第3話 彼のこと


 どうやら、私は自分が生まれたのとは別の世界に来てしまったらしい。

 フィクションでならば腐るほどお目にかかった展開でも、現実に自分の身に起きるとなると、想像以上の大ごとである。なにせ、言葉は通じない。文明レベルも違う。

あげく、自分に何が起こったのかも見当がつかないうちに、あっちこっちと連れて行かれ、挙げ句の果てに地下牢に閉じ込められている次第。この展開に一体誰が得をするのか。

(そして何より、この、恐ろしいほどの現実感)

 どうすれば元の世界に戻れるのか。そんな重大な命題を差し挟むひまなど、今の私には一ミリも無い。何故なら、この見知らぬ世界においても相変わらず、人間というのは腹が減るし疲れるし病気にもなるからだ。目の前の出来事がいちいち現実離れしているからといって、「えーんおうち帰りたいよー」なんて呑気にやってたら死ぬ。私は初めて地下牢で死にかけの人間を目にして、そう悟った。

 ろくに光も当たらない地下牢は、陰鬱なことこの上なく、毎日湿り気のある床石の上で寝るのは辛かった。私の分のご飯は用意されていないし、いつまでたっても外には出してもらえない。それでも、私は来る日も来る日も言われた通りに掃除を続け、病人の床擦れを手当てし、吐いたものを片付け続けた。

 それはひとえに、この世界での私は、いくらでも代わりのいる程度の存在だということが理解できたからだった。

 私が見つめる両手の先は、小さい。これには二つの意味がある。単純に子供サイズだという意味と、私の記憶の中にある自分の手に比べて小さい、という意味だ。

 私には日本という国で生まれて、30歳近くまで育った記憶があるはずなのだが、今の姿ときたら小学校3、4年生といったところの外見年齢である。この年ごろの子供が、身寄りもなく世の中の何の知識もなく、言葉もしゃべれないとしたら、どこの世界の社会だろうがかなり厳しい立場だと思う。実際、この状況自体、日本だったら即刻児童相談所案件の生活環境なわけだし。

 であるからして、私はとにかく余計なことは考えずに、日々の生活を生き抜くことに決めた。幼くなった体は、手足の長さも腕力も足りないけど、思考の方は大人のそれだ。言葉が話せなくてもわずかな身振りで相手の気持ちを察することはできたし、簡単な病気の処置は知識としてきちんと頭の中に入っている。そのおかげか、私の同居人兼患者が微々たる回復を見せると同時に、ようやく私の生活環境も改善の兆しを見せた。

「どうした、トーコ」

 最近、耳に慣れてきた音が私を呼ぶ。私に向かって呼びかける彼は、この牢獄生活での同居人。名前はアドルフという。いや、実際は同居人というより、彼がこの部屋の主で私が居候といったところか。私たちの住むこの豪奢な牢獄は、そもそもアドルフのために作られたもので、そこへ私が放り込まれたというのが正しい。

 私たちを閉じ込めている誰かさんは、これだけ分かりやすくアドルフを監禁しているくせに、まるで賓客のように彼に豪華な寝具や贅沢な食事を用意する。なにせ、私にベッドや食事が用意されていないと察したらしいアドルフが、一声使用人に声をかけるやいなや、翌日には私の待遇が奴隷から裕福な家のお嬢さんくらいにステップアップした。

 一通りの着替えやこまごまとした小物。部屋の隅に子供用のベッドと専用の手桶、そして何より私の分の食事。今までの努力が報われたという気分で嬉しく、アドルフには感謝してもしきれない。

 今日も目の前には、二人分の食事が並ぶ。アドルフも今ではベッドの上ではなく、テーブルについて食事ができるようになっていた。

「食べないのか?」

「食べる!」

 スプーンをとって、つい小さく『いただきます』と口にする。食卓で食事をするようになってから、いただきますやごちそうさまが自然に出てくるようになった。そのことに気づいて、我ながら余裕のない生活をしてたんだな、としみじみ思う。しかし悲しいかな、長期間病人食の残飯生活だった私の胃に固形物がしんどい。

『久々の肉なのに。つらい』

「どうした?」

 差し向かいのアドルフが、怪訝な顔をする。彼のメニューは私より消化の良いものが多いが、それでもお粥オンリー生活から解放され、柔らかいパンが添えられたスープや煮物で構成されていた。

