第6話 晩餐

「暫くぶりだねドルフ坊や、変わりなさそうじゃないか。噂では、牙と四本の角が生えて、二階建てほどの背丈もある真っ赤な蜥蜴の化け物になったと聞いたけれど?」

 屋敷の主人は、開口一番するどい冗談混じりの挨拶をよこした。俺は笑い混じりに返答する。

「そうであればウェンも俺を探しやすかったと思うのですが。残念なことに地下に篭っていましたので…、この度はヴィゼグラフル元帥閣下にも手間をおかけしました」

「手間というほどではないよ。エンダルハント家の公子を拙宅にお招きする為とあらば多少の下準備は当たり前のことだ」

「こちらこそ、御領地にお招きいただき光栄です。8年ほどぶりでしょうか」

「そうだね、ウェンと君がインタナートへ上がる前だ」

ヴィゼグラフル・ベルホルトは、細身の体躯に洗練された所作が骨の髄まで染み込んだ、一見すると穏やかな老紳士だ。彼の外見から、国防軍元帥である片鱗を見いだすことは大変難しい。肩書の存在を一切感じさせず、彼は屋敷の規模に見合う、素晴らしい造りの執務室の中央で鷹揚に笑って見せた。

「言っておくが、礼はいらない。こっちも打算ずくでね。公子を我が家に招いたとあっては、この屋敷も箔が付くから。客人をお招きして感謝される謂れもない。…ただ、君とはウェンの奴がこんなだった時分からの付き合いだ。私が、己が手で稽古をつけた坊やをむざむざ檻の中で死なすような屑ではないということだけは覚えておいて損はない」

「ではヴィゼグラフルもぜひご承知おき下さい。私はこのご恩を生涯忘れません。今後どのように情勢が変わろうとも、私が命ある限り、決してエンダルハント家はあなたの外套に土をつけません」

「ふむ。それは勿論エンダルハント家次期当主としての言葉かな?」

「はい、そう受け取って頂いて構いません」

 俺がエンダルハント家の当主として正式に認められたのは、3年前のことだ。その後2年ほどは意識すらなかった状態ではあったが、まだ当主交代はされていないことはウェンに確認を取っている。

「そうか。…ウェン、良くやったな。公子をさらってくるとはいい度胸だった」

 満足げな笑いと共に、自分の左隣へ顔を向けた老紳士を、友人の呆れ顔が迎える。

「何をおっしゃいますか伯父上。ウェルミンス公の屋敷の場所を片っ端から間諜に探らせていたのは他ならぬ伯父上ですが」

「お前こそ何をいうのかね?全ては友人思いのお前の暴走だ。病に倒れた友人を一目見舞おうと、方々に訪ねて回った若者の浅慮がまぐれ当たり。折良く病が快癒したと聞いて公の御陵屋敷へ駆けつけ、再会を喜びついでに周りの者が止めるのも聞かず故郷へ送り届けることにした。…というのが大雑把な筋書きだから覚えておくように」

 自分より頭一つ分低い場所から笑顔で睨めつけられて、ウェンが苦虫を噛み潰したような顔になる。ウェンがこの世で唯一、頭の上がらない存在がこの伯父だ。

「私の為に、色々と迷惑をかけます」

「くどいね、君はただの客人だよ。それも病み上がりの。しかし本当に顔色がよくないな。しばらくーーと言っても七日ほどだが、その間は拙宅で静養に専念しなさい。私は数刻後にここを立つが、屋敷の采配はアニエラという女に任せている。先代の御代に、城の女官長補佐をしていた逸材でね。山奥にある屋敷とは思えないほど居心地がいいことは保証するよ。護衛も一個小隊残していく。もし体が回復したら、稽古の相手でもしてなまった体を叩き直すことだね」

「あー伯父上、俺はどうします?」

「この一件、しばらくはお前の独断行為で通す。部下の一人に公子役をさせて、明朝出立し、エンダルハント公家の領地へ向かいなさい。あちらに着いた後の身の処し方は追って知らせる。道中、せいぜい助けた公子の病気が回復したことを言いふらしてくるように」

