ミーム・オーサー

あざな

第1話 底辺から始めます

 扉が床石を擦り、悲鳴のような音を上げた。

分厚い鉄の扉を押し開き、自分の体を滑り込ませられるだけの隙間をあけて室内に入ってきたのは腰の曲がった老人だ。扉を開けただけで息を切らせているにも関わらず、枯れ木のような足をいそいそと部屋の中央へ運ぶ。

 老人の目当てのものは、冷たい床石の上に無造作に置かれていた。

かがみこみ、それに手を置く。十分な時間をかけ、骨ばった手ですみずみまで細かく検分する手つきは初め慎重だったが、作業が終わる頃には、老人の口から呪いの言葉が吐かれた。

 唸り声とともに腰を持ち上げれば、もうそれに見向きもしない。部屋の隅の長机へ向かい、丸めた羊皮紙をいくつか荒々しく叩きつけ、一通り悪態を吐いた後、ようやくむっつりと口を閉じて書き物を始めた。

 そしてそのまま、隙間の空いたままの扉が遠慮がちに叩かれるまで、背中を丸めて書き物に没頭して動かなかった。

「メイステル、ご用でしょうか?」

 呼びかけたのは、身なりのきちんとした、目上の者にかけるにふさわしいもの言いをする青年である。だが、呼びかけに込められていたのは、尊敬というよりは畏怖に近い感情だった。

「それを捨てておけ。もう用無しだ」

 老人は後ろの青年を振り返りもせずに言う。青年は、足音を立てることにさえ怯えるように部屋の中へ入り、先ほど老人が短い間だけ興味を示したものを見つけると、ためらいがちに尋ねる。

「あの、どのように…」

「どうしようと構わん!役立たずのゴミの捨て方ぐらいおのれで考えんか!」

「で、でも、まだい、生きてま」

「生きているだと?それが問題か?ならば、息の根を止めてしまえ!そうすりゃ豚の餌にでもできるじゃろうが!!」

 とうとう振り向いて怒鳴った老人に、青年はびくりと肩を震わせ、大急ぎでそれに手を伸ばした。右腕をそれの細い首に回し、左手で小さな膝裏をすくい上げる。自分の胸にすっぽりと収まる大きさの生き物は、とても軽い。だから老人の癇癪から一刻も早く逃れるべく、小走りで扉へ戻ろうとした。

「なんだそれは」

 ところが、半開きの扉を軋ませながら大きく開いた人物が、青年の大急ぎの退却を阻んだ。

「う、ウッドルベン様、あ、これは今、め、メイステルが処分をと」

 青年はしどろもどろになっていたが、目線を必死で、自分の抱えたものと、高いところにある相手の渋顔の間で行き来させた。

 ウッドルベンと呼ばれた男は、わずかの間、眼下の光景を見据え、そして老人のいる方へ顔を向ける。

「メイステル、以前貴公には厳命があったはずだ。処分に困るようなもので実験を行うなと。研究所直々の通達であったのは覚えておられんか」

「覚えておらぬか、だと?この儂を年寄り扱いするつもりか?そもそもおのれになんの関係がある。そんなもの、いかようにも処分できるだろうが。あと数ヶ月もすれば、朝方あちらこちらで凍死しとるわ」

「ここは四の郭だ。ここで子供はそう死なん。たとえ下働きだろうと」

 ウッドルベンの言葉に、青年が急いで頷いた。たしかに厳冬の冷え込みのせいで、廓の外の貧民街では浮浪児が死ぬことがある。だが、ここは王城の廓の中だ。最外郭である伍の廓であっても掃除夫に宿舎が用意されている。肥溜めをつくる卑しい身分のものでさえ、ここで飢えることなどない。

「役立たずの虫けら一匹殺すのも出来ぬ腑抜けが!さっさとそいつを持って失せろ!今度いらん世話をかけたらここから追い出してやるぞ!」

 老人は気弱な青年に標的を戻し、青筋を立てて怒鳴った。怒鳴られた方は、今にも駆け足で外に飛び出していきそうな気持ちだったが、未だ不動で老人に対面するウッドルベンを押しのけるほどの度胸もなかった。見事な体躯を騎兵団の制服に身を包み、いかにも軍人らしい風貌をした壮年の男であるウッドベルンは、腰の曲がった老人の権威の前にもひるむ様子は微塵もない。

