第3話
「あーもう、何がごめんなのさ!」
昨日のことに、遥は今更腹が立ってきた。
「大石くん、君は本当にそう思ってたのかい?君は何に謝ったんだ、泣かせたことかい?私の気持ちに寄り添えないということ?地味子より華やかな子が好みだったこと?ふざけないでくれ!そんなことで挫ける私じゃないぞ、私は誇り高き科学者になるんだ、いつか恋なんてただの誤解の集合体でしかないこと、証明してやる!」
遥の怒号が竹林に響く。その残響が消えると、途端に静寂が辺りを包み出す。なんだか怖くなった遥は、ベンチに腰掛け体を小さくした。
ふと考える。
今頃大石くんは遥のことを嗤っているだろう。真面目で堅物だと思っていた女子が急に青春漫画みたいなことをした。これほど良いネタはないだろう。
「本当に、私は馬鹿だな…」
出せるだけの涙を出し切り、彼女は高台に設置された、かなり色の禿げた白色の木のベンチに力なく腰掛けた。とそこへ、
「消えろ、消えろ、つかの間の燈火! 人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ」
突然芝居掛かった声が竹林の中から聞こえ、一人の青年が現れた。彼は遥に気づくことなく、再びセリフを繰り返す。
「んー、違うなぁ。もっと低い声の方がいいかな、『消えろ、消えろ、束の間の…』って、あれ?キョウさんじゃないですか」
彼が方向転換した瞬間、二人の目線が合い青年は目を丸くした。
「キョウさんが朝の会サボるなんて珍しい。なんかあるんですか?」
現れたのは同じクラスで演劇部の江藤だった。遥のと負けず劣らず度の強いメガネが太陽に反射して光る。猫っ毛で艶のある江藤の黒髪を芒っと眺めていると、彼は遥の泣き顔に気づき、おろおろとし始めた。
「き、キョウさん⁈な、なぜあなたは泣いているんですか⁈」
ふと見ると、あれほど流したというのに、遥の目には再び涙が光っていた。
「え、ちょっ、ど、どうすれば…あ、」
江藤はふと遥から離れ、竹林に消えた。そのまま帰ってこないでほしいという遥の願いとは裏腹に、江藤は手に何か白いものを持ってすぐ戻ってきた。
「はい、キョウさん。これ当てとけば、目が腫れるの多少はましになりますよ」
手渡されたのは濡れたハンカチだった。
「手持ちがこれくらいしかなくて…あ、もちろん未使用ですよ?少し小さいですが、まぁ無いよりマシかと思います」
「あり、がとう…」
こんな優しさこそ今遥が渇望していたものだった。緊張が解けた遥は、ポツリポツリと今までの経緯を話し始めた。
「バカなことを、したんだ…片想いの人に、昨日告白した…でも、彼には好きな子がいたんだ…私の、親友のことが、彼は好きだったんだ……きっと、今頃みんな私のことからかってるんじゃないかな…私が彼のこと、好きなの、知ってたから…」
遥が泣き止むまで、江藤は遥の隣に座り、何も聞かずそばにいてくれた。
どれほど時間が経っただろうか。遥はやっと泣き止んだ。目はやはり少々腫れてしまったが、遥はどこか清々しげだった。
「ありがとう。江藤。おかげで吹っ切れたよ。さて、ハンカチはどうしようか…」
「そのままで結構ですよ。また会えるかわからないところですし」
確かに、と遥は呟く。しばらくの間2人の間に沈黙が流れる。
「…そうだ、江藤。君は大学どこに行くんだい?」
ふと気になって遥は尋ねた。
「僕ですか、北山大学です。春からはここを離れて一人暮らしですね」
キョウさんは、と江藤は尋ねなかった。遥が誰にも進学先を告げていないのを思い出したのだろう。遥は小さく肩をすくめ、
「吾妻橋大学だ。法学部で国際政治について学ぶ」
江藤はわずかに目を見開いた。
「驚きました。キョウさんは同じクラスだし、てっきり理系大学かと」
私もだよ、と遥は笑う。
「文転したんだ。だからなんとなく伝えにくくてな」
それに、と遥は続ける。
「彼がー大石くんがそこに行くと言っていたんだ。まぁ、彼は結局銘葉大学の経済学部に落ち着いたようだが」
その一言に、江藤は少し俯いたように見えたのは気のせいか。
「そうだったんですね……」
