第7話 新しい日常
新しい生活というものは、期待と不安、二つの両極端な感情を伴うものだと思う。そういえば以前居た世界での、初めての一人暮らしもそんな気持ちだった。親元から離れて一人で気ままにできる嬉しさに鼻歌が溢れ、自分がとても自立した大人だという気持ちになる。そしてときおり、余計な雑音のない部屋をたまらなく寂しく思う。
「いやまって、ちょっと半端ないくらい心細い」
ベッドの上で、思わず呟いた声すら、静まり返った空間が瞬く間にかき消す。耳鳴りのするような静けさは、じわりと胸の奥が冷たい水に浸かるような思いにさせられた。
「失敗した。完全に失念していた。そういえば私は言葉もわからない世界で天涯孤独の身の上だっだよ。そしてまたしても全く知らない場所に移動したうえ、今まで四六時中2メートル以内にいた人と初めて離れ離れになるとかそりゃ心がもたないよ。いくら30代までの記憶がぼんやりあるといっても今のメンタルは10歳並なわけだし。こんな雰囲気全開なお屋敷で怖くないわけないよ」
馬鹿みたいな独り言が止まらないまま、数時間が経っている。
初めてここへ来た夜は、夜ご飯を食べてる間に寝落ちしてベッドに運ばれたらしく、気づいたら朝だった。だから二日目の今晩。屋敷の人が置いていってくれた小さな燭台の火も消えて、室内はとっぷりと暮れた闇につつまれている状況で、久方ぶりの独り寝に自分の精神が耐えられそうにないことに突然気づいたわけだ。
私に用意された部屋は、天井が高く、大きな窓からは中庭が見下ろせる二階部屋。大人が3人は並んで寝られるような天蓋付きのベッドが、これまた余裕でおさまる広さがある。分不相応な広さの部屋の不気味さといったらない。窓から明るい月の光が差し込むため、燭台がなくても手元くらいは見えたが、その代わり、ささやかな陰影がやたらと目の錯覚を引き起こすのだ。幻聴なのか屋敷のどこかから聞こえるのか、ときおり耳に届く小さく得体の知れない物音も、無駄に想像力を掻き立てる。
お化けとか、全然信じない性格だったはずだったんだけどね。けれど、古びたお屋敷の馬鹿でかい部屋に一人きり。異世界では物理法則が違うかも知れないと思うと、否定派の考えも揺らぐ。
(アドルフの部屋がどこか聞いておけばよかった。そうしたら恥も外聞も無く突撃するのに。いやしないけれども、多分)
ふいに風が窓を叩いた。ぱしん、ぱしん。まるで子供が、広げた手のひらでガラスを叩くような音だ。と、脳が無駄な想像力を発揮する。私は心を決めた。
重い掛布団をはいで、つっかけに足を入れる。左腕でぬいぐるみよろしく枕を抱きかかえたのは正直心細いからだ。羞恥心はこの際、脇に置く。空いている方の手で、ゆっくりと廊下に繋がる扉のドアノブを回した。
廊下はこれまた水を打ったような静けさだった。ただ、外からの物音が入ってこないからだろうか、ホラー映画に出てきそうな洋館だけど、不思議と部屋に一人でいるよりは怖くない。
「外だからかな?」地下室生活からすると、高い天井とだだっ広い廊下を歩くだけでも開放感たっぷりだ。独り言で気を紛らわしながら、適当な方向へ進む。
「でも、できれば本当に外に出たいなあ」
そういえば、地下牢を出てからこの屋敷の玄関までは馬車に乗って来たから、せっかく自由になったのに、いまだ窓越しの景色しか味わっていない。
これだけ広いお屋敷なんだから、出入り口も複数あるはずだと見当をつけると、案の定、中庭に通じる小さな扉を発見した。ドアに鍵はかかっていたけど、掛け金を外すだけであっけなく開く。そもそも屋敷の周りには大きな城壁と頑丈な扉があるので、ここらへんはゆるいのだろう。いそいそと外に出る。
途端に、足元からさあっと風が吹き上げ、私の寝巻きの裾と庭の木々を揺らした。
「うわあ、開放感すごい」
中庭は、煉瓦造りの屋敷の壁にコの字に囲まれ、見上げると黄色や赤に色づく葉をつけた木々の枝の向こうに、小ぶりな月をたたえた夜空が広がる。明らかに人の手が入っている植込みには、多種多様な花々が競って咲いていた。顔を近づけると、土と青臭い匂いが風と一緒に鼻腔に入ってくる。
辺りに広がる暖色系の色合いといい、涼しげな空気といい、あちらの世界の秋を思わせる。こっちにも四季があるんだろうか。
「あれま、きみは随分小さいんだね」
立派なお屋敷だけあって、見栄えのする鮮やかな花が花壇には揃っていたけど、どこからタネを飛ばしてきたのか、隅っこの方に、薄紫の小さな蕾をつけた一本の野花が、風に今にも吹き飛ばされそうになっていた。その頼りなげな様子に、ついぽろりとひとりごとが口をついて転がる。
「やっぱり、頼りないよなぁ。子供だし、言葉しゃべれないし」