 ウェンが嫌そうに顔を歪ませ、伯父の前だということを思い出してすぐに姿勢を正す。「かしこまりました。明日出立致します」作法通りの一礼する姿は、様になっているとはいえなくもなかったが、伯父が退出すると、途端に不満を隠そうともせず、どかりと俺の向かいの長椅子に腰を下ろす。

「あー全く。伯父上殿の手のひらで踊った気になる」

「実際そうだろうな。助けてもらっておいて悪いが」

「…まあいいさ。とにかく、事がうまく運んでることを喜ぼう。俺がお前を連れてエンダルハントに向かっていると周囲に思い込ませている時間の分だけ、伯父上が策略を巡らせる猶予ができるしな。せいぜい優雅に踊ってみせるさ」

 ウェンは大げさにため息をついてみせたが、目元が笑っている。どうやら、不満の半分ほどはただの建前らしい。

 古い友人の一人であるウェンは、代々軍部の高官を務める血筋の出だ。公家から降嫁した祖母を持つため、傍系ながら公族の血も流れている。おまけに同じ年に生まれたものだから、子供の頃から何かと顔を合わせる機会が多かった。そして、特権階級の子息が11になると入れられるインタナートに入る前の二年間、ウェンの伯父であるエンダルハントの元で一緒に、紳士の仮面の下に隠された鬼教官の、地獄のしごきを受けた仲間でもある。

「悪いな。時間稼ぎをよろしく頼む。俺もできるだけ早く実権を取り戻すつもりだ」

 二年のブランクは長い。現状の自分の立場や他の公家の状況を早く掴む必要があった。幸い、ヴィゼグラフルの名を借りれば、知りたい情報を得るのは難しくないだろう。

「ところで伯父上には病状の件の本当のところ、黙っておいてよかったのか?」

 道中、ウェンには自分の身に起きたことを正直に話していた。今となっては証明のしようもないが、実際に化け物のような姿だったこと。そして今朝突然に元どおりになったことなどをだ。俺は首を横に振った。

「3年前、俺の姿が実際に変わったのを目にした人間は一握りだ。母上が俺の状態を知ってからは医者と限られた人間にしか俺を会わせなかった。その後、ウェルミンス公の屋敷でも俺は使用人にすら避けられていた。俺の姿が元どおりになった今、俺が化け物だったことを知る人間はごくわずか。これを利用したい」

 幸い世間では、ヴィゼグラフルの言うように突拍子もない噂がたっている。これを丸ごと信じる人間はそういない。そこへ自分がなんの変哲もない姿を見せて証明すれば自然と、俺の異常な状態は単なる病による大げさな噂だったことに落ち着くだろう。

「俺があのまま死んでいたらそれで済んでいたかもしれないが、幸か不幸か、こうして生きて昔の体を取り戻した。こうなった以上、俺も生き延びるためにそれなりの対策を取らざるを得ない。公子にまつわる呪いの噂は不都合だ。公家のものほど迷信深いからな」

「確かに、後から『呪い持ちの公子は不吉だ』なんていう難癖はつけられたくないもんだ。できれば、『公子は奇病をわずらったものの全快。継承権と公家の存続には何の弊害もない』という方向に持っていきたいな」

「そのためには、真実を知る者は少ない方がいい。当時の目撃者は、ほとんど母上の手の内だから問題はない。あとはウェルミンス家にどれだけ把握されているかだが…」

 自分があの地下牢に移される直前からの記憶はない。ただ、トーコから聞き出した様子からすると、医者を除けば少なくとも数名の使用人以外は地下牢に立ち入る様子もなかったようだ。一番ひどい状態だった時は、使用人でさえ近寄らなかったのだから、公本人どころか家人でさえあの地下牢に訪れたか怪しい。

「世にも恐ろしい呪いも、奇跡のような回復も、凄すぎると逆に信憑性が薄れるものだ」

 呪いでも病でも、俺にとっては自分の身に起きている地獄に変わりはなかった。だが、俺の公族としての失脚を望んでいる人間にとっては、出来るだけ外聞の悪い説を取りたいところだろう。この国では、公族に関する古い迷信が多く、根強い

「で、実際のところはどうなんだ?お前の考えは?」

「正直なところ、当事者からしてみたら呪いと奇跡のほうがしっくりくる。自分の体の変わりようには、何かしらの力が働いたとしか思えない。たった一晩で、ほぼ全て元どおりだぞ」