 憂いを込めたため息をつき、ウッドルベンは子供を抱いた青年を見下ろす。

「掃除夫を探している公族のお抱え医師がいる。素性を適当に偽って、そこへ下働きに出せば良い。それでいいなメイステル」

「はっ、騎兵団長自ら下働きの口利きか!よっぽど暇と見えるな」

「許可と受け取る。さあ、人目につかぬようその子を裏口に連れて行け。儂もすぐに行く」

「はい!」

 ようやくこの場を後にできると青年は短く安堵の息をつく。老人が騎兵団長へ向けて聞くに耐えない罵倒を飛ばし、騎兵団長が短い返答でかわすのを背後で聞いた青年は、感心しながら子供をもう一度抱き直し、裏口へ急いだ。

 まだ日の出には間があり、炊事女でもようやく寝床で起き出す頃合いである。おかげで建物の中で他の召使いに会うことはなかった。裏口についたので、ウッドルベンを待つ間、青年は自分のマントで子供の体を包む。すっぽりと包まれた子供は、ほんのわずかに身じろぎをしただけで眠り続けた。ほどなく、規則正しい足音と共に騎兵団長が姿を表す。

「まだ生きているのだな」

「はい。2、3日食事をとっていないので、弱ってはいますが、死んではいません」

「ならばひとまずお前のところの詰所で目を覚まさせ、何か食べさせろ。それから、参の郭のウェルミンス邸へ行け。お抱え侍医のドクトル・スウェルが詰めているはずだ。俺の紹介だと言ってその子供を預けてこい」

「わかりました。ウェルミンス邸宅のスウェル先生ですね」

「そうだ。先日掃除夫を探していたので連れてきたと言え。素性について聞かれたら、先のシエス川の小競り合いで流れてきた孤児だと伝えろ。それと、古着でもなんでもいいから着せて、最低限の格好はさせておけ。掃除夫といっても、ウェルミンス家の敷地に入れさせるんだ」

「はい。分かりました。あの…ありがとうございましたっ」ばね仕掛けのようなお辞儀をする青年に、ウッドベルンは深く刻まれた額の皺を和らげる。

「構わん。今後も老メイストル絡みで不審ごとなどあれば、騎兵団宛てに言付けるように。食いつぶしてきた過去の栄光も、すでに底をつきかけておられることにお気付きでないようだからな」

「承知しました。何かあればまたご連絡いたします」

「頼むぞ。安心するがいい、いざという時の口利きはする」

 ウッドルベンが蓄えたヒゲの下から歯をむき出して豪快に笑うと、青年はようやく安堵した表情で深く頷き、拍子で腕の中の子供の頭を揺らした。


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 目覚めはすっきりしたものだった。

 眠気に全身を絡め取られたような朝とは違う、空気が水上へ浮かびあがるような自然な目覚め。瞼を開けてすぐに意識がはっきりとし、指先まで意識が行き届いている。とても素晴らしい気分だった。だが、それも自分がどこで目覚めたのかを理解するまでのわずかな間のことだ。

 どこだここ。

 一ミリも記憶にない場所に、自分は居た。

 漆喰の壁、硬くて埃っぽいマットレス。目の前に、茶色い髪の男の子。どちら様でしたっけ。瞳をかっぴらいて、記憶を総ざらえしても、なんの答えも出てこない。

 久しぶりにすがすがしく目覚められたと思ったのに。記憶ごとごっそり掃除してしまったのだろうか。とにかく、何一つ頭に浮かんでこない。

 だれ。どうして。なんで。どうやって。

 私がひたすら混乱する脳内に問い続けることにかまけていると、眼前の男の子が口を開いた。

「へ?な、なんて?」

 思わず聞き返す。どうやら混乱しすぎていて、うまく聞き取れなかったみたいだ。相手が眉をひそめ、もう一度言う。

 わからない。

 これが二度目の衝撃。いくら集中しても、なんの意味も汲み取れない。相手の話す言葉は自分の話す言葉じゃない。それどころか、知っている他の国の言葉にすら聞こえない。理解できるのはそれだけ。どれだけ耳をすましても、聞き知った単語すら聞き取れない。

 私はこの事実に呆然としたが、相手も同様のようで、困ったように顔をしかめて黙った。

 頭がくらりとして、私はマットレスに両手をつき、黄ばんだシーツを見つめる。

 状況はわからない。でも私はいま、言葉の通じない場所に一人でいる。

 どうしてだ?いやだって、私は昨夜普通に眠って…。昨夜?昨夜私はどうしていたっけ?家で寝た?いや違う。私はアパートで一人暮らしをしている。だって大学を卒業したから。いや、そもそもちゃんと社会人なんだから。だから私はアパートの部屋で眠ったはず。どこで寝たのだっけ?ベッド?それともこたつで寝落ちしたのだったか。

