第2話 彼女のこと


 彼女について、初めに知ったのはその声だ。

 いつの頃からか、それはぼんやりとした意識の波間に入り込むようになった。覚醒に至らない意識の中で、何度も何度もそれに気づいては忘れ、自分が聞いているのは、鼻歌交じりの歌声であるということを知ったのは、しばらく後のことだ。

 声は、自分の記憶にある誰のものでもないばかりか、旋律や歌詞さえ捉えどころがなく、一瞬も覚えていられない、まるでさざ波の音のような不思議な音をしていた。

 幻聴か。寝返りさえままならない自分は、この歌声を、自分がまともに考えることすら出来ていないことの証拠だと結論づけた。

 ところが、その歌声は、日に日にはっきりと聴覚を刺激し始めた。そして、長い間深い沼の底を彷徨い続けた俺の意識が、瞬きするような短い間だが、現実の物事を知覚できるようになった頃。その声は、確かに自分が生きているという事実の証明になった。

 瞼の裏で感じる周囲の明暗、すえたような匂い、軽やかな足音。

 自分以外の誰かの気配が、深く苦しい眠りと交互にやって来る。

 そしてある日、身体中の痛みと引き換えに、ようやくまともな意識が戻ってきた。頰の下にシーツの感触、頭の芯まで抉られるような痛み、とめどない吐き気。それから、誰かが自分に触れていること。

 体に触れているのは、歌声の主だ。

 目は開かないし、時間の感覚も全くないが、痛覚が戻ったせいで、定期的に体を拭かれているらしいことは分かった。そのたび呻き声を漏らす俺に、歌声が語りかける口調に変わる。

 その頃には、相手が共通語を話していないことに気がついていた。だが、自分もまだ話せるほど回復しておらず、相手もそれは承知のようで、返事を待つ様子もない。

 ただ、ひたすら優しく、子供をなだめるような声音。

 なんと言っているのだろうか。

 ようやく自分の意思で寝返りをうてるようになった頃、そんな事が気になりだした。どうにか開いた右目に映る光景で自分がどのような場所に居るのかを知り、俺はようやく、己の処遇を理解した。落胆が無いわけではなかったが、おぼろげに思い出せた経緯を考えれば予想できたことではあった。だから、それよりも知りたかったのは声の主のことだ。

 彼女の姿を知ったのは、ある日まどろみの中で聞こえた物音に、必死になって瞼を持ち上げたとき。かろうじて自由になる右目が、薄暗い室内に、天井近くから差し込んだ、一筋のほのかな明かりに浮かび上がった人影を捉える。

「やっと…」

 やっと会えた。蚊の鳴くような情けない俺の声に気づいたか、相手がこちらを振り向く。

 ブラシを握りしめた両手は小さく、驚きに開かれた瞳は大きい。無造作に結った髪。質素な衣服。看護人というより下働きに見える。

 なにより、幼い。ソプラノの歌声で、若い女だという見当はついていたが、予想を遥かに上回って若い相手に、正直なところ戸惑った。

「いくつだ」

 簡単な言葉なら分かるかもしれないと思い尋ねる。俺自身も、短い単語を話すので精一杯だ。しかし、目の前の十歳ほどの子供は、焦げ茶色の髪をふるふると揺すって、困ったように笑う。

 仕方なく、俺は肉の落ちた腕をどうにか持ち上げ、自分を指差す。

「俺はアドルフ。アドルフ」

 名乗ってから、指先を子供に向ける。

 子供は目を丸くし、一拍ののち噛みつくような勢いで答えた。

「とーこ!!」

「トーコ」

 俺が繰り返すと、驚くほど嬉そうに表情がほころぶ。そうすると、より一層幼さが増した。

(こんな子供に世話をされていたとは思わなかった)

 たとえ動けなくとも、まとまった時間、意識を保っていることは何度もあった。にも関わらず、意識のある間中、牢の中に彼女以外の気配は無かったのが不思議だ。耳に入ってくるのは、彼女の歌声や、小さく軽い足音ばかり。