分かってはいたんだ。やっぱり、ウェンもアドルフもこの世界のお偉いさんだった。ご飯を食べるのも着替えるのも、それぞれに違う顔ぶれの使用人が現れては恭しく手を貸しては引っ込む。好奇心で数えたら、分かるぶんだけでも10人は居た。そして、ウェンもアドルフもその光景に平然としていた。一方、私はど平民なので、言葉の通じぬメイドさんに裸に剥かれるまえにさっさと自分で着替えたし、お茶だって髭をはやした使用人の目を盗んで自分でお代わりを入れた。すると、彼らが一様に困ったような顔になってしまい、私は自分の平民っぷりを嘆いた。彼らの仕事を拒否してるように映っただろうか、と居た堪れない気持ちになったのだ。
そしてとうとう、私をバスタブに連行し体を洗うブラシを持って迫ってきたメイドさんを前にして私は決心した。このままではいけない。
このままアドルフのおまけとしてお嬢様待遇をうけ、美味い飯をタダで食べていたら、立派なニートになってしまう。腐っても私は社会人。社会の歯車として労働に従事してきた者として、この事態は受け入れがたい。私は必死にアドルフに自分の処遇改善を訴えた。私だって一人前に仕事が出来る。ここでも同様にアドルフの役に立ちたいのだ。
「トーコ、お仕事、覚える。お仕事、がんばる、したい!です!」
ああ語彙力。でも、アドルフはすぐに理解したふうに笑って了承してくれた。それから、このお屋敷で仕事を教えてくれる、というようなことを説明してくれ、「ただし、今日は休んで明日から頑張るように」と頭を撫でていった。「俺もしばらく忙しくなる」と付け加えて。
それが、今日の朝の出来事。その後、アドルフには会ってない。これからも多分、そうそう会ったりは出来なくなるだろう。アドルフと私の部屋は別の棟だし、食事をするところも別々になるというようなことを言っていた。
予想はしていた。ここで私がアドルフにしてあげられることは何もない。使用人は腐るほどいるし、いかにも偉そうな大人の人がみんな一様に、アドルフに敬意のこもった態度で話しかけていた。
対して私には、誰もかれもが扱いづらそうにしているのが見てとれた。そりゃそうだ。言葉も喋れない外国人の子にいったいどうやって接しろというのか。私だっていやだ。
「ああー…やっぱ、付いてくるんじゃなかった、かな?」
恩知らずな台詞だと自覚はしている。ただ、考えなしだった。それは確かだ。
でも、嬉しかったのだ。アドルフが連れてこようと思ってくれて。アドルフが差し伸べてくれた好意を受け取ったことに対しての後悔はない。ただし、今後はもう甘えてはいけない。当初の予定通り、一人で生き抜く力を身に着けるべきだろう。
「とはいえ、ここ結構山の中だし、しばらくはお世話になるしかないな。言葉や仕事を教えてくれるらしいし。それはありがたいもんな」
とりあえず、目標は手に職をつけて自立することだ。相変わらず、元の世界に戻る目処は立っていないし。私は足元の、ちっちゃな野花に向かってしゃがみこむ。
「お前も頑張れよ。負けるな。ちっぽけだって生きてるんだ」
吹き飛ばされないよう、根元の土をこんもりと盛ってやり、その辺に落ちていた枯れ枝を近くに置いて風除けにする。
「よし、かわい子ちゃん、お前はおっきくなるぞ。根っこ生やしてきちんと地面にしがみつけ。葉っぱ伸ばして栄養つけろ。そんで他の子に負けないくらい、びっくりするような綺麗な花を咲かせるんだ」
夜風にふらふらと揺れる蕾へ、言い聞かせながら私は手を動かした。そして結局、物言わぬ相手に偉そうに口にしたのは、自分自身に対する鼓舞なのだと自覚もしていたのだった。
その夜に見た夢は、朝になると忘れてしまったが、理由もなく悲しい内容だったことだけは覚えていた。
翌日から、簡単な仕事をおおせつかるようになった。
といっても、本当に簡単な仕事だ。タオルの山を運ぶだとか、庭の花に水をやるとか、小学生のお手伝い程度のことだ。それでも、他の使用人たちとのやりとりが必須だから言葉の勉強にはなるし、一日中何かの用事があるので、暇とは縁遠い。また、地下牢生活の影響のおかげで未だ体力はお粗末なもの。この程度の仕事量でも、夜になるとへとへとに疲れ果てて秒で落ちてしまう。
だから、相変わらず、あれからアドルフには会えていない。
そりゃそうだ。そもそもご身分が違いますからね。
(いや、別に身分が違ったっていいんだけど。でも、偶にでいいから、一緒にお茶を飲んだり、少しだけ話をしたいなあ)
たぶん、それは贅沢なことなんだろう。とにかく今は頑張るしかない。早く色々なことを覚えて、一人前になったら、きっと何処かで雇って貰える。アドルフにはもう私は必要ないと思うけど、もしかしたら、またお茶を入れることもあるかも。そんな妄想をしながら、私は屋敷をあちらこちらへと走り回った。
私の教育係は、そばかすのある黒髪の女の子だ。名前はユッテという。女の子といっても、多分アドルフよりは少し上くらいの年頃だと思う。彼女ともう一人の「カーリン」という名の女の子が、使用人の中での最年少と見られ、彼女らが、つまるところ、私へ細々とした用事を言いつける係である。