 必死でこの状況に繋がる記憶を呼びさまそうとする。なのに情報がやたらと断片的にしか浮かばない。時系列さえ怪しくなり、加速して行く混乱に慌ててブレーキをかけた。これではだめだ。きちんとゆっくり考えないと。

 思考をフル回転させて理性を取り戻そうとしていると、肩がとん、と叩かれた。

 顔を上げると、青年がこちらに皿を出してくる。見ると、パンや野菜らしきものがぶつ切りになって載っていた。もう一度青年に目をやると、食べろ、というような仕草をする。

 その途端、すさまじい空腹に気づいた。

 私は皿を受け取って、そのまま手づかみで口に入れる。きゅうきゅうと引き絞られるような腹の感覚に気づいて、きちんと噛んでから少しずつ飲み込むことには気をつけたが、皿が空になるまで食べるのを止めることは出来なかった。

 皿を平らげるとコップに入った水を手渡され、それを全部飲み干してしまうと、ようやく一息つく心地になる。

 頭に栄養が行ったせいが、これで物事をきちんと考えられそうな気がした。なのだが、私が水を飲み干すと同時に、青年が知らない言葉と共に私を立たせる。

 腕を軽く掴み、そのままマットレスから下りるよう促す。私が従うと、安心したような表情で、今度は部屋の扉を開けて外の廊下に出た。

 廊下も、先ほどの室内と同じで質素な感じだった。何人か、青年と同じシャツとズボンを着て同じような背格好の男の子たちとすれ違う。

 ほどなくして、屋外へ連れ出された。

 雲の隙間から日差しがいく筋が落ちている。あまり明るくはなく、昼だろう、というくらいしか分からない。視界に入る人々は、年齢層や格好も様々になった。だれもかれも時代がかっている。古いヨーロッパ風のドレスを着た、化粧っ気のない顔の女性。軍服らしき服を着て帯刀した男性。粗末なシャツとズボンの子供が、自分の倍以上の大きさの藁を運んでいる。

 そういえば、自分も同じような服だ。薄茶色のぶかぶかのシャツのようなワンピースのような服を革腰ベルトで止めている。見下ろす足には藁で編んだようなサンダル。全く現代風じゃない。こんな暮らしをまだしてる国なんて知らない。まさかカルトじゃないよね。反文明的なやつ。

 下生えは少し濡れていて、ぬかるみがちな地面を、引っ張られながらどうにかすすんだ。

 もう少しゆっくり歩いて欲しい、と頼みたいのは山々だが言葉が通じなければどうしようもない。どこかに知っている景色はないかと、あたりをきょろきょろと見回しながら、必死で青年の速度についていく。ようやく青年が足を止めたのは十分ほど歩きづづけた後で、私は肩で息をしながら、ふらつく膝を両手で掴み、立っているのが精一杯だった。何故だろう、確かに座り仕事で運動不足だった私だが、こんな平坦な道を小走りにあるっただけで、こんなにへとへとになるなんて。

 青年が誰かと話し始めた声がする。けれども、疲労困憊した私は、顔を上げて相手を確かめることも出来ない。

 それから、青年は私を話し相手に引き渡した。

 今度はシワシワの手に引かれ、私は歩き出す。青年よりも歩みは遅いが、腕を握る力には遠慮がない。

 私はもう周囲を気にすることはやめ、ひたすら転ばないように足元にだけ注意して連れられていく。そして、それから2度ほど、私は別の人間へと引き渡された。

 もう、床の種類が幾度か変わったことしかわからなかった。ひたすら、足を交互に前に出す。

 とうとう最後の人間が、やたらときつく握っていた手を乱暴に離した。私は床に膝をついて倒れ、同時にものすごい匂いに気が付いて口を覆った。

 私を床に這いつくばらせた男が、何か叫ぶ。鼻を突く悪臭をこらえて男を見上げると、足元と私の後ろをしきりに指差しながら何事か叫び、それから扉を閉める。いや、閉めたのは扉ではなく、鉄格子だ。それに気づいてやっとあたりを見回す。

 まるで地下牢のようだ。というよりもう地下牢で間違いないと思うのだが、私の思い描く地下牢とはいくぶん様子が違う。確かに廊下との仕切りは鉄格子だし、ひとつきりの窓は締め切られて、空気は淀んでいる。だが、牢の内側に置かれているものといったら、大きなベッド、ソファ、たくさんのチェストや本、そしてご丁寧にカーテンまでかけられていた。

 私は違和感と悪臭に眉を潜めて立ち上がり、足首に当たった何かを確認して、やっと自分の足元に置かれたバケツやブラシが目に入る。

 なるほど、掃除をしろということ?