「だいじょうぶ。あー、一人で、言う…言った。じぶんでじぶん」

「ああ、独り言って言いたいのか?一人で自分に話す、独り言、だ」

「ひとりごと?」

「そうだ。発音がよくなったな」

 アドルフは褒めてくれたらしい。私も、また一つ語彙が増えてほっとした。

 このように、彼は事あるごとに新しい言葉を教えてくれる。私が多少なりとも”こっち語”を話せるようになったのは、ひとえに彼のおかげだ。私はこちらの言葉で「ありがとう」と、付け足した。

 地下室に二人きりでは、指差しで覚えられる単語にも限度があるし、複雑な熟語や概念、時制などの文法はまだまだ覚束無い。それでも、日々ボキャブラリーを増やし、残りは気合いとジェスチャーで補って、今ではなんとか日常会話の域に踏み込めたような感じだ。

 お陰で、彼のことについても色々と知ることができた。

 アドルフは、ある日突然原因不明の病気にかかったのだという。眼の色が変わり、拳大ほどの瘤があちこちに現れ、肌の皮は剥けて、全身は爛れた赤に染まった。身体が変化するに伴って、頭痛や吐き気も酷くなり、歩くこともままならなくなった。その後は意識もおぼつかなくなり、そして、次に気が付いた時にはこの地下牢に居た。

 さらに、話せるまで回復してから、食事を運んでくる使用人や医者の話を聞いて、ここが知り合いの偉い人の屋敷だと分かったとのこと。

 私はこの世界の常識なんぞわからないが、それでも、アドルフの処遇には憤懣やるかたない。と言わせてもらう。

(どう好意的に見ても、臭いものに蓋って言葉しか浮かばない)

 せいぜい高校生といったところの若者が、それだけの大病を患ったにも関わらず、ろくな看護も受けずに不衛生な地下牢で死にかけていたのだ。しかも、待遇からいって決して貧しいわけではないだろうに、それでもこの扱い。

 私なんか、30まで悠々と生きて、一番辛かったのなんて21の夏にインフルエンザに掛かったことくらいである。その時だって考えてみれば、実家から飛んできた母親に看病されて、至れり尽くせりだった。

(ここで私が一番不幸だなんて間違えちゃいけない。)

 私の身に起きた事と比べるのは失礼な話だろうが、それでも思わずにはいられなかった。アドルフの身に起きたことは、あってはならないことだ。それこそ、異世界にぶっ飛ばされるより酷い話だ。依然としてアドルフの全身の皮膚は一面ひどい火傷を負ったようで、筋肉の落ちきった身体は痛々しく、まだ満足に動かない。左目は白濁して見えていなかった。

 だが、アドルフの体調のほうは、私が来た時と比べればずいぶん良くなった。最近は昼間もずっと起きて読書などをし、身の回りのことも最低限のことはできるようになっていた。夜中に咳き込んで起きることも魘されることもない。外見のほうには、それほど劇的な変化がなかったとしても、彼は今きちんと毎日生きて、感情を動かしている。

(よし、次は室内で筋トレだな。タンパク質を沢山とらせて…。皮膚に影響がないようならお日様にも少し当たらないと。あのちっちゃい窓一つじゃどうにもならないもんなあ)

 いまの私の心境は、まさしく母親である。

 毛布にくるまって唸るだけだった彼を、朝から晩まで看病をし続け、だんだんまともな状態になっていく様子を間近に見ていた私としては、もう我が子みたいなもんなのである。今も、目の前でパンを自分でちぎって食べるアドルフを見て「そんなことも出来るようになって…」と密かに感動しきりだった。

 なにせ当初は水を飲ませるのも一苦労。ミルクがゆを、ひと匙ひと匙口に運んだこともあった。赤ちゃんが離乳食を卒業した的な感動がある。子供産んだことないけど。

(母とは偉大だなあ。そういえばお母さんは元気にしてるだろうか。お父さんも。二人とも歳だし、病気してないといいな。)

 時折、こうやって自分のいた世界のことがふと思い出される。だが、同時に、自分のいるこの現実の感触があまりにも生々しく、まるで元の世界の方が突拍子もない夢だったんじゃないかと思えることもあった。

 というか、私がこの世界に「生まれ変わって」やってきたのか、それとも「そのまま飛ばされて」やってきたのか。そこも、いまいち分からない。

 考えられるのは、「この世界に生まれた幼女が、先日前世を思い出し、代わりに記憶を失った」というパターン。もしくは「元の世界から飛ばされた際に、なんらかの事情で身体が縮んだ」というパターンだ。