ここでは女の使用人のお仕着せは、くるぶし丈のスカートに白いエプロンという、いわゆる質素なメイドさん服だ。ユッテとカーリンは、年長の使用人たちに比べ落ち着きがなく、スカートの裾をバサバサと捌きながら慌しく動くので、よく周りから注意されている。私も気をつけよう、と思ったが、そもそも私のような子供に合う寸法のメイド服が無かったらしく、私に支給されたのは裾がすねの辺りまでしかない鼠色のワンピースとエプロンだった。とても残念だ。早く大きくなってメイド服が着たい。私は立派なメイドさんにジョブチェンジすべく、文句を言わずに雑用を片付け続けた。
五日ほど経つと、私は簡単な指示語を覚え、雑務も難なくこなせるようになった。もう少し難しい仕事をもらってもいいんじゃないか、などと自惚れていた私だが、相変わらず体力だけはミジンコ並なのが痛いところだ。案の定、六日目の朝に寝坊をした私は、下着が見えるくらいスカートを翻しながら屋敷の廊下を走る羽目になっていた。
私はいまだに寝泊りする部屋だけは客用の棟なので、ちょっとでも遅くなると、他の使用人が揃っているところへ遅れて入ってくることになる。朝の使用人たちの集合場所は厨房だ。その朝、息を整えてからこっそり厨房へ入っていくと、もう申し送りが終わり、それぞれが持ち場へ向かうところだった。
ユッテとカーリンが告げ口しなかったことに安堵しながら二人を探すと、彼女たちが使用人仲間の男に挨拶をしているのが見えた。
(見ない顔だな)
ユッテやカーリンがちょっと膝を曲げて彼に丁寧な挨拶をしている。それから今度は男の方が、横を通り過ぎるメイド長に礼儀正しく角度をつけたお辞儀をする。白髪で長身の男が、年頃からも所作からも、メイド長より少し下かもしくは同等の立場なのだと見てとれた。
とりあえず、遅刻を見咎められなかったと安堵して、私が談笑を始めた三人に近寄っていくと、白髪がこちらを見て、ふっと笑みを見せる。
「新入りかな?」
「彼女はトーコよ。周辺国の出身で、まだ言葉がおぼつかないの。でも、ゆくゆくはアドルフ様のお側仕えとして仕込む予定だから」
「それはそれは、大変なご出世じゃないか。もしや良家の…」
「ああ、違うわ。そういうのは全くないの。でも、アドルフ様が軟禁されていたおりに、良い働きをしたらしくて、それでここで見習いをすることになったの。そういうことよ」
「ああ、そうなのかい」
どうやら、ユッテが私の紹介をしてくれたようだ。「なんきん」という単語以外は聞き取れた。屋敷に来てからというもの、ヒアリングが大変捗ってしかたない。
「では、彼女をしっかりと仕込まなくてはね。それに今回はお客様の数が多い。そこでだ、私は晩餐の給仕の担当だから、よければ引き受けよう」
「あら、カルダン様直々にご教授してくださるの?」
カーリンが意外そうに目を丸くする。
「でも、大丈夫かしら。この子言葉が本当につたなくて」
「ああ、いいとも。私も奉公に来る子供の相手はよくしている。大方のことは分かるつもりだ」
「まあ!それならぜひお願いします!メイド長には話しておきますから」
白髪は、私にもう一度自己紹介をした。カルダンと名乗ったので、私はここへきて学んだ「サー」という意味の「へいる」という言葉をつけて名前を呼んでみた。すると、驚くほど満足げに笑って頭を撫でられる。
「宜しい宜しい。きちんと躾されているようだね」
やはり彼は私の教育を任されたようで、それからカルダンは私を連れて屋敷のあちらこちらを巡った。シーツのたたみかたや食器の持ちかた、暖炉の灰をかきだしたり、靴を靴墨で磨いたりと、仕事は多岐に渡った。内容は難しくはないのだがどれもこれも、地味に体力が必要な仕事だ。
あっという間に昼どきになり、厨房にあるテーブルで他の使用人たちと食卓を囲むころには、スープを飲みながら眠気と闘うのが一苦労だ。
「まあ、この子ったら。本当に体力がないんだから」
「いやいや、少しこんを詰め過ぎたかな」
ユッテとカルダンのやりとりは耳に入ってくるが、とにかく眠い。子供体力っていうのもあるが、今日は屋敷の棟を超えての移動が多いものだから、ちょっとしたハイキング並みの運動量なのには参った。子供の特権でお昼寝したい。
「では午後は、厨房の雑用と使用人部屋の掃除だけにしよう。君たちは?」
「明日の晩餐会に向けて、皆総出で大広間の準備よ。メイド長がお料理の最終確認をするんだけど、料理人は東棟の厨房を使うから、こっちは好きに使ってもらって構わないわ」
「そうか、それではそうさせてもらうよ。この子の面倒を見終わったら、私もお客様方をお迎えに向かうからね」
どうやら、午後も修行は続くらしいぞ。会話の端々を拾ってそう解読した私ば、自分の頬を力一杯つねって、気合いを入れ直した。
(頑張れ私、手に職だ。掃除人からメイドさんに転職出来るまたとない機会だぞ。)