 私は先ほどの男の意図と同時に、もう一つの違和感の正体に気が付いた。

 ベッドに誰かがいる。

 私が立っている場所から、室内の奥に置かれたベッドの上の、毛布が盛り上がっているのが見える。そして、わずかな呼吸に合わせて上下しているのも。耳をすませば、自分以外の息遣い。

 寝てるのかな。こんなところに住んでるんだろうか。いや、好き好んで住んでいるわけじゃないのかも。だってどう見ても牢屋だし。ああほら、どこかで読んだことがある。身分が高い人は牢屋も豪華だったとか。何か悪いことをして閉じ込められているのかな。

 一通り予測を立てながら、じりじりと立ち位置を変え、ベッドの中を覗き込もうと試みる。

 犯罪者かな。怖い人だろうか。強面の大男だったらどうしよう。今は寝ているかもしれないが、いざ起きた時の心構えとして、確かめておきたい。ベッドの上の人物は、どうやらだんごむしよろしく丸まっているようだ。結局私はベッドサイドまで近寄り、斜め上から覗き込むしかなかった。より悪臭がきつくなる。

 匂いの発生源はこの人か。なんだってこんな匂いかするんだ。私はちょっと腹立たしい思いで見知らぬベッドの住人に文句をつけた。疑問は、すぐに解消された。

 鬼だ。

 まず最初に浮かんだのはその言葉。一瞬息が止まった。

 怖いものから目を反らせない性分の自分は、最初の衝撃が引いていくまでずっと動けなかった。

 鬼じゃない。人だ。

 痛いくらい早鐘をうつ心臓に耐えながら、私はだんだんと目の前の物事を理解する。

 この人、病気なんだ。だからここにいて、こんな匂いがしてる。

 良く聞けば、息遣いはひゅーひゅーと頼りない。毛布がせわしなく上下するのは、寝息のそれでなく、呼吸がままらなくて苦しんでいるからだ。鬼かと見まごうほど肌が赤いのは、全身の皮膚がくまなく爛れているから。そしてこの匂いは、この病人がなんども吐いただろう形跡を見れば察しがついた。

 その醜悪な姿の全て。呼吸音以外の音を立てる力さえない苦痛の気配。

 こんな状態の人間が、こんな場所に一人きりでいるという事実。

 わけがわからん。

 自分の身に起きたことと同じくらい、この状況はおかしい。これは違う。間違ってる。

 私は自分のきている服の裾を、力任せに破る。切れ端で顔の下半分を覆って即席のマスクにし、自分のやるべきことを始めた。



 どれくらいの時間が経ったのかは分からなかった。

 気づくと、汗だくになってベッドの下をブラシで擦っているところに、先ほどの男がやってきた。男は私を見ると、また声をあげたが、もちろん私は何を言っているかわからない。そのまま立ち尽くしていると、忌々しそうに何事か喚いて帰っていく。

 何だったんだよ…と私が掃除を再開すると、今度は年配の女性が現れた。

 髪をひっつめ、白い頭巾と口元に覆いをしている。細い糸のような皺のある目が牢の中をなめるように伺い、最後に私の方を見て何かを言った。落ち着いた声だ。私はダメ元で返した。

「すみません、私言葉わかんないんですけど」

 女性が黙る。しばし沈黙が落ち、それから私には見えぬ廊下の奥に向かってなにごとか呼びかける。

 言葉が分からないのは困ったな。とりあえず、掃除をしたのは正解だったみたいだけど。

 ブラシ片手にそう思っていると、先ほどの呼びかけに答えたように、別の二人の女性が現れた。年配の女性と同じような服装をしているが、もっと若いようで、荷物を積んだカートみたいなものを引いている。

 一人が地下牢の鍵を開け、もう一人はカートを入れる。

 飾りのついたカートは、高級ホテルでルームサービスをとる映画の一場面を思い起こさせ、やっぱりあそこで寝ている人はお金持ちか身分が高い人なんだ、と確信するものがあった。なにせ掃除をしていてわかったが、ベッドの向こうにはこれまた綺麗なトイレもバスタブもあったのだ。

 私が自分の推理に納得していると、ガシャン、と聞き覚えのある音がした。

 あれ?ちょっと待って。あなたたちまた鍵しめたの?