 個人的には両者とも非現実的。私まず前世とか占いとかはちょっと信じていないので。大体、記憶は脳に記憶されているものであって、体が死んだり変わったりしたらもうアウトなんですよ。魂の存在肯定してしまえば何でもありですけど。

 とはいえ夢オチという最適解には期待できそうにないので、私も諦めはつけた。もしかして、物理法則さえ違う世界に飛んだなら、私の世界の常識も通用しませんし。

 私は久方ぶりの肉を咀嚼し続けながら考える。

 やっぱり、細かいことはその内考えよう。初めてアドルフに会った時、決めた筈だ。

 ひとまず生きる。

 もちろん、アドルフと一緒に。

 それが今のところ、私が持つことの出来る唯一の希望でもあった。


--------

「どうした」

 視界に真っ赤な色が広がった。アドルフが眉を寄せてこちらを覗き込んでいる。

「大丈夫、悪いはない」

「眠いのか?」

「眠い、ない!大丈夫!」

「嘘つけ。どうした、調子悪いのか。昨日からだぞ、その間抜けぶり」

 アドルフがしつこい。あと、私の語彙に無い言葉を使わないで貰いたい。きっと私が昨夜転んで顔面を打ったり、今しがたベッドから落ちたことについて何か言ってるんだろうけどね。私は石床に打ち付けた右頬の鈍い痛みを、ことさら無視して体を起こした。

「えーっとわからない、なに、いう?まにけ?」

「いや、その言葉は覚えなくていい。ほら、起きれるか」

「起きるできる」

 問題ないと証明するため、差し出された手のひらを拒んで、すっくと立ち上がる。つもりが、立ち上がる直前で、ぐるんと視界が回った。

「ばっ、」

 焦った声を聞いた。

 そう思った時には、視界がいつの間にやら真っ暗で、目を開けると何故か天井を背景にアドルフの顔が見える。とても厳しい顔つきだ。

「動くなよ」

 アドルフは、床の上で私を抱きかかえたまま、牢の外へ向かって大声を張り上げた。あらやだいつの間にそんな立派な声出せるようになったのよ。ふざけた思考が浮かぶが、どうにも怠くて言葉にできない。

 まあ、そりゃ私だって風邪の一つや二つ引きますよ。

 身に覚えのありすぎる体の不調に、内心で呟く。これくらいなら、風邪薬飲んで寝れば一晩で治っちゃうんだけどな。社会人だし。この世界に風邪薬があればの話だけど。

 ほどなくして、アドルフの呼びかけを聞きつけたらしい使用人の足音が聞こえた。

 それから、珍しくばたばたと人が出入りし、あの偉そうな医者も呼ばれたみたいだが、私は睡魔に負けてしまって詳しいことは分からなかった。

 次に訪れた目が覚めはすっきりとしたものだった。

 最初にこの世界に来た時を思い出すなあ。あの時も確か、ずいぶんゆっくり寝たなーっていう気持ちで起きたんだった。

 実際、よく寝たらしい。倒れたのは朝の早い時間だったはずだが、今や室内は真っ暗だ。私は、眼が暗闇に慣れるまでベッドの上でごろごろしてから起き上がった。

 調子はすっかり元通り、やっぱりちょっと風邪気味だっただけらしい。

 アドルフを起こさないように、そろりそろりと室内を移動し、水差しの水を飲む。渇いていた喉を、ぬるい水が潤した。一息つくと、シンとした静けさが耳をつく。

 私は仕切りの向こうのベッドへ近づいた。やっと、静かな寝息が聞こえる。苦痛混じりのざらつく響きは、もう何処にもなかった。思わず微笑んでしまう。ついでに、もう少し寝ている彼に近く。

 赤みを帯びた金髪は、はじめの頃より随分伸びた。寝顔にかかるその一房を摘んで払うと、穏やかな表情が現れる。

 彼の寝顔は、起きている時より幾分あどけない。

「これからどうすればいいかな」

 アドルフは良くなっている。それは確かだ。正確には分からないが、ノートを貰ってから毎日つけていた記録によれば、私がここに来てから、少なくとも6ヶ月以上が経っている。その間に、外見の後遺症を除けば、彼はすっかり健康体に戻ったようだった。数日おきにやってくる医者も、治療らしい治療もしないで帰っていく。私の仕事もだいぶ減った。やる事といえば、お茶や食事の準備ぐらい。後は言葉を習ったり、拙いお喋りをしたり。

