第4話 決意
まだ室内は薄暗かった。
夜も明けやらぬうちから目が覚めた理由は分かりきっている。俺は、目覚めの余韻が冷めるのも待たずベッドから身を起こし、衝立ふたつ向こうを確認する。最初に、小ぶりなベッドの端から覗く爪先、ついで、心地好さそうに眠る横顔が視界に入った。
昨日とは見違えた顔色の良さに、俺は思わず息を吐く。
トーコが熱を出して倒れた時、正直血の気が引いた。
ひどく熱い小さな身体を抱え、久しく自分でも聞いたことのないような声で助けを呼び、医者を連れて来いと叫んだ。そしてようやく迷惑げに現れた医者を、ひと睨みして診察させたあたりで、自分の手の細い震えに気がついた。
感染るわけがない。
そう、頭では分かっていた。俺の病は誰にも感染したりはしない。俺はそのことを良くわかっている。
俺が倒れたのは、母の屋敷の応接間だった。客人が幾人もいた。母親も。その後意識がなくなるまでの数週間、俺の姿を見て悲鳴を上げ、呪いだ化け物だとわめく者なら大勢いたが、同じように異形になったものはなかった。医者や使用人が根拠にしているのは、異形の姿になった俺をここへ留めておくための方便だと、とっくに見抜いている。
にも関わらず、トーコが目の前で倒れた時、背筋が凍る思いがした。トーコの細い腕や喉に、自分と同じものが現れはしないかと、気がつけば凝視していた。医者が大したことはないと念を押して帰り、使用人に作らせた氷嚢を額に乗せてやりながら、ずっとトーコから目が離せなかった。おかげで、日が暮れたころには、病み上がりである自分の体力の方が続かなくなり、トーコの熱が引いたのを確認してからベッドに戻った。
我ながら情けない。
(トーコの足元にも及ばない)
あんなに小さな子供が出来たことが、自分には出来ない。病み上がりだからなんだというのか。あの子供より、自分はずっと大きな図体をしているくせに。
トーコが朝も夜も何ヶ月も、俺に対してしてくれたことが、自分には出来ない。そう自覚しながら眠りについた数時間前の悔しさに、トーコの寝顔が重なる。
寝息を聴きながら、あてのない思考が頭の中を巡った。
(ここを出るべきか。せめてトーコにも、もう少し良い環境を用意できないか。だが、できるだろうか。一族の中にはまだ、俺の味方になる人間はいるだろうか。それを見定めるにしても、せめて外の情勢を知る必要がある。たとえ使用人を抱き込めたとしても、どこに助力を求めるかが重要だ…)
この国には12の公家が存在する。公家とは、国の創始から続く血筋を持つ一族であり、慣例として代々の当主が元老院の議員を務めることになっている。つまり、千年間の長きにわたり国の中枢に君臨し続けてきた特権階級というわけだ。
そしてその一員としてエンダルハント家に生まれた俺自身も当然、ゆくゆくは家督を継ぎ、国の行く末に関わるはずだった。
二年前のあの時までは。
いまや変わり果てた姿の俺が、ここを出たとして、得られるものは一つもない。もはや己に公族としての価値はなく、この姿では平民としての普通の暮らしさえ望めない。この部屋で一生を終えられるだけでもマシだと諦めていた。血脈を大事とする一族。その当主として「公子」の称号を得た人間が、まるで鬼のような見るも無残な有様に成り果てたという出来事は、それだけの一大事だ。
突然の出来事で、一族も隠蔽などできなかった。母親はあの医者のように「悪い病気にかかったのだ」と涙を流していたが、それを信じる人間は少なかっただろう。
(対外的には特殊な病だと説明するに決まっているが…さて、俺のこの有様を見ても援助してくれるのは誰かな…)
あの時。苦しみのたうちまわる自分に向かって、悪鬼だ化け物だと泡を飛ばして叫んだ奴らの顔が脳裏に浮かぶ。当時を思い起こし、憎しみほど強くはないが諦めと呼ぶにはざらついた気持ちで、俺は醜い自分の腕を目の前に掲げて悪態をつこうとし、そして目を疑った。
「なんだこれは」
間抜けな問いが自分の口から溢れる。
目にした光景がにわかに信じられなかった。おそるおそる、自分の腕をそろりと撫でる。