「ふうん。まあ何にせよ、俺もお前の考えには賛成だ。呪いだなんだと敵側に騒がせるよりはずっといい。現実主義者の伯父上は、そもそも話したところで信じなさそうだ。それに、俺は結局、2年前にお前におかしなことが起きたとき、その場にいなかったからな。鬼になったお前を知らない。あのとき知らせを聞いて、二ヶ月もたってからやっとエンダルハント公領へ入れたが、感染症だからとお前のご母堂に会わせてもらえなかったしな。で、こうして目の前にいるお前は、少々萎びてはいるが他はどこも変わりない」

「命拾いしたな。少し前の俺に会っていたらあまりの怖さに泣いたんじゃないか」

「馬鹿者、ゲルスター家に臆病者はいない。弟のラファエルの除けばな。アレは腰抜けだ。逆にだ、不本意ながら美しいご婦人を泣かせる事は多々あるが」

「お前、いつもの調子が戻ってきたみたいだな」

 地下牢で久しぶりに顔を合わせたウェンデルの表情から憤りが徐々に消え、慣れ親しんだ不遜な態度が戻ったことに、何とも言えず、ただ有り難さのようなものを感じた。多少はこいつも、古い付き合いの友人の処遇に憤ってくれていたのだろう。改めて礼を言うべきか、それとも調子に乗りそうなのでやめておくべきか迷っていると、執務室の扉が控えめにノックされた。

 ノックの後に現れた、ヴィゼグラフルのお墨付きの元女官長補佐アニエラは、侍女の鏡のような所作で膝を折った。地味ながらきっちりと施された化粧で年の頃は定かではないが、きびきびとした動きは老いを全く感じさせない。

「ご紹介に預かりましたアニエラと申します。殿下、この度は大変なご処遇でお過ごしになられたと伺っております。私が当邸での一切を任されておりますので、ご入用のものは何なりとお申し付けください。」

「ありがとう。どうか頼みます」

「では早速失礼いたします。アドルフ様には当邸の南棟2階のお部屋をご準備させていただきました。また、お身体の診察には当家に仕えますドクトル・ミレイがお伺いいたします。それと、側仕えのご希望はございますでしょうか。大変申し訳ないことですが、我が屋敷は主人の休暇用の仮住まいでございますため、最低限の従僕しかおりません。男手が足りませんので侍女をつけさせていただければと存じますが」

 側仕えと聞いて自然とトーコの顔が浮かんだ。自分が、ここでも同じようにトーコにお茶を入れてもらうつもりだったのかと思い至って、ふとおかしくなる。

 自分はもうあの姿ではない。腐臭と醜い姿がなければ、使用人が公族への給仕を嫌がるわけもない。まだ体調は万全ではないが、医者もいることだ。トーコに身の回りの世話を頼む必要もない。

「ああ、構わない。急な滞在で申し訳ない。特に側仕えを決めなくていい。その都度手の空いているものを寄越してくれ」

「ありがとうございます。それでは、そのように。また、ウェンデル様は明日の朝出立とのことですので、本日はご夕食をお二人ともご一緒にご用意してよろしいでしょうか?」

「もちろんだアニエラ。それと晩餐の前に、着替えを頼むよ」ウェンがアニエラに微笑みかける。ウェンは女性相手には笑顔を惜しまない。だが優秀な使用人の方は、不必要な愛想笑いはしないとみえた。

「かしこまりました。すぐにユッテをお部屋に向かわせます。アドルフ様は晩餐の前にご診察をよろしいでしょうか」

「頼むよ。ああ、そうだ晩餐にはトーコも呼んでくれ」

「ト……本日お連れになったお嬢様もご一緒に晩餐を?」

 トーコの事は、最初にウェンからヴィゼグラフルにも話が通っている。先日熱を出したこともあるから、話し合いの間は客間で休ませて貰えるよう頼んでおいたので、今頃は暇を持て余しているかもしれなかった。

「ああ、彼女の席も用意して欲しい。それと彼女は先日熱を出したんだ。俺と一緒にミレイ医師の診察も頼みたい」

「はい、かしこまりました。それではお部屋にご案内いたします」

 アニエラは一瞬だけ思案するように視線をずらしたが、すぐに慎ましやかに目を伏せてお辞儀した。部屋に案内される途中、ウェンが「あまりアニエラを困らせるなよ」と言い置いて自分の部屋に向かったが、一体何のことか見当もつかなかったため、問い返す機会を逸した。