「元の世界に帰りたいっていうのはあるんだ。けど、君を置いてけないし」

 今はまだ。

 引き攣れた赤みのある頬をつん、と押してみる。ぐっすり眠っている彼はピクリともしない。もしかして、ここを出て外へ行けば、何か起きるのかも。私がここへ来た必然性がもしあるのならば、その必然性が形になって見えるかもしれない。全ては憶測だけれども。

「でもなあ。せめてさ、君が完全に治ればなあ」

 こんなに元気なアドルフが、依然として外に出られないのは、アドルフの幽閉される理由が、病そのものでなく見た目にあるからだろうということは、私にだって解る。私はこの世界の人間に僅かしかお目にかかったことがないが、アドルフのような姿の人間は他にいなかったし、医者でさえアドルフを見る瞳に動揺を隠しきれない様子なのだ。アドルフの状態は、この世界でもそうとう異常なものに違いない。

「でもさあ、別にツノが生えてるとか触ったら毒で死ぬとか火を噴くわけじゃないんだから。個性じゃん個性」

 むしろ可愛らしいじゃないか。個人的には、昔見たアニメに出てくるお肌がゴツゴツの岩の魔人を思い出す。結構かっこよかったぞあのキャラ。いや、アドルフだって負けてない。鼻筋は通ってるし、目は切れ長で背もわりとある。成長期だから今後にも期待大。

「それに、若いっていいよねー。かっこいいと可愛いが同居してるっていうか」

 ちょっと羨ましいとも思う。私もいつの間にか20歳ほどアンチエイジングしてしまった人間だが、容姿の平凡さは変わらなかったのだ。どうせなら美少女にでもしてくれれば、遊郭的な場所で成り上がるという第二の人生もあったのに。

「でも、もしそうだったらアドルフに会えなかったもんなあ。それはやだな」

 私にとって彼は最初からこの姿だ。熟れて少し崩れた頬も、爛れた指先から伸びる白く尖った爪も、左目だけ濁った瞳も。そりゃあ、最初はおどろいた。もしかして感染病なのかと不安にも思った。でも気持ちが悪いなんてかけらも思わなかった。最初に抱いた感情が憐れみだったからだろうか。ただ、かわいそうで、そして次第に可愛くなった。

 この世界に、アドルフ以上に親しい人間などなんかいないし、この地下牢以上に慣れた場所もない。元の世界に帰る方法も、今のところ検討がつかない。

 だから、結局は、いつもアドルフのことを考えてしまう。

 この姿さえもとに戻ったならきっと、普通の暮らしが出来る。地下牢でのアドルフの待遇は、彼が無下にできない身分だということの証明だ。だからもし、私の看病が功を奏して、彼がこれだけ元気になれたというなら、この姿だって治してあげたいと思うのに。

 私は最後に、捲れた毛布を直し、アドルフの髪の毛にそっと指を絡めて、目を閉じる。

「アドルフ、大丈夫だからね。きっと治る。…アドルフはすぐに、すっかり元に戻る。病気になる前の姿に。そして、この地下牢を出ていける。そして安全な場所に行き、大人になる。立派な大人になって、自分の人生を生きることが出来る。絶対にそうなる」

 自分にその力があればいいのに。

 そんな無力感を押し殺すために、私は断定するように言い切り、自分の寝床に戻る。きっと眠れないと思ったが、意外とあっさり眠気はやってきた。やっぱりここら辺は子供の身体である所以なんだろう、と私は変に納得した。





 夢を見た。

 高く、低く、おびただしい悲鳴が重なる。叫びが上がっては、かき消える。あたりには刺激臭と目を焼くような黒い煙。ぼとん、ぼすん、という重たげな音がするたび、霞む視界の中で生き物が倒れていった。男も女も、子供も年寄りも。悲鳴をあげる者、悲鳴すらあげずに動かなくなる者もいる。私は震えている。

 動いたら見つかるから。

 ぼすん。ごろん。右肩を掠めてまた、誰かが倒れる。知らない男だ。身体の中身が見える。身体の中身が、見える。

 私は、喉の奥から獣のような叫び声をあげた。

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