キョウさん、と呼ばれ遥は江藤の方を見る。
「大石って人のこと、僕はよく存じあげませんが、キョウさんみたいな秀才が夢中になる人です、きっと素敵な人なのでしょうね。それに、キョウさんは、自身が吾妻橋大学に行くことを最適解だと思っている………んですよね?」
その問いに遥は真剣な表情ですぐに答えた。
「うん、それは証明されているよ。自分のやりたいことを曲げてまで恋には狂えなかった」
元々理系だからかな、と自嘲気味に彼女は笑う。
なら、と江藤は力強く続けた。
「気にする必要は皆無です。キョウさん、今日は卒業式ですよ、堂々と胸を張って大石くんにも話しかけましょう。最後かもしれないんですから。キョウさんは勇気を出して思いの丈をぶつけたんです。間違ったこと何もしちゃいないんです。そんなあなたを揶揄い嘲笑う権利は誰にもありません。僕がそんなやつ、とっちめてやります。頑張った奴が損をする、そんな世界間違ってる」
遥は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻り、
「そうだね、倒されたままじゃかっこもつかない。偉大な数学者は一度で解を得ようとしないものだ」
「まだ式は始まっていません。今から行けば間に合いますよ」
遥はありがとう、と言ってその場を離れた。たったった、と軽快な足音とともに彼女が竹林の中に消えたのを確認し、江藤は空を仰いだ。空や雲が滲んでいるのはメガネのせいじゃないだろう。
「いやー、強い人だね、そのキョウさんって人は」
ガサゴソと音を立ててもう一人の青年が草むらから現れた。
「見てたんですか、戸部」
「敬語なのに呼び捨てでくるところ、僕は好きだよ、新平」
はぁ、と江藤はため息をつき、街の風景の方へ振り返る。好きな人に振られた今なら、と考えていた30分前の自分を殴りたい。彼女はこちらのメッセージに見向きもしなかった。ますます滲んで行く視界に苛立ち、江藤は乱暴にメガネを取る。余計に視界がにじむ。
「おや、新平、どうしたんだい?」
茶化す戸部にうるさい、と答え、彼は呟いた。
「…キョウさん、最後まで僕になんでキョウと呼ぶか聞かなかった」
「ああ、確かに。韮山遥、だっけ?僕はあいつと同じクラスになったことないからよくしらないけどさ、どーも自分がどう呼ばれようと気にしなさそうな顔をしてる」
「………韮山の韮は漢方薬になる。その呼び名は「韮子」(キョウシ)だった」
誰も呼ばないひねったあだ名。それに込められた思いに遥は気づかなかった。
「敵わないなぁ」
才色兼備、クールでひたむきな彼女に憧れて必死に勉強し、ここまで来た。しかし、結果的に彼女を得ることはできなかった。
「なるほどね。君にとって彼女は本当に高遠草だったわけだ」
高遠草。韮の別名だ。その言葉に江藤は微笑む。
「高嶺の花とかけてるつもりですか?」
「おもしろいだろ」
「50点」
「微妙な判定どうも」
好きな子が別の男子に告白したと昨日聞かされ、今日も結果的に振られたわけだが、何故か江藤の心はどこか暖かかった。友人の言葉をふと思い出す。
「僕の研究動機はある人への異様なまでの憧れです。小さい時に見たその人の立ち居振る舞いがとにかくかっこよくて…!僕思うんです。「憧れ」ってとっても強いんです」
ああ、と江藤は呟く。
「キョウさんへの僕の思いは」
チャイムが鳴った。江藤はゆっくりとメガネをかけ直した。卒業式がもうすぐ始まる。江藤は竹林の方へ歩きながら、戸部に言った。
「やはり訂正します」
「は?何を」
「高嶺の花ですよ。僕はキョウさんに憧れていました。でも憧れは憧れのまま。決してその人物と並ぶことはない。『高嶺の花は掴めない』。まさに『高遠草は掴めない』わけです」
呆気にとられた戸部をよそに、江藤は竹林の中に消えていった。戸部はしばらくそこに突っ立っていたが、やがて肩をすくめ、柔らかな春の日差しの下、彼の後を追いかけていった。
高遠草は掴めない ジルーシャ @clarino
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