言葉が不自由な私にキレることもなく、根気よく教えてくれるおじ様は貴重だ。にこにこと、こちらを見下ろしてくるカルダンに私はしおらしく「よろしく」と答えた。
午後の修行は、皆が昼食を食べ終わって閑散とした厨房で始まった。
「いいかい、料理人以外は普段厨房で料理をすることはないが、下拵えや主人の朝食をサーブするときはいくつかやることがある。お湯を沸かしたり、芋の皮むきをしたり、分かるかな?」
「お湯知ってる。お湯作る。いも?むくはわからない」
「そうか、こっちへおいで」
昼食のあと、厨房は綺麗に片付けられて料理人の姿もなかった。ただ時折、数人の使用人が、食器を抱えて出入りしている。
私はカルダンに手招きされて、彼の手元にあるザルの中を覗き込んだ。なんだこれ芋じゃん。
「あ!いも!知る、知ってる」
「そうか、では剥けるかな?」
「おうふ」
剥くってこのちっちゃい包丁で?ピーラーは無いのかな。振り向いた私の絶望顔でカルダンは察したらしい。おじさまは鷹揚に笑って、手を伸ばした。
調理台を前に、芋を持った私の手を背後からささえ、包丁で剥いていく。私が殆ど力を入れなくても、するすると皮が調理台に長いベルトみたいになって落ちていった。プロですなあ、と感心していると「さて、やってごらん」って言われた。絶対無理だけど、とはどうせ伝わらないので反論できず、諦めて芋と格闘する。身まで全部削り取っていくお粗末な芋剥きが続き、芋はふた回りほど小さなサイズに生まれ変わった。そして最後の最後で、滑った包丁の先が私の指に触れた。
『あてっ』
小さな包丁に大した攻撃力は無かったが、反射的に泣き言がもれる。ゴマ粒ぐらいの血溜まりは痛くも痒くもないが、これは紳士なおじさんが気に病んでしまうかも、と気を回した私は、大丈夫だよという意味を込めて後ろを振り返った。我ながら日本人らしい心遣いだ。自画自賛する私は、振り返りきる前に、くんっと自分のうでが引かれて驚く。
「おやおや」
優しげに眉を寄せて、微笑を浮かべたカルダンが呟く。それからおもむろに、ぱくりと口に含んだのは、私の指先だ。
私は白い髭を蓄えた顔を前に、自分の指先がおっさんに咥えられているのを信じられない思いでしばらく眺めていた。
「ごめんね、大丈夫かい」
今気づいたが、カルダンの瞳の色は薄いブルーだ。私は答えられないまま頷き、とにかく腕を引こうとした。
たとえこれが優しさ百パーセントの行為なのだとしても、正直かなり気持ち悪い。スキンシップの多いおっさんだとは思ったが、いくらなんでもこれはどうなの。こっちじゃ普通なの。
「だだいじゃうぶー!」
作り笑いと共に、引こうとした腕は動かなかった。そこでようやく、先ほどまでときおり出入りしていた使用人の姿が途絶えていることに気づく。
「今日はよく頑張っていたからね。ご褒美をあげようか。よしよし、怖がらなくて良い」
今日一番の優しい声で、私を褒めているらしいのは分かる。ただ、この距離とスキンシップが、こちらの世界では常識なのかどうかだけが分からない。
出来るだけ穏便に、このおっさんの口から自分の指を救出するにはどうしたら良いか、脳をフル回転で考えている間に、相手は次の行動を起こしていた。体がふわりと浮き、調理台にすとんと腰掛けさせられる。スカートから覗いた自分の脛を割って、カルダンが調理台の上に乗った私の前に立った。
「さあ、静かにしていなさい」
ここまで、いうべき言葉が見つからなかった私だが、その直後、おっさんが俯き加減に何をしているかを察して脳内にひらめいた言葉は「はいアウト」である。
思考が一瞬にして冷めきり、私は特に躊躇いもなく、自分のやや後方に置かれていた鍋をむんずと掴む。そして今一度前方に向き直り、ロマンスグレーの、よく整えられた頭頂部を見下ろすと、しっかり取っ手を握り直して、まっすぐに振り下ろした。
聞いたことのない鈍い音と一緒に、おっさんが床に崩れ落ちる。子供の腕力と侮るなかれ。片手鍋は鉄製で、重力の助けを借りて加速し、尚且つ私が絶妙に傾けたために、フチの一点に力を集中させている。
流石に死んだらやばいとは思い、調理台を降りて頸動脈あたりに指を当てた。生きていたので、乱れたロマンスグレーの頭頂部を、毛根狙って踏みつける。
(さてこのクソをどうするか)
流石にこの世界でも、こんな年端もいかない子供をどうこうしようというやつは駄目なんだと思われる。だからこそこのクソも、わざわざ周りに人気がなくなってから行動を起こしたんだろうし。
(こいつ使用人の中でもエライ方っぽかったもんな。揉み消されないようにしないと)
しばし考えて、私は転がっていた包丁を手に取り、自分のスカートとシャツに適当に切り込みを入れる。それから鍋を片手にしばし耳をすませた。数分ほど待つと階段を昇り降りしているらしき足音が聞こえた。そこで、私は仕上げに指を喉の奥に突っ込んで盛大にえずき、生理的な涙を溜めてから、渾身の力をこめて叫ぶ。