(たまたまか。俺が意識のない時には別の人間がいるのか)

 でなければ、この牢内で俺の世話をしているのは、実質この子供一人ということになる。

「他に、誰かいないのか」

 無理を承知で聞いてみる。子供はますます困った顔をする。自分の国の言葉を不安そうに呟き始め、次にタオルやらカップやら、手につくものを片っ端から目の前に出してきた。どうやら、俺が何か要求していると思ったらしい。

 俺は違う、と手をかざして彼女の動きを制す。

 やはり無理そうだ。だがそもそも、急ぐ必要などないのだ、と思い直す。状況を確認したとして、どうせ自分には何も出来ない。そうだ、俺は化け物になったのだから。それを、うっかり忘れるところだった。

「トーコ」

 聞いたばかりの名を呼ぶと、小さな子供は今しがた手に抱えた品物を放り投げる勢いで枕元までやってきた。髪と同じ焦げ茶の瞳が、探るように俺を見る。

「なあ、おまえは俺が怖くないのか」

 トーコに向かって腕を伸ばす。爛れた皮と剥げた爪が、柔らかそうな子供の頬に触れた。

 子供の瞳は俺を見据えて動かない。

 俺はその視線から何か読み取れないかと努力をしてみたが、無駄だった。ほどなく、こらえきれず力の入らなくなった腕が落ちる。

 ぼすん、と俺の醜く骨ばかりの手がシーツに転がる。死に損ないにしてはお喋りが過ぎたようだ。どっと疲れが押し寄せ、頭が傾ぐ。その有様に、トーコは素早く対処した。俺の体を手際よく毛布の中に押し込み、頭を持ち上げて水差しで水分補給させてから、枕の上に仰向けに転がす。そして小さく歌い出した。

 ゆったりと、掠れたソプラノが奏でる子守唄。

 あっという間に、意識をひきずりこまれる。手慣れた乳母を彷彿とさせる手なみに、思わず口元が緩んだのを最後に、俺はひとまず意識を手放した。


 名前と姿の次に知ることになったのは、その年に見合わぬ賢さだ。

 庶民であれば見習いにやっと入るかどうかといった年頃にも関わらず、トーコの仕事ぶりときたら、何十年も奉公したメイドのようだった。小さな体でキビキビ動き、まるで大人のような真面目くさった仕草で俺に給仕する。だから俺は当初、どこでそんな技術を身につけたのかと、ただただ感心するばかりだった。

 また、トーコは言葉こそ話せないが、それは単に共通語を知らないというだけで、幼いながらに自分の母国語を読み書きすることも出来ると知った。

 そこで俺は体の調子が良いときに限り、トーコに言葉を教えることにした。

 幸い、身体は蛞蝓が這うようなのろさながら回復に向かっているようで、最近はベッドの上で上半身を起こしていられるまでになっていた。トーコには、たまたまチェストに入っていたノートとペンを使わせ、身振り手振りで簡単な言葉を理解させていく。ただトーコは本当に簡単な単語さえ知らず、意思疎通もままならないので、教えられることは限られていた。それでもトーコはノートにみっしりと単語の意味や発音を記録し、時には、なかなか絵心のある絵を描いて俺にものを尋ねたりもした。

 トーコが書く文字は複雑怪奇で、俺の知っている外周国のいずれのものでもないようだった。だが、もちろん出鱈目に書いているのではなく、トーコはノートにかじりつきながら、着々と学んだ単語を読んだり発音できるようになっていった。

「アドルフ、からだ、痛い、ない?どこ?」

「ああ、悪いが、今朝からどうにも喉が痛くて困ってる。この前の飲み薬を飲んで今日はもう寝る、かな」

「喉、痛い、はい!薬、待つ」

 トーコはぱたぱたと部屋を駆け回る。戸棚から薬の小瓶と匙を準備し、途中で水桶へタオルをいくつか浸して、水差しからコップに水を汲む。寝る前の薬を俺が口に含むとすかさずコップを渡し、それから喉の痛みに効くという、どろっとした液体を匙に乗せて寄越す。俺が飲み込んだのを確認して、いつもの手さばきでベッドに入れてから、部屋を横切る細い紐を張って、そこへ水気を軽く絞ったタオルを干し出した。