 また、てっきりトーコと一緒に診察を受けると思っていた俺は、早々に部屋に現れた医師が俺の体をひとしきり見聞したあとで、これからトーコの元へ向かうと聞いて肩透かしを食らったような気になった。先にトーコを診てくれと言えば良かったのに何をやってるんだ俺は、と反省する。

 当然、外国人の身元不明の子供より、公子である自分が優先されるに決まっている。次からは気をつけようと心に刻み、着替えの手伝いに来た侍女に、晩餐の時にトーコの容体を教えてくれと頼んだ。

 年配の侍女は、慣れた様子であっという間に晩餐用の礼装を俺に着せ終える。さすが別荘といえどヴィゼグラフルの屋敷に仕えるだけはある。俺は関心しながら礼を述べ、時間より早めに部屋を出た。



「アドルフ!」

晩餐用のホールに、子供の声が響く。自分の声が思いの外大きくなったことに驚いて、トーコはぱっと口を抑えてから俺の側へ駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、トーコ、声、大きい、だめ」

「大丈夫だ。気にするな。服、よく似合ってるよ」

 トーコも、屋敷の優秀な使用人に着せ替えさせられたようだ。丈の長い深緑のドレスに黒の羽織を身につけ、髪を高いところで纏めている。いつもの格好より二つ三つは年が上に見えた。

「服?これ、かわいい」

 トーコはスカートを摘み、ドレスそのものへの感想を述べたが、もちろん、本人込みで可愛らしい姿だった。外見が少し大人びて見える分、華奢な体つきが強調される。

「おや、さっきのお嬢ちゃん。見違えたね」もう一人もめかし込んで来た。賞賛してくれるご婦人も居ないのに良くやる、と呆れる。身につけているのは、祝賀式の正晩餐会にでも通用するような夜会服。結わえた髪は、毛先のひと束ひと束まで念入りに磨いてきたような艶だ。

「あ、うえーん」

「ウェンだ。君さ、アドルフはかなり正確に言えてるのに何で俺の名前はそんな珍妙になるんだ」

「馬鹿を言うな俺だってまともな呼び方になるまで一ヶ月はかかった」

「何故自慢げなんだ」

「うえーん、すてきー、きらきら」

 トーコが見上げたウェンの夜会服には、肩や腰の部分に繻子を縫い付けた装飾があしらわれていた。真紅の繻子が、部屋の灯りをたっぷりと含んで照り返す様子にトーコは喜んだらしい。あくまで服を褒めただけだが、ウェンはその賛辞に気を良くし、あっさりと名前への執着を捨ててトーコを席までエスコートした。現金なやつだ。

 晩餐の内容は文句なしに素晴らしかった。俺は量をあまり取れなかったが、その代わり二人の食べっぷりは見事なものだった。トーコはずっと「おいしい」を連発しており、ウェンは「暫くはお前の命を狙う奴らと鬼ごっこだ。次はいつまともな食事がとれるか分からないだろうが」と、給仕の差し出す深皿から山のような料理を取り分ける。それを見て、トーコが再び目を輝かせた。

「すごい、うえーん。いっぱい、たべり」

「トーコもおかわりが欲しいか?」

「はい、します!」

給仕はトーコが自分で取り分けられなさそうだとみて、彼女の皿の上に暖かな一口大のパイを二つ追加した。トーコは「ありがとう」と律儀にお礼をする。従僕は困ったように頭を下げて後ろへさがった。

 その様子を横目で眺めてから、ウェンが手元のナイフに目線を落として口を開く。

「で、この子はどうするんだ。まさか連れて行くとは言わないよな」

 わざとだろう。ウェンは行儀悪く肉を咀嚼しながら、不明瞭に話す。

「連れて行く。当たり前だろ。ここに置いて行くわけにはいかない」

俺も、何気ない会話を装いながら、トーコに聞き取れないような早口で返した。幸いトーコはパイにかぶりつくのに夢中だ。

「何でだ?伯父上が、侍女見習いの一人くらい余計に雇えないとでも?」

「違う。俺はト…彼女を使用人にするつもりであそこから連れ出した訳じゃない」

「じゃあどうするんだ。その年で養女にでも取るか?それとも何処かの分家に嫁がせる?」

「何言ってる、説明したはずだ。あの子には世話になったから恩返しをしたいんだ。もちろん、トーコは教育さえ受ければ、侍女見習いとしても立派にやっていける。トーコが仕事を得たいなら、確かなところへ口利きもする。だが何よりもまず言葉が話せなければどうにもならない。まずはこちらの言葉を習得させて、きちんとトーコの要望を聞く。すべてはそれからだ」