『いやぁああああ!!このクソロリコンオヤジ性癖さらけだして社会的に死ねえええ!!』
やはり、外国人が貞操の危機に陥ったのなら、母国語で叫ぶであろう。私は伝わらないのをいい事に、思いの丈を日本語で、せいぜい悲痛な声で叫んだ。
悲鳴の効果はてきめんだった。
いの一番に血相を変えて最初に飛び込んできたのは、なんとユッテで、鍋を握りしめた私と床に転がる上司を見比べて2秒で正確に状況を察した。意外に有能だ。ユッテは私に駆け寄って変態から遠ざけ、さらに大声で他の使用人を呼ばわる。続いて厨房に入ってきた男の使用人は、不審そうにユッテと私の方へ向かってきたが、床の上で伸びているクソのズボンが脱げかけているのに気づくと、途端に死んだ魚の目になった。
それから、大勢の使用人が厨房に入れ替わり立ち替わりしていったが、呼吸を確かめた者が一人いたくらいで、他は誰もそのクソを助け起そうともしなかった。一方で私は、ユッテに半ば抱き抱えられ、別の若いメイドに布で包まれ、「よくやった」と何人かの女の人に頭を撫でまわされて、あれよあれよと別の部屋に連れてこられていた。私はいい加減疲れていたこともあり、何の気兼ねもなく若いメイドさん達に甘やかされ、再びやってきた眠気に今度は逆らわなかった。メイドさんたちの許可をとって自室のベッドに潜り込み、早々に夢の中にダイビングしたのだった。
翌朝、ユッテとカーリンを従えたメイド長が、直々に部屋にやってきた。そして、極めて簡潔に「しばらく仕事はお休みだ」と言い渡し、二人を置いて去っていった。二人は持ってきた朝食を食べるわたしのそばに、ピッタリとくっついて離れなかった。なぜに。考えられるのは昨日の一件だが、どちらからも、あのクソについての話題は出ない。私の部屋で菓子をぱくついて暇そうにしている。あんまりに暇そうだったため、私は久しぶりに自作のノートを取り出した。せっかくなので、二人に言葉を教えてもらおうと、ノートに新しい言葉を書き付けていく。
「あらまあ、本当に文字が書けるのね。」
「本当ね、全くわからないけど」
二人がノートを覗き込んでくる。少し前まで、アドルフと一緒にしていたことが思い出されて、懐かしい気持ちになった。地下牢に居たのはつい1週間ほど前のことなのに、随分と昔のことのように感じた。
病み上がりのアドルフが、部屋の中のものを、ゆっくりと指差し、異国の言葉を口にする光景が、鮮明に浮かぶ。もう体調はいいのかなあ。
「言葉おしえて」
私のお願いに、黒髪と金髪のコンビは頓着なく頷いた。
「いい?これが、走る。これは歩く」
「そうそう、これが"怒る"。これが"叱られる"よ。ね?意味が違うのわかる?」
意外にもユッテとカーリンは、優秀な教師だった。2人は、場面や時間の流れ、状況説明などを身体を張って説明してくれるからだ。二人も急なお休みを貰ってテンションが高めなんだろう。広い室内を走り回ったり寸劇を披露したりと、仕事中は頑張って隠しているであろう若いアホっぷりが遺憾無く発揮されている。彼女達のお陰で、この日のノートはかなり充実した内容になった。"仕事をサボる"とか"食べものが喉に詰まって死にかける"とか"池の水全部抜いて半日説教される"とかの大変実用的なセンテンスを覚えられたのも僥倖である。
日が傾くころ、張り切りすぎて喉が枯れ果てたユッテが「じゃあ、最後の問題ねぇ、今やっで見せた状況を説明じてみでえ」と魔女のような声で言った。彼女は直前まで、カーリンを相手に迫真の演技で絶叫し、高そうなカーペットに額を擦り付けていた。
「私は昨夜お菓子を盗み食いしたので、もしメイド長見つかったら、きっとお尻の皮をひん剥かれるに違いないと思い、プライドを捨てて謝った」
「ず、ずばらじいわ!発音も良ぐなっでるわよ!」
「そうね、ちゃんと時制もあってるし。ひん剥かれるが受動態にもなってる」
椅子に深く沈み込んだユッテが満足げに評し、ベッドの端にもたれ掛かったカーリンが弱々しく微笑んだ。
「二人ともありがとう…でも少し加減考えろ?死ぬぞ?」
私は覚えたてのセンテンスを駆使して感謝と労わりの言葉を述べたが、それを聞いた二人はその場で崩れ落ちた。
二人のしかばねを前にノートをまとめていると、正確なリズムのノックが響く。途端に二人は飛び上がり、同時に入って来たのはメイド長だ。その光景に、私は、さっきの寸劇はおそらく事実なんだろうなと踏んだ。
メイド長はアニエラさんという、年齢不詳の女性だ。彼女がこの屋敷で一番えらい人なのは一目瞭然である。そして、確かにいざとなれば尻の皮でもひん剥きかねない怖さがある。何度か、彼女の前でお叱りを受けているらしい使用人を見たことがあるが、誰も彼も真っ白な顔をして俯き加減に思いつめた目をしていた。
「庭師が急いで枯れ葉剤が居ると言ってるの。貴方達三人で買ってきて頂戴」
