第5話 新しい住処
鉄格子の向こうの廊下の奥に、人の気配がする。気づいて顔を上げた私の耳が、くぐもった声を拾う。それは、複数の人間が、大きな声でやりとりしている様子に聞こえた。
また誰かが、アドルフの奇跡っぷりを見物しにやってきたのだろうか。私は飲みかけのカップを置いて隣を見る。何度見ても見慣れない、きれいな横顔がそこにある。象牙を思わせる肌と整った顔立ちは、私の記憶にあるものとは違いすぎて、正直まだ見るたび戸惑う。かろうじて面影を残すのは、左目のわずかな濁りと動きの鈍さだ。医者と本人の話によると、どうやら左目だけは完璧に治ったというわけではなく、多少の障害が残るらしい。とはいえ十分に美青年といっていい顔立ちを、扉の方を見据えたアドルフがぐっと顰めた。
「何だ?」
アドルフの呟きと同時に、勢いよく扉の開く音が重なり、忙しない足音が続く。いつもとはずいぶん違う雰囲気だ。
「アドルフ!!無事か!!」発せられた大きな声に、私はすくみ上った。そんな大きな声をださなくても、と恨みがましく廊下を見れば、見知らぬ青年がこちらに向かって仁王立ちしていた。
なんだか偉そうな子だな。というのが、最初の感想だ。ふんわりと流れる明るい金髪と深緑の瞳をした美形が貴公子然とした服着て、背後に剣を下げた制服の一団引き連れて立ってたら、そりゃどのこ王子様ですか、という感じだもの。今日は来る人来る人、鳩が豆鉄砲を食ったような顔して固まる日だけど、さてこの子はアドルフを見てどんな反応なのかな、と待ってたら、私の視界に、アドルフの背中が割り込んだ。
「ウェン?」怪訝そうなアドルフの声。
「お前!本当に治ったのか!!…おい!鍵をかけてるのか?早く開けろ!」
金髪君は、アドルフの変化に驚くのもそこそこに、背後の取り巻きの隙間を塗って、遅れて姿を表した禿頭の使用人を叱りつけた。鍵を開けさせるつもりらしい。
「お待ちくださいませ!只今、お開けします!」
「さっさとせんか」
「はいツ只今!!開きました中にお入り下さい!!また、お出になる時はおしゃっていただければお開けいたしま」
ここで金髪君のお上品な緑色の瞳が、若いやくざみたいな勢いでひん剥かれた。
「ふざけたことを抜かすなよ。俺も牢へ入れるつもりか?」
「めっ、めっそうもない!ただ、アドルフ様はご病気ですから、その、ここからお出しはできないと家宰がっ…」
「病気だと?こいつをもう一度よく見てみたらどうだ?一体こいつのどこが悪い?」
「それはその、今は元どおりには見えますが本当に昨日までは酷い有様」
「鍵を開けて口を閉じてろ」
地の底を這う声を聞き、いい年をした使用人は目に涙をためた。
(アッ、この人リアルに王子様だわ。絶対お偉いさんの息子だわ。禿頭を見下ろす目が塵屑を見る目だもん。)私は確信した。ちなみに、その禿頭はアドルフが意識を取り戻す前に、散々私を怒鳴り散らしていた使用人の一人なので同情はしない。
音を立てて鉄格子の扉が開くと、滑り込むようにして金髪君が入ってきた。アドルフよりさらに背が高い。見上げると首痛かった。
「ちょっと待て、一体どうしたウェンデル」
「どうしたもこうしたもあるか!お前の行方が一年以上掴めなかった。どいつもこいつも口を揃えてお前の居場所が分からないと言う。お前のご母堂に尋ねたら、ウェルミンス公に預けたとおっしゃるじゃないか。何をばかなことをと思ったが、まさかと思い屋敷を片っ端から当たってみたらどうだ!こんなところにぶち込まれていたとは!」
「落ち着け。お前らしくもない…本当にお前ウェンか?」
「普段の俺は十分落ち着いているとも。お前がこんなところに監禁されてさえいなければな!さあ、とっとと出るぞ」
金髪のハンサム君は、アドルフの襟元を掴んで外へと引っ立てていく。なんてことだ、金髪君はアドルフをここから連れ出してくれるらしい。その事に気づいて私は飛び上がって喜びたい気分だった。しかし、一歩廊下に踏み出したところでアドルフが足を止める。
「待て」
「何だ!?」
「いや、正直これ以上ないくらい良い頃合いではあるんだが…こんなことして大丈夫かお前。」
「大丈夫もクソもない。言っておくが、俺の心配をしてる暇なんかないからな。近頃のお前のご母堂とウェルミンス公の仲むつまじさを知ってるか?息子を治療してもらっている間柄であるからと、お優しいお母上は公への後ろ盾も堂々と表明していらっしゃるぞ。」
「後援とは…議会でもか」
「もちろんだとも!ウェルミンス、エンダルハント両家が足並みを揃え、南方の勢力をまとめて今や議席の半数を占めた。今冬には公子選定のやり直しが決定された。」
