってなにこれ」
目の前には、神崎さんが急に差し出してきた二枚のチケットがある。顔に付きそうなくらい近い。
「……遊園地?」
ブンブンッと頭が取れそうな程何回も縦に振りだした。この遊園地……昔行ったことがあるような……まぁ、気のせいだろ。
「えとー、これが何か」
「こ、こここここれ……」
よく見ると顔が真っ赤だ。耳も赤くなって、これじゃ茹でられたタコだ。
このチケットをくれるってことだろうか。一飯の礼のつもりかもしれない。
「だ、だ、誰か……誘って……ど、どうぞ」
……唇を噛み締めてる。痛々しい程、小粒の涙を落としながら。チケットを持つ手は震え、見てるこっちが息苦しくなってくる。
そんな自分は無意識に、こう返答してしまった。
「─────俺と……行きます?」
「……えっ?」
言った俺も驚いてしまった。彼女も魂が抜けたように放心状態だ。
「あれ、神崎さん?」
白目を向いて、口から霊体のようなものが出ていこうとしている。これヤバくない?
「ちょ神崎さん、神崎さん! ……かぁぁんざきさぁぁあんっ!」
神崎さんは気持ち悪い笑顔を浮かべながら、すっかり気を失ってしまっていたのだった。
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