「じゃあ何か。お前は自分の首が危ういときに、この子に淑女並みの教育を受けさせようとしてるわけか?ドルフ、世話になったのは分かるが、それなら今までの働きに十分な礼金をやって、どこかの縁故へ奉公にだしてやるのが一番じゃないか?」

 自分と友人の間で、トーコに対する意識が違うことに気づいた俺は、もどかしさに唇を噛む。いや、実際のところ、気づいてはいたのだ。外国人であるトーコに対する反応は、アニエラや他の使用人も同じだ。無論彼らは立派な奉公人として、ウェンのようにあからさまな反論などしないが。

「あー、ドルフ?」ウェンが下唇を人差し指でしきりこすりながら口を開いた。言いづらいことを口にする時の癖だ。

「お前が、あのお嬢ちゃんに恩義を感じてるのは分かるし、礼をしたいのは当然だと思うが。…あの子は身寄りのない外国人だ。分かってるだろ。ここでならまだしも、お前の領地に連れ帰るのは、少々よろしくない。単なる、『お気に入りの侍女』ならともかくな」

 もっともな言い分だ、とは理解できた。確かに外聞は悪い。

 外周国から入国してくる平民は出稼ぎの労働者がほとんどであり、そのような者は普通奉公人としては雇い入れない。ましてや小さな女の子だ。例えばこの屋敷で、俺とトーコが今まで通り、同じ部屋で寝泊まりして過ごし始めたら、とんでもない噂になるに違いなかった。それでも、ここでトーコをわずかばかりの礼金とともに放り出すというのは、俺にはとうてい頷けない選択肢だ。

 理解されないことは分かっている。今や俺は健康体だし、トーコは言葉の拙いまるきりの子供に見えるだろう。いくら俺がトーコに助けられたのだと主張しても、他の人間には、実際のところなど到底理解できないに違いない。

 死んだような日々の中で、あの小さな子供の存在がどれだけ救いになったのか。自分でもおぞましいと思うような体に、優しく触れてもらうときの、いたたまれなさと感動などきっと理解できる人間のほうが少ない。

「これは譲れない。俺はトーコに必要な教育と待遇を与えるまでは、彼女をどこへもやらない。多少外聞が悪かろうが、俺はあの子を連れて行く」

 ウェンの眉が顰められる。窮地を救ってくれた友人に対して。我ながら自分勝手な物言いだと呆れながら、俺は言葉を続けた。

「だが、お前の忠告はありがたく聞いておく。俺はトーコと極力距離を置く。ここに滞在する間も、会わないようにする。当然、領地に帰還した後もだ。そもそも、我が家に戻ればやることは山積みだから、会う暇なんかないだろうけどな」

「ま、そりゃそうだな」

「それに、確かに侍女としての教育も身につけておいて損はない。こちらに居る間は、言葉を教えたり侍女見習いの仕事を教えてもらえるよう、アニエラに頼むとするよ。やることがあればトーコも退屈しないだろうしな」

 何にせよ、あまり自分の近くにトーコを置いておくのも、彼女にとっては安全ではない。それならば確かに、友人の言う通り、外聞の悪くならない程度に距離を取ったほうが得策だ。

 ウェンは俺の言葉を聞くと、満足げに笑い、グラスを取って琥珀色の液体を揺らした。

「物分かりのいい友人で助かることだ。ところでエンダルハントの公子様?とりあえず今夜だけは目をつむるから、あそこの眠り姫さんをベッドまで運んでやってはどうかな?」

そう言って、愉快そうに指さす先には、まだパイのかけらをさしたフォークを片手に、椅子の上で舟を漕ぐなんともあどけない寝顔があった。



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