「はっ、はい。わかりました!」
「大きな声を出さないのユッテ。カーリン、これが代金。お金の管理はあなたがなさい。トーコもいるから時間がかかるのは分かってるわ。ゆっくり行きなさい。帰りは村のシンジオに駄賃を渡して送ってもらうように」
「わかりました。枯葉剤ですね」
「ええ、2袋お願い。代金は余分に入っているわ。それと、村に見世物が来ているらしいから、見てきていいから」
アニエラがいい終わらないうちに、二人が同時に目を丸くした。それから噛みつくように口を開く。
「ほっ、ほんとですか!見てきていいんですか!?」
「あのっ、ば晩餐のお手伝いがあるのでは?!」
「あなたたちが居なくても手は足ります。それよりも…アドルフ様が大切な支援者の方々とお会いします。彼女を少し外に出しておいた方が無難なの。帰りは何時になっても構いませんから」
アニエラは早口に答えると、さっさと部屋を後にした。興奮気味の二人から聞けたのは、どうやら三人そろって午後もお休みがもらえ、おまけに屋敷の外へ買い物に出かけて良いらしいということだ。
さっきまでの憔悴ぐあいは何処へやら。大急ぎでエプロンを外し、鏡で身なりを整えた二人は、ついでに私の髪も軽く結い上げて部屋から引っ張り出した。
通用門から屋敷を出るまでは、それから十分もかからなかった。カーリンが使用人部屋から手籠と薄い外套を取って来る間、ユッテは厨房の料理人の一人から肩掛けを借りて私に巻きつけ、支度は瞬く間に終わった。私は若いって素敵、とどうでもいい感想を心中でしみじみと呟いた。
行きはひたすらの下り道だ。落ち葉と黄土色の土を踏む彼女たちの足取りは軽い。もちろん私も楽しんでいる。まだ外はそれほど寒くない。木々は暖かそうな色をして、さわさわと風の音を奏でている。午前中たっぷりと休んだので、足取りも軽かった。
「いま麓の村にはね、見世物が来ているの。わかるかなあ、芸をみせる一団のこと。ああ、まじない師がいるといいんだけど!面白い芸を見せてくれるわよ。それに、甘い飲み物や果実飴も売ってるし」
「さすがにトーコにはわからないんじゃない?」
「あら、外国にだってまじない師はいるでしょ。まあ、実際に見たらすぐわかるわよ」
私を真ん中にして歩く二人の足取りは、今にも踊り出しそうである。その二人の様子と、何度も耳に入ってくる「お菓子」という単語で、私にも目的地がどんなところかの見当くらいはついた。案の定、しばらくして私たちが到着した集落には、そこかしこから賑やかな音楽が聞こえている地元のお祭り会場があった。石造りの質素な家々と、その間を縫うように広がる畑。いかにも農夫らしき住民が行き来する通りに、布製の垂れ幕で飾られたテントのようなものがいくつか設営されている。
どさ回りのサーカスといったところなんだろう。ここでは大層な娯楽と見えて、大人も子供も楽しそうにそれぞれのテントの前に群れをなしている。テントを前にしたユッケは私の手を引いていることも忘れて、芸を披露している最中の人だかりへ突撃しようとするものだから参った。
「ユッテ!まずはトーコをどこかで休ませてから…」
「あ!カーリン、あそこに果実飴があるわ!二人にも買ってきてあげるね!ちょっと行ってくる!」
若いゆえに落ち着きに欠けるとは思っていたけど、プライベートだとここまでとは思わなかった。ユッテ、お前もうちょっと配慮というものを身につけた方がいい。私と一緒に取り残されたカーリンは、きっちりと結い上げた淡い金髪に手を突っ込んで、小さく唸った。カーリンの方はユッテに比べれば、人並みの常識を持ち合わせていると見え、苦労人らしい諦めのため息を一つついた。それから、私の方へ屈み込むと、ゆっくりとした口調で説明を始める。
「いい?これから除草剤を注文しに行ってくる。ここからもう少し歩くし、もし店主が祭りに出かけていたら探さなくちゃならないから、トーコはここで待ってて。見世物を見ていてもいいけど、この広場からは外に出ないで。わかったわね?」
私はこっくりと頷いた。
「トーコ分かった。ここで待ってる。行くしないよ」
「よかった。あ、ユッテは放っておいていいから。あの子は迷子になっても、うるさいからすぐ見つかるし」
割と酷薄な評価とともに、カーリンはお使いを全うしに向かった。私は広場のはしにあった大きめの石に腰掛けて、見物人を見物するという暇つぶしに精を出すことにした。異国の喧騒の中に身を置いて学んだことは、子供のしゃべる言葉は、文節が単純で感情表現が豊かなため、意味がとりやすいことだ。男の子の一団が、興奮気味に「あっちで始まるぞ!!」と叫びながら走り抜ける。目線を向けると、確かにあるテントの前で、くすんだローブをかぶった老人が見世物を始めるようだ。
どうやら楽器の演奏や曲芸ではないらしい。このおじいちゃんはどんな見世物をするのかと、私は遠目に眺めた。