 あっけにとられた私に、荷物を置いて手ぶらになった二人の女が、鉄格子越しに口を開いた。

「え、なに。どれ?これ?床をもう一度ふくの?」

 女は口々にカートの方やベッドの上を指して何か言っている。こちらも必死に意図を理解しようと努めてはいるのだが、相変わらず彼女たちの言葉の響きからは何も汲み取れない。

「腕?腕をどうする…。あ、この人の腕?この人の腕をふくの?」

 伝わらないことに腹が立つのだろう、若い女二人が鬼のような形相で自分たちの腕や顔をゴシゴシとふく仕草は、まるで怒れるゴリラだ。

 私がカートの下段に置かれた湿ったタオルの山から一枚を取り出して、ベッドの住人をふく仕草をすると、やっと二匹の雌ゴリラは鼻息を一つ吹いて黙った。

 というか、実際に実践して見せてくれればいいのに。

 私はなんともいえぬ疲労感と共にそう思ったが、彼女たちはあっという間に廊下の奥に消えてしまった。年配の女性も、何か言い置くように喋ってから立ち去る。

 だから何言ってるかわからないんだけどな。

 せめてさっきの二人みたいにボディーランゲージして欲しい。そう考えながら、カートの中身を確認すると、ありがたい事に食べ物や飲み水の入ったポット、たくさんの布や薬品のような匂いのする缶など、病人に必要そうなものが一通り入っていた。ふむ、やっぱりセレブだ。

 確信して、私はベッドの方へ向き直る。

「やれやれ、夢なら早く覚めてほしいもんだよね。こんなわけわかんない状況、せめて夢オチじゃないとやってられないし」

 勤めて気楽なことをしゃべってみたが、当然返事は返ってこない。

 私が喋るのをやめると、再び、ひゅうひゅうという切なげな息遣いが静かな牢内に響く。

「さて、じゃあ体を拭こうか。痛いかもしれないけど、我慢ね。ここさ、絶対衛生上よくないから。さっき死ぬ気で掃除したけど、体に悪い菌がうようよいそう。この布ね、アルコールっぽい匂いがするから、多分殺菌目的なんだと思うよ。ね、じゃあこっちの腕からいくねー。あっ、これうつる系じゃない、よね…。まあ大丈夫か」

 私をここに連れてきた男は何の対策もしていなかったし、女三人は布で顔を覆ってはいたが、手袋の類はつけていなかった。そもそも、世話させる人間をいちいち感染させるような効率の悪い方法を取るとも思えない。バカじゃなければ。詮無いことなので深くは考えず、私は病人の腕を取る。

「ほんとはさ、絶対夢じゃないだろうって気はしてるんだ。こんなに感覚リアルすぎってないよ普通。でもね、もしこれが現実ならもうどうしようもないし。とりあえずどうにか生きていくしかないでしょう」

 どうやったらここまで崩れるのか。というほど、病人の皮膚は熟れたプラムのような色と質感で、痛々しいことこの上なかった。多分床ずれも起きていると思う。おまけにさっきの悪臭とは別の嫌な匂いもする。とにかく、全身酷い。怪我なのか出来物なのか、ところどころイボのようなものもあり、まさしく子供が号泣間違いなしの鬼のバケモノのようだった。

「ああ、だからあの二人、中に入って来なかったのか。怖がってんのね」

 私は病人をもう一度見下ろした。

「あなたのどこが怖いんだろうね。たくさん吐いて、喋れないくらいつらくて、痛くて、起き上がれもしないのにね」

 掃除をしている間中、苦しそうにただ息を吸って、震えているだけだった。

「大丈夫だよ」

 わかりもしない相手に語りかける。勝手に共感しているのかもしれない。ある日目が覚めたら突然地下牢で掃除をさせられている自分と、そこで死にかけている相手。二人とも、目下の目標は生きることなんじゃないだろうか。

 ひとまず、生きる。

 それから先のことをちゃんと考えよう。

 知らない人間の死にかけた体を丁寧に拭きながら、私は我ながらあっさりとこの新しくて奇妙な世界を受け入れることにした。

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