「そうか…想定内だが、最悪だな」
私は二人のやりとりの半分も分からない。ただ、アドルフから焦ったような様子が消えた。ついで、落胆を思わせるため息が一つ。すると、金髪も安心したように表情をゆるめる。
「ああ、理解したか?そうだ、俺がほんの少しばかり無茶することの方が、よっぽど上策なんだよ。何より、選定結果が覆るなら、お前はここからさっさとおさらばするべきだ。安心しろ、表向きの筋書きは整えてある。後はお前を連れて、伯父貴の御領地まで向かうだけだ」
「わかった」
ああもう、何を話してるんだろう。
私はやきもきしながら背後から二人を見守っていた。二人は年頃も同じようだし、アドルフの金髪君にする態度ときたら、よそよそしさのかけらもない。こんなに気取らないようすのアドルフは初めてだ。それに、どうやら互いの間で話も纏まったように見受けられる。
(どうするのかな。というか二人とも、さっきから周りに群がる使用人達をガン無視しているけどいいのかな…)
金髪君に手酷く叱られて泣かされた使用人以外にも、金髪君とその部下を制止しようとしたり外へ出そうと頑張っていた者たちがいるのだが、全員が揃って無視されていた。見たところ、金髪君の身分が高いか何かで強気に出れないらしい。いつもなら、私に対してとんでもない上から目線の使用人たちが、もじもじおずおずと金髪君とその強面の部下に何かを申し出てはガン無視されている様子は、清々しいを通り越して哀れである。
私はどこぞの王子様風情のある金髪君に向かって、「アドルフ連れていくならもう抱え上げてでもなんでもいいから連れてってあげてー。私もその隙に逃げるからー」と念じ初めた。パワーバランスでは勝っているようだから大丈夫だろう。私自身も、千載一遇のチャンスである。アドルフが無事に解放さえされれば、あとはいつでも逃げ出すつもりでいた。
祈りが通じたか、金髪君に続いてアドルフが鉄格子から外へ出た。やった。私も逃げ出す準備をするため、そーっと腰を低くして使用人達の目から隠れんとする。ところが、外へ向かって一歩踏み出したアドルフが、間髪入れずに背後を振り向いた。
「行くぞ」
手のひらが、私の目の前に差し出される。
(はい?)
そりゃ、連れてってもらえたらと、心の隅では思っていた。
この世界には他に知り合いもいないし、ここを出たとして行くあてもない。でも、いざ出ていくとなったとき、こんなに当たり前のように手を差し出されるとは思わなかった。
だって、私はアドルフとたった数ヶ月一緒に暮らしただけだ。
しかも、別に望まれたわけではなくて、ただたまたま放り込まれただけ。何処かの誰かが、この地下牢を掃除させるのに十分だっただけ。
「トーコ」今度は不思議そうに名前を呼ばれて、どうしたら良いか分からなくなって、私はこの世界の居場所を振り返る。見慣れた地下牢。
ここ以外なら、アドルフにはたくさんお世話してくれる人や家族や友人がいる。この金髪君もそうだ。この地下牢以外なら、アドルフには私以外のたくさんの味方がいる。
「トーコ、どうした」急に、足がすくんだ。
私がアドルフの味方なんだという、自負みたいなものがあった。この地下牢の中であれば、私はアドルフの唯一で最大の味方であると、堂々と言えた。この小さな世界でなら、アドルフの手を取ることができた。
でも、外に出たら。私はアドルフの足手まといに違いなかった。米粒ほどの戦力にもなりはしない。掃除できるだけの子供の私が必要なわけがない。
なんて答えよう。
考えが纏まらないままアドルフを見上げると、彼は突然腑に落ちたように頷いた。
「ああ、荷物か。取ってこい。ノートだろ」
ノート、と言われてはっとした。あれは大切だ。アドルフに習ったことがたくさん書いてある。どういう身の振り方をするにせよ、絶対に必要だ。私は急いで自分のベッドに飛んでいき、シーツのしたから三冊のノートを取り出した。ペンもまとめて紐でくくってある。
ほっとした思いで私がノートを抱きしめて、アドルフに持ってきたことを見せようとすると、アドルフはそのまま私の肩に手を回して、あっさりと地下牢から押し出した。
後はもう、周りの使用人が懇願しながら押しとどめようするのを、金髪君とその部下たちがちぎっては投げちぎっては投げ、という具合だ。
私たちはものの数分で、地上に出て立派な馬車に乗り込み、住み慣れた地下牢を後にしていた。
「俺は、ウェンデルだ」
「うえんるる、こんちには。」
「ああ惜しい。ウェンデル、だ」
「うえんへる?」
「お前の名前の発音は、トーコには無理だ。トーコ、ウェンでいいぞ」