「何やってる?」

 寝床から尋ねると、トーコはこちらをちょっと振り返って『カシツ』と、自分の国の言葉で返した。故郷でのまじないか何かなのだろうか。

 時々おかしなことをするトーコだが、快癒の代償に獣の生首を干しだす儀式とかでなければ、別に問題ではあるまい。俺はトーコのかすかな鼻歌を聴きながら瞼を閉じて考えるようになった。

 トーコは数年もすれば、言葉も覚え、どこかの屋敷にメイドとして奉公できるだろう。実力が認められれば若くしてメイド頭になることもできる。そして同じような優秀な奉公人と家庭を持てる。トーコはとてもよく出来た使用人なのだ。だからこそ、いくら奇病の半死人とはいえ、俺の側仕えに充てがわれたのだろう。そう呑気に考えていた。

 だがある日、俺は己のめでたい勘違いに気づいたのだった。


 俺がようやく日に数時間ほど身体を起こしていられるようになったころ、医者が出入りを始めた。

 医者はスウェルと名乗った。

「ここは参の廓のウェルミンス公のお屋敷にございます。ご記憶とは存じますが、殿下がご病気になられてから一年以上回復の兆しが見えず、伝染の可能性もございますことから、恐れながらこのような場所にお運びしました。しかし、もちろんこれは公のご好意によるもの。不足のないよう、言付かっておりますので、このように、家具やお食事は最高のものを取り揃えております。殿下におかれましては、我々使用人一同の願いが叶い、めざましくご回復のこと、大変嬉しく思います」

 丸メガネの奥に親切そうな笑みを見せた医者は、確かに公族の侍医であることを示す記章を、仕立ての良い上着の胸につけている。なるほど、立派な対価をもらう立派な医者なのだろう。

「確かに、地下牢はあまり嬉しい滞在場所ではないな。もちろん公のご好意には感謝する。だが、記憶違いでなければ、俺の病は感染するものではないはずだったが?」

「幸い他に感染者は出ておりませんが、可能性が無いとも言い切れません。何かあっては遅うございますので、ご滞在中は何卒こちらのお部屋からお出になりませんよう。もちろんご不便をお掛けしますが…全ては殿下の御身が為です」

「トーコは大丈夫そうだが?」

「トーコ?」

「この子のことだ」

丸メガネの医者は、俺の背後で番犬のようにじっと佇むトーコに、たった今気づいたといった顔をする。

「この子が、この部屋に寝泊まりして俺の身の回りの世話をしてくれている。見たところ彼女は健康そうだ。礼を言う。感染の危険がありながら、こんなに気の利く使用人を寄越してくれるとは。俺と同じ病にかかったら大損だったところだ」

 せいぜい親切ぶって俺が言うと、少々失礼します、と断ってから医者は自分を案内してきた男の使用人と小声で話しだした。男の使用人は焦った顔をしてトーコを見、必死に医者に対して説明をしているようだった。

「殿下、お気を使わせてしまい、大変申し訳ございません。ええ、本当に、その娘が感染せずにすんで幸いなことでした」

 ようやく医者が俺の方に向き直った。メガネの奥の小粒な瞳が、困ったように細められる。

「じつは、我々は感染予防として面覆いや手袋などを持たせたのですが、なにぶん無学な下女にございます。渡したものをしっかり身につけずに何処かへやってしまったのでしょう。どうぞお気になさいますな。卑しい身分といえど、己の身の処し方には責任がございます」

「下女?トーコは側仕えだろう。他の使用人は見たことがないが」俺は医者の言い方がどうにも気に入らず、つい追求した。下女、下男とは主に日雇いや臨時の召使いをさす。賃金契約だから、仕事が終わればそれまでだ。一方で、使用人や側仕えは、正式な召使いとして召し上げられた者のことだ。彼らは、どこどこ家の使用人、として保護を受けるし、離職する場合は新しい職の口利きも保証されている。