そして、聴衆の期待のざわめきを前に、老人は外見に見合わぬ大きな声で言った。
『炎よ、ともれ』
その言葉は、私の耳に、明確な意味と共にはっきりと届いた。
私は自分が聞いたものを、にわかには信じられなかった。思わず立ち上がり、視線を巡らせる。空耳かも知れない。あの老人が発した言葉ではないのかもしれない。溢れかえる雑多な音の中から、もう一度、あの音を拾い上げようと、必死に耳をすます。もう一度。しっかりと聞いて確かめなくては。
子供の歓声が上がる。恐れの混じった驚き。大人たちの膝丈で、小さな頭がひょこひょこと跳ね、その奥に白髪混じりの禿頭が見えた。私は恐る恐る足を進め、人だかりの真後ろに近く。観衆の間に時々できるわずかな隙間から、地べたに座り込んだ老人の、そのシワだらけの口がゆっくりと開く。
『炎よ、揺らげ』
ぶわり、と風もないのにその老人の手元で橙色の炎が踊った。再び子供の歓声と、関心したような唸り声。数枚の硬貨が、老人の足元にある壺へ音を立てて放り込まれた。
私は羽織っていた肩掛けを落としたことにすら気づかなかったし、何人かの子供がぶつかってきた私に文句を言ったことにも気づかなかった。
『あなた日本語を喋るの?』
目の前で、大きく見開かれた老人の瞳は空の色をしていた。私は混乱したまま叫ぶ。
『日本人じゃないの?ならどうして言葉が分かるの!?』
老人は詰め寄る私から怯えるように顔をそらし、周囲に困り切ったような目線を巡らせた。「この娘っこは外国人か?親はだれだね?何て言っとるんだ」
私は混乱して、老人の前で立ち尽くした。相手が何かをごまかしているようには見えなかった。それでも耳に残る懐かしい音のなごりが訴えてる。あれは確かに日本語だ。私の言葉だ。
「トーコ!!何してんの!」
背後で私の名前を呼ぶ声を聞きながら、私は老人から目を離さなかった。白髪眉毛を下げて、困ったもんだ、とでもいうふうに肩を竦める。やはり、何もおかしな様子はなかった。私は現れたユッテに腕を引っ張られ、老人におざなりの謝罪をさせられてその場を離れる。
「もう、何やってんのよ。あれ?カーリンは?もうお店に行っちゃったの?」
ユッテの話を聞くふりをしながら、頭の中ではこれまでの記憶を総ざらえして、さっきの事態を理解しようと務めていた。棒突きの飴玉を差し出してくるユッテに尋ねる。
「さっき、火をふわーってする。どうやった?」
「んん?ああ、魔術のことを言ってるの?」
「まじゅつ?」
「そう、あれは"魔術"よ。トーコは初めて見たの?…外国にはないのかしら」
ユッテは首をひねって説明を続ける。
「うーん、そうね。"魔法の言葉"っていうのがあって、それを唱えると、不思議なことが起こせるの。"火を起こせ"だったら火が起こせるし、"雨よふれ"だったら雨がふる、みたいな?」
「魔法の言葉があると、みんな魔法使える?」
「それは無理。魔法の言葉はね、すっっごく昔の言葉で、もうみんな忘れちゃって、ほとんど知ってる人が居ないんですって。しかもね魔法の言葉は、これまたすっっごくきちんと正確に発音しないと、ちゃんとした魔法にならないの。それができる人はメイステルみたいな、とっても頭が良くてえらい人だけ。あ、さっきの見世物のおじいさんは違うわよ。あれは、まじない師。おまじないとか、ちょっとだけ魔法の言葉を知ってるの」
「ユッテは、まほうの言葉、知らない?」
「もちろん知らないわよ!さっきの火をつけたりするのだって、なかなか見れないんだから。あれって、まじない師の弟子しか教えてもらえないんだって。昔話には、とってもたくさんの魔法を知っている魔女がでてくるけど、それは現実じゃないし」
ユッテからの情報は、私には思いも掛けないもので、この事実を飲み込むころには、お使いも祭りも終わっていた。そして帰りの馬車に揺られながらひたすら考えていたことは、この世界の魔法の言葉が、私の母国語だという事実についてではない。
私が、知らずにやっていたかもしれないことについてだ。
私がここに来てから喋った日本語なんか数えきれない。なにせ、理解されないのをいいことに、四六時中ぼやいてたのだ。ああしたい、こうしたいとか、歌を歌ったり暴言も吐きまくった。でも、例えば私が「あーお腹減ったご飯食べたい」と言ったことはあっても、ご飯が急に出てきたことはなかった。ひもじい思いをしながら眠った夜はいくつもあった。地下牢にいた時の使用人に「はよ禿げろ」とか挨拶のように言ってたし。
(あのおじいさんが口にしたのは確かに日本語だった。しかも、ちゃんと日本語に聞こえた)
外国人が話すような訛りではなくて、きちんと聞き慣れたものだった。まるでそこだけ吹き替え映画のような、流暢な発音だったのだ。