指先が、久しく感じたことのない肌のなめらかな感触を味わう。
毛布を吹き飛ばし、身体中を見聞する。腹、足、肩、どこにもあの忌まわしい鬼と呼ばれた色がない。
喜びよりも、困惑が上回った。一朝一夕に治るようなものではないはずだ。確かに、一番酷い状態の時より回復はしていた。だが、相変わらず引き攣れた皮膚には産毛の一本も生えず、生えてくる爪は真っ白で生気がなかった。それなのに今、全身のどこに目を凝らしても見えるのは、いたって変哲のない、少しだけ肉の落ちた人間の体だ。
一体何が起きた。昨夜、眠る前は何も変わっていなかった。疲れ果てて眠りに落ちる直前も、俺の爛れた肌は、シーツと擦れていつも通りの尖った痛みを伝えていた。
まさか、一晩だと思っていた眠りが、数年でも経過したのだろうか。いや、そんなわけがない。トーコが熱で倒れたところから、記憶の辻褄があうはずだ。そうだ。
「トーコ」
ぽろりと名が出た。つぶやいてから、俺は気配に気づく。無意識に呼んだ相手が、寝起き姿で立っていた。
俺の動揺を上回るほどの驚きが、如実に少女の表情に現れている。ぽかんと口を開き、片手にシーツを掴んだままベッドの上に立ち、こちらを凝視して動かない。
お互いの視線がぶつかったが、それでも言葉が出てこなかった。
長いとも早いともつかない沈黙が流れ、先に口火を切ったのはトーコの方だった。
悲鳴まじりにトーコの口から飛び出すのは母国語ばかりだ。
俺にはわからない言葉を、うわ言のように呟き、ベッドから飛び降りる。焦げ茶色の瞳は一心に俺を見つめたまま、洗面台や衝立をひっくり返して、こけつまろびつこちらへ駆け寄り、そのまま抱きついてきた。
ほのかな汗のにおいと、やわらかくて軽い体を、明瞭になった感覚で味わう。耳もとで、ぐずぐずと鼻水をすする音を聴きながら、俺は小さな体をそっと抱き返した。ひときわ大きくなった泣き声に、ふと心が軽くなる。たとえこれが二人一緒に見ているまぼろしだろうと、トーコが喜ぶならそれでいい。そう単純に思えた。
間抜け顔は、そろそろ見飽きた。
俺の目の前では、また一人、初めて見る顔の男が、俺の姿を前に言葉を忘れて固まった。
朝食を運んできた二人組の女中、彼女達の悲鳴を聞きつけて顔を出した小間使い、さらに彼らに呼ばれ慌てて飛んできたらしい医者。それぞれが目を点にし、半ば半狂乱になって「いったいどうやって治ったのか」と叫ぶ叫ぶ。彼らのうす誰の口からもいまだ口先のものですら見舞いの言葉が出て来ないことに気づきながら、
「検討もつかないな。ところでいい加減、そこにほったらかしになっている朝食をもらえないか」と返すと、あの(俺に対しては)礼儀正しい医者でさえ、血走った目を向けてきた。仕方ないだろう。知らないものは知らないのだ。
俺とトーコが朝食を取る間、入れ替わり立ち代わり、普段は顔を見せたことのない、執事頭やメイド長らしきお仕着せを来た連中までが現れては、驚愕の表情を貼り付けて帰っていった。
「お茶、おかわり、いる?」
「ああ、ありがとう」
食後のお茶を取る頃に、ようやく見物人が一巡したとみえた。最後に、医者が午後2回目の診察に来ると言い残して帰ってから、いつもの静けさが地下に戻る。
いの一番に俺の姿を目にしたトーコは、当初の驚きからすっかり回復していた。ポットから二人分のお茶を継ぎ足し、俺の隣の椅子へ坐り直す。
今日はよく櫛を通した髪を、頭の高いところで括っている。ドレスは細身で、裾が膝下まである品の良いもので、よく似合っていた。派手なところや強いクセのない顔つきと、慎ましやかな表情は、躾の行き届いた良家の子女といった印象だ。
「よかった、アドルフ、げんき」
俺の方を見て、トーコが拙い言葉で言う。
「ああ、元気だ。訳は分からないけどな」
本当に俺の体は2年前と同じ状態だ。黒子の位置まで変わっておらず、むしろ気味が悪いくらいだった。だが、トーコは始終ご機嫌だ。
「アドルフ、なおる。元気。外、出る、大丈夫」