「ああとんでもございません。殿下のお世話をさせていただいている側仕えのものは他にもおります。ただ、この者は他に身寄りがないので、こちらに住み込みをさせておりますから、よく御目に留まるだけでしょう。さあ、あまり話すとお体に障ります。診察を始めましょう」

 医者は宥めるように言って、そくささと診察道具を取り出し始めた。こちらも一旦追求は止め、素直に診察に応じる。

 目玉を覗き込まれたり、大口を開けさせられたりしながら、俺は医者の言葉から得た多少の情報を整理した。

 ウェルミンス公は、俺の母と親交のある公族の一人だ。しかも、公族ながら医学分野のメイステルでもあり、ウェルミンス公家として数十人の高名な侍医も抱えている。その彼が、「引き取って完治させる」とでもと申し出でれば、母は一にも二にもなく飛びついただろう。公にしてみれば、母に恩を売り、俺の身柄を確保することはゆくゆく利益になる。両者の利害が一致したのだということはたやすく想像がついた。問題は、我が母に影響力がありすぎるという点だ。本来、公家同士の強すぎる結びつきには十分配慮する必要がある。

(…とは言え、今の俺に何が出来る訳もない。ここに放り込まれた時点で、すでに公の手の内だ。しばらくは様子見する以外はないな。幸い、公にとって俺の回復如何は特に重要ではない。回復すれば母に多大な貸しをつくれるし、回復せずとも看病を続けるだけで母からの信頼は篤い。俺の首を狙う別口を相手にするよりは、少なくともここで体を回復させることが得策か)

「おいおまえ、服をお脱がせしろ」

 俺に向けるのとは大違いの偉そうな態度で、医者がトーコに命じる。言葉を理解しないトーコだが、医者の仕草から察してすぐに俺の腕を袖から抜き出す。

「それと、お湯を桶にうつして運んでこい」しかし今度は、大きな瞳が戸惑って揺れた。医者は、簡単な言葉くらいなら理解するはずと思っているようで、大きな声でトーコに向かって繰り返す。

「お湯だ!」

 だが、トーコはおろおろと俺を上目遣いに見上げるだけだった。当たり前だ。トーコは聞き取りが一番苦手なのだ。この医師のガラガラ声では、十分の一も聞き取れていないに違いない。

「お湯だ。温かい、水。いつも桶にいれてくれるだろう」俺が手で真似ながらトーコに理解を促す。それでやっと理解したようで、水場に向かって踵を返した。医者が信じられないといった風にこぼす。

「まさかこんな言葉も分からないとは」

「説明すれば理解できる。今のように…」

「いいえ!これでは殿下の身の回りのお世話など満足にできるはずがありません。すぐに代わりの下女を見つけますので、しばしお待ちくださいませ」

 医者が、鼻息荒く言い放つ。

 俺は、その物言いの、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れるばかりだった。

 トーコ以外に、このバケモノの世話を厭わずにする者がいるとでも思っているのだろうか。もはや、医者や他の使用人がここへしばらくの間寄り付いていなかったことは明白だった。まだ親に手を引かれる齢であろうこの子供が、一体どれだけしっかりと病人の世話をこなしているのか、こいつは知りもしないだろうに。

 残りの診察の間、トーコに雑用を申し付けては舌打ちする医者の態度に、俺は蹴りの一つも入れてやりたい思いを我慢しなくてはならなかった。

 そして同時に、この医者が終始トーコを下女扱いして憚らないことに、俺は神経をざわりと逆撫でされるような違和感を覚えた。

 医者の診察があった日、俺は昼すぎにゆっくりと休んだおかげで、夜になって目を覚ました。そして地下牢で唯一の明かり取りの窓から、うまい具合に月の一部が顔を出しているのに気づいた。月を見上げる、ただそれっぽちのことが、随分と久しぶりだ。少しの間、淡い光を眺め、ふと思いついた。