「えーえん。私、トーコ。一緒、行く、ありがとう」
「俺の高貴な名前が随分と珍妙に」
ごとごとと揺れる馬車は、使用人たちの阿鼻叫喚を後にして、今はのどかな田園風景の中を進んでいた。両側の窓には分厚いカーテンが降りていたが、そっと隙間から覗くと、騎乗した十人ほどの部下の人たちと、目に眩しい緑が広がっていて、今が暖かい季節なのだとわかった。
わざわざ自己紹介してくれた金髪君はウェン、という名前らしい。
ちなみに、アドルフやウェンというのは、あくまで私が聞き取れた音であって、実際の名前とあっているかどうかは不明だ。そして私の発音で相手にどう聞こえているかは永遠の謎だ。名前の綴りなら理解できるが、いかんせんこちらの言葉は発音がひどく難しい。あえて言うならフランス語とドイツ語をごちゃ混ぜにしたような…。つまりは日本人の声帯には荷が重い。伴って、聴き取りも困難というわけ。
ウェンは自分の名前の発音が気に入らないらしく、何度かやり直しを要求した。私もさすがに恩人の名前ぐらいはちゃんと覚えようと思い、必死にリピートアフターミーを繰り返したが、そのうちアドルフが怒り出し、ウェンを睨みつけて黙らせた。ほんと申し訳ない。
「…ごめんね、うえーん」
「いやもういい。気にするな」
私との会話に疲れたらしく、ウェンは再びアドルフと話をし始めた。二人とも暫く顔を合わせてなかったんだろう。時々喧嘩腰のように会話が白熱しているけれど、アドルフの顔つきは始終嬉しそうだった。
よかったなあ。
ほこほことする胸をノートごとぎゅっと抱き、深く息を吸い込む。扉越しでも、久しぶりの外の匂いがおいしかった。カーテンのせいで外の景色は見えないが、柔らかい日差しの熱や、雑多な物音は久しぶりの感覚だ。がたがたと続く振動を背中のクッション越しに感じていると、いつのまにか眠気がやってくる。昼間に眠くなるのも久しぶりだ。
地下牢では、こんなに心地よいお日様の温かさとは無縁だったからなあ。それに、いつアドルフの具合が悪くなるか分からなくて。あそこに居たのは私ひとりだったから。呼んでも誰か来る保証は無かったし。
そういえば昔、あんな風に余裕がなかった時期があった。うっすらとした記憶だが確かに、いつもいつもやらなきゃいけないことがあって、余裕がなくて。死ぬようなことじゃないけど、たくさん心に擦り傷ができ続けるような気分が。そういえばあったなあ。考えていくうちに、とろとろとまぶたが落ちてくる。どこまで行くのか知らないが、馬車での旅が暫く続くのなら、少し寝てしまおう。
そう思いつくが早いか、私はあっさり眠りに落ちてしまった。
目が覚めると、馬車のカーテンが開け放たれていた。
オレンジ色の夕日が斜めに差し込み、高い木々とレンガ作りの壁が時折影を作る。馬車を引く馬がいなないて歩みを止め、部下の馬たちもそれに続いた。身を乗り出してあたりを窺うと、なんとも立派なお屋敷の正門に馬車が乗り付けたらしいとわかる。
これまで居たところも、偉い人の屋敷だったらしいが、眺める時間もなかったので金持ちそうだ、という感想しかない。それに引き換え、気持ちのよい風を頬に受けながら見上げる、蔦の這う石造りの年代物の建築物は、物語の一幕のように心踊る景色だった。
「アドルフ、おうち、きれい」ああせめて『おもむきのあるお城』とか言いたいけど。貧弱な語彙力でもいいからこの感動を伝えたくて、私はアドルフの目線を窓の外へ誘った。ウェンは一足先に馬車を降りてしまったらしく、私は彼が座っていたアドルフの向かいの席に陣取る。アドルフの目元がきゅっとすぼんだ。
「ああ、ここはウェンの伯父であるヴィゼグラフル・ベルホルトの私邸…家だ。しばらくはここに住む」
「ほんと?ここ住む?いっしょ?」
「ああ」
「アドルフ、かぞく、いっしょ?」
「いいや、家族はいない。だが、ヴィゼグラフル・ベルホルトは信頼できる。…いい人だ。心配ないからな」
ふむ。その、舌を噛みそうな名前の人が親切な人なんだね?でここに私も込みで住まわせてくれると。おっけ、大雑把に理解した。
私は何一つしたわけじゃないけど、どこぞの親切な人や王子様くんのおかげで、アドルフがこんなに安心したような顔で笑うから、いいようもなく満足した気持ちでいっぱいだ。
緩みきった気持ちのままにやにやしていると、馬車の扉が外から開かれた。アドルフが先に降り、振り返って私の手を取る。その手を遠慮なく握って、私はまた新しい状況に足を踏み出した。
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