ならば、日本語が魔法の言葉なのだとしても、魔法の言葉を唱えればなんでも叶うわけではないらしい。では違いは何だろう。顔をあげると、すっかり寝息をたてているユッテと、必死に眠気と戦うカーリンが舟を漕ぐ姿がある。村の馬車は質素なもので、車内に窓はなく御者席には少年の背が見える。馬車を引く馬の歩みはゆっくりしたものだが、来た時よりは早くついてしまうだろう。
(仕方ない。夜ひとりになった時に試してみるしかない)
この世界の人間ではない自分には、魔法とやらは使えないかもしれない。でも、万が一私にもあのおじいさんと同じことが可能なら、その効果がどれほどのものかがわからない。ユッテのいうことを信じるならば、魔法の言葉を正しく発音しさえすればいいらしいのだから。
馬車の揺れが止まった。私はすっかり夢の中にいる二人を起こすのはしのびないなと考えながら、御者の少年にお礼を言う。
「ありがとう、今二人を起こす」
少年はすぐに振り向き、そして私に向かって二本の指を唇に当ててみせる。暗がりに、少年の赤みがかった瞳が動揺でゆらぐのが分かった。私は言葉尻を飲み込んで息をひそめる。少年は御者席にぶら下げたランタンを静かに外し、小さな光源を吹き消す。小さな軋みを上げて、座席に少年が乗り込んだ。
「おかしい。お屋敷の外門の篝火が消えてる」
屋敷はまだ木立の向こうだ。目をこらすと、確かに屋敷上階部分の室内の灯りはちらちらと浮かび上がっているのだが、外壁には一つも灯りがない。
「火?ないの?」
「そうだ。かならず、昼と雨の日は旗、夜は篝火がついてるはずなんだ。無いときはまずいんだ。父さんが言ってた。その二人を起こせ。静かにだぞ」
私は遠慮なく二人を叩き起こした。心地よい眠りから一転、がっちり口をふさがれながら揺す振り起こされた少女たちは目を白黒させていたが、少年に促されて屋敷の方を見るなり、真剣な顔つきになった。
「やだどうしようユッテ、篝火が消えてる」
「門番のフーデンは?」
「わかんないわ。あそこが通用門だけど…」
「あれじゃないか?もっと手前の、ほらあそこ」
声をひそめながら少年が指差した先は、外壁よりは随分手前の斜面だ。さわさわと風に揺れる草むらに、岩のような影があり、確かに人がうずくまっているようにも見える。
「し、死んでるのかしら…」カーリンのつぶやきに、重い沈黙が落ちる。
私は「まってて」とだけ言って、制止されるまえに駆け出した。幸か不幸か、新参者の私にはいまいち彼女たちの懸念がピンとこない。だから多分、私が行動したほうが話が早いだろう。少し身をかがめ、丈の長い草花に半ば埋もれるようにして駆ける。地面にうずくまっているのは、確かに人だった。上着と帽子に見覚えがある。今日屋敷を出てきたときに、陽気な挨拶をよこした年配の門番のものだ。私はそばにかがみこんで声をかける。
「だいじょうぶ?おじさん」
顔を上げた門番は、頭から血を流していた。思わず額に触れると、血はもう乾いていて、他に傷もなさそうなのでほっとする。
「新入りのお嬢ちゃんか。よかった、ユッテとカーリンは?」
「あっち、馬車いるよ。どうしたの?火がない言ってる」
「大変なことになったんだ。侵入者が…ああ、公子様の支援者をお招きしてるのに…。早くどうにかしないと」
震える声でどもりながら話す門番の言ってることは、残念ながらうまく聞き取れない。仕方ないので、老人を引きずるようにして馬車まで戻る。待ち構えていた三人が、おじさんごと私を馬車の中に引き上げた。
「ばか!あぶないじゃないの」少女二人は小声で私を叱りながらべしべしと尻やら肩やら叩く。やめて凄く痛い。
「お前たち!早く!村へ戻って早馬を頼むんだ。一番近くの駐屯地まで行って、お屋敷に賊が出たと知らせろ!」
「うそ!どういうこと?!ヴィゼグラフル様の配下の護衛隊がいたはずでしょ?」
「護衛隊がいたって、公子様を人質に取られちゃ手も足も出んわ、さあ早く行くぞ」
「分かった、みんな捕まれ!」
皆あくまで声は潜めていたが、少年は鋭い声でいうと、馬の向きを変えるために手綱を引く。私はそこで、門番の胸もとを引き寄せた。
「アドルフはどこ?」
「アド…?ああ公子様は屋敷のなかだ」
「屋敷、どこ?」方向転換のため、馬車がガタンと大きく揺れる。けれども私は相手の上着を掴む手を話さなかった。
「わ、わからんが…わしが最後に見たのは大広間だった。晩餐会の最中に大きな音がして、掃除女が様子を見に行って悲鳴を上げたんで駆けつけた。そうしたら、なんと賊が公子様たちに剣を向けてたんだ。そのあと、賊たちは要求があるとかなんとか言って、大広間にお偉方を全員閉じ込めちまいやがった」
「わかった。ありがとう。助けて呼んでね」
私は動き出した馬車から飛び降りた。両手両足で地面の土を踏み、さっき門番を引っ張ってきた道をとって返す。今度こそ、背後に少女たちの甲高い悲鳴が聞こえたが、無視して両足に力を込めた。
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