 きれいな月が出ている。と、トーコに伝えてやったら喜ぶだろうか。そういえばトーコが外に出ているところを見たことがない、という気づきとともに俺はそう考えた。

 しかし、視界にトーコの姿は見当たらず、室内の冷えた空気はそよりとも動かない。まさか外出しているのだろうか。それなら喜ばしいことだが、そんな気配は今まで一度もなかったのに。

 トーコを見つけられず、俺は初めてある疑問に思い至った。

 トーコはどこで寝ているのだろうか。

 地下牢の部屋は、いくつもの衝立で間仕切りがしてあるが、所詮は一続きの広間のようなものだ。部屋のどこにいても、もう一人分のベッドがすっかり隠れてしまうような死角はない。

 ベッドがない?

 そう考えたところで、ようやく俺の耳がかすかな物音に気づいた。ベッドの上で身じろぎし、慎重にベッドの下を覗く。

 そこに。石床の上に、申し訳程度の布一枚を抱きしめ、寝息をたてる子供の寝顔があった。

 その意味を理解するのに、数秒かかった。それから罪悪感を押し殺し、ベッドの枠を叩く。

「トーコ」

 深く眠っているかと思った子供は俺の立てた物音に気づくや、パッと目を開いて飛び起きた。寝起きとは思えない動きで、すぐさま俺の頭に手を置く。心配そうな声で名を呼び、額や腕を順繰りに触っていく。俺はやっと彼女の意図が分かって、急いで言い聞かせた。

「大丈夫だ。どこも悪くない。そうじゃない。呼んだのは、その、月が出ていたからだ」

 窓の外を指して説明すると、ようやくトーコは安心したようだ。思いつめたような顔つきが途端にゆるみ、嬉しそうに小さな窓枠から空を見上げる。

「月だ、月」

 俺が明るい三日月を指して言うと、「つき」とトーコが繰り返す。

「そうだ月だ」

「つき!」

 はち切れそうな笑顔で、トーコが笑う。縛られていない髪の毛はくしゃくしゃで、笑いをこぼすたびに、ふわふわと揺れた。本当に、トーコの髪は羊の毛わたに似ている。

 俺はなぜか泣きたい気分で、今朝あの偉そうな医者の態度で気づかされ、先ほどようやく形になったばかりの疑念を口にする。

「トーコ、今日は何を食べた」

 匙と椀で掬う真似をする。夕食はむぎ粥と卵、野菜のスープといった病人食だった。俺はそれを全て半分ほど残して眠った。

「トーコ、お前は何を食べた」

 食べる真似をしてから、トーコ自身を指す。繰り返して、それからいつも食事が運ばれてくる荷台を示す。夕食は夕方に運ばれ、翌朝朝食と入れ替わりで片付けられる。いつも当番のものが押してくる配膳台には、残り物や洗濯物が積まれているはずだった。

 トーコは質問の意味を理解したらしかった。途端に、気まずそうな顔になる。しばらく悩む様子を見せたが、結局言葉で伝えることもできず、諦めたように配膳台へ向かう。そして、持ってきたものを俺に見せた。

 伏し目がちに夕食が残っているはずの食器をベッド脇のチェスト並べる。食器の中は、空だ。

「アドルフ」俺の名を呼んで、食べる真似。お腹を膨れさせる真似。そして食器を配膳台へ移動して、「トーコ」と自分の名を呼び、再び食べる真似。それから、空になったことを示すように食器を逆さにしてみせ、「ない」。今度は配膳台の下の段へ食器を隠すように仕舞う。

 トーコが口を引き結んで、伺うようにこちらを見た。知られると俺が気にすると思ったのだろうか。トーコが、ベッドも自分の分の食事もなく、たった一人きりで俺の看病をしているのだということ。そして何より、その処遇をトーコが不満ももらさず受け入れ、あまつさえ俺に隠していたということに、凍るような無力感を味わった。

「俺はとんだ間抜けだな」

 気づかなくて悪かった、と謝ることすら許されないと思った。

きっと俺は厚かましくも、この地下牢で、一番不遇なのは自分だと思い込んでいたのだ。


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