まっすぐ俺を見上げる濃い茶色の瞳が、きらめいている。今朝の大泣きのせいか、彼女の瞳は潤みっぱなしだ。目元も少し赤い。
「なおる。外、出る。良い、とても良い。太陽、ひかり、友だち、かぞく、お家、帰る。アドルフ帰る。うれしい?楽しい?」
小首を傾げる仕草も弾む声も、無邪気なものだったが、俺は彼女の質問に即答は出来なかった。ただ、一番トーコが望むであろう言葉を返す。
「ああ……帰る。そうだな、嬉しいよ」
「良い!」
微笑むトーコは、言葉は三歳並のくせに、何処か物のわかったような風だ。俺は自分の言葉を反芻し、ここを出るという考えが、いま一気に現実味を帯びていることを自覚せざるを得なかった。
しかし、語彙が少ないせいなのだろうが、俺は細かい部分に引っ掛かりを覚える。トーコの言い振りは、まるで此処を出て行くのは俺だけのような言い方だ。それについては、しっかり確認する必要があった。
「トーコ、お前はどこに帰る?」
今度はトーコが言葉に詰まる番だった。しばし、しかめっ面をして見せてから、捻り出すように答える。
「…トーコ、帰る、ない。トーコ……家ない。かぞく、ない。」
「なら、ここに残るのか?」トントンと机を指で指し示すと、トーコは激しく首を横に振った。
「しない。ここ、いや。外にいく」
「外はいいが…」
予想はしていたことだが、やはり彼女に身寄りはないらしい。当然だろう。言葉が話せないという事は、周辺国から来たに違いなく、身寄りがないということはすなわち、正規の方法で入国したのでは無いということだ。
(ならば、彼女の考えがどういうものであるにせよ、俺が外に出るときは、トーコと一緒だ)
まだ単語をつなぐだけが精々の彼女を、どこかに口利きだけして使用人に引き立てても、大した仕事を割り振られることもなく、お荷物扱いをされるのが関の山だ。きちんとした言葉遣い、そして相応の礼儀作法を身につけさせて、しかるべきところに就職口をみつける。それが俺がトーコに返すべき最低限の義務だろう。
(だから、お前も一緒に行くんだ。)
その一言を、どうやって伝えようか。
俺はティーカップを口に運ぶ少女を見ながら、しばし思案する。
病はもう影も形もない。一度は異形になったいわくつきの人物でも、現在の俺は、理論上、この屋敷のウェルミンス公とほぼ同等の立場にある。すぐにでも、ここを出ていくことも難しくはない。だが、現実にはそう簡単に事は運ばないということも承知している。
ここで死ぬのを待つだけの、幽閉された異形であれば要らなかった心配事が。それもひどく大きく厄介な心配事が、いま俺の頭の中を占領していた。
(一族の中でも争いはある。それぞれの家で、だれが家長になるか。そして議会でどの家が大きな発言力を持つか。自分の家が力を得るためならば、奸計もよしとし、暗殺までやる公族など珍しくない。)
これまで、幾度かに渡って命を狙われたことがある。俺の病を聞きつけ、手を打って喜んだ連中は、もしまた俺が以前と同じ身分を取り戻したと知れば、かつてのように俺を排除しにかかるだろう。健康になればなったで、俺はまた別の、命の危機に直面するわけだ。
必ず、身辺は騒がしくなる。味方のあてがあるにはあるが、全く危険がないとは言い切れない。
そして、その危険性をトーコに理解させるすべはない。
(トーコは年に見合わず利発な子だ。俺の抱える事情を知れば、自分の進退くらい、きちんと自分で判断するだろう。だが、伝えるすべがない。お家騒動の詳細やら危険性やらを、ティーカップという単語をやっと言えるようになった程度のこの子に、どうやって理解させられるだろう。)
俺の独断で決めるしかない。もうしばらくして、もっと言葉が分かるようになれば、その時は全てを説明しよう。そして、トーコ自身に決めさせる。俺の側で働くか、離れるのか。だが、それまでは。
俺自身の責任で、彼女を連れて行こう。
最後の一口を飲み干して、俺は肝を据えた。
そして、廊下の奥から、ただならぬ物音がした。
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