第7話 外道魔術とハジメテの契約

      ◇


 フリードに師事することになり、魔術の素質を調べるとかいって身体中を色々と弄られた忌々しい夜が明けて、私は目を覚ました。

 どこかから小鳥の囀りが聞こえ、カーテンの隙間から除く陽光が眩しい。

 昨夜のうちに移動させられたのか、そこはフリードの寝室ではない、知らない部屋だった。


「ん……」


 まだ痛む身体を気遣いながら大きく伸びをする。

 顔を洗おうと、室内にある洗面台に向かうと、そこには、身体のあちこちに歯形をつけられ、首や手足に包帯を巻いた、痛々しい姿の少女が立っていた。


(――ん?ああ、これ、私か……)

 昨日のうちに色々と諦めていたせいか、大した感想も浮かんでこない。


(とりあえず、代償は支払ったんだし、魔術くらいはきちんと教えて貰わないと……)

 そんなことを考えながら、ぼんやりと歯を磨く。

 すると、コンコン、と遠慮がちなノックが聞こえた。

 

 なんとなく、それはフリードのものではない気がして、返事をしてからドアを開ける。

 そこには、ゴシック調のドレスに白いエプロンを身に着けた少女が立っていた。

 銀色の髪で目元が覆われていて、黒いベールを被っているため表情が見て取れない。背格好的には十四歳位に見える。


 少女は無言で、お盆に乗った暖かいハーブティーと、着替えを差し出す。そうして、蚊の鳴くような声で『朝食の用意が下に』と囁くと、スカートの裾を摘まみ上げて、ぺこりとお辞儀をしてから去っていった。


(あんな小さな女の子にメイドの真似事をさせるなんて。確かに似合ってるし可愛いとは思うけど、あいつも大概いい趣味してるな……)


 若干呆れながらハーブティーに口をつける。蜂蜜のいい香りとその甘さに、身体が癒されていくのを感じる。

 渡された黒いノースリーブのワンピースに袖を通しながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると、再び腹の虫が鳴った。

(昨日、結局クッキーしか食べてないもんなぁ……)

 リビングにはあいつがいるかもしれないが、気にしていたらいつまでたっても朝食を食べられないので、諦めて下の階に降りることにした。



 部屋に入ると、フリードはソファーに腰かけ、新聞のようなものに目を通していた。昨日はしていなかった、銀の縁取りの付いた細身の眼鏡をかけている。

(――老眼?まぁ、どうでもいいか)

 ぼんやりと、そんなことを考えながら食卓につく。


 机の上には、蜂蜜がたっぷり塗られたトーストに、小さなサラダ、ベーコン、オムレツ、隅にはプリンが置いてあった。甘党の私には、正直嬉しいラインナップだ。

 まだ暖かい朝食を少しずつ口に運んでいると、先ほどのエプロン姿の少女が出てきて、口元に笑みを浮かべてこちらを見てきた。


「マホ。家のことで困ったことがあればシルキーに言うといい。あと、シルキーが朝食の感想を気にしている」


 不意にフリードに声をかけられ、思わず身体がビクつく。そんな私を心配するように、エプロン姿の少女が顔を覗き込んできた。


「あなたが……シルキー?お、美味しいよ。甘いの好きだから、嬉しいし」


 戸惑い気味に答えると、少女は嬉しそうにコクコクと頷いた。


「シルキーは家に憑く魔族だ。私が越してくる以前から、この家に住み着いていてな。家事をするのが趣味というか生きがいなので、そのままにしている。快適に暮らそうと思うなら、仲良くして損はない」


(家に憑く――魔族?人間じゃないのか)

 フリードの変態趣味がそこまで極まっていなかったことにどこかホッとしながら、シルキーに挨拶をする。


「よろしく、シルキー」


 シルキーはさっきより一層嬉しそうにコクコク、と頷いてから紅茶のお代わりを淹れてくれた。


「朝食が済んだなら本日の魔術指導を行う。こちらに来なさい」


 腰かけたままのフリードに声を掛けられ、まだ熱い紅茶を一口含んでから、そちらに向かう。

(いつも約束を守る気があるとは限らない、あいつの気が変わらないうちに指導を受けておかないと……)


 私はソファに腰かけている長身の美女の横に座った。

 睫毛の長い金色の瞳に、胸元まであるこげ茶の髪。透き通るような白い肌。あの目の下の隈と、いかにも低血圧そうな表情さえなければもっと綺麗だったろうに。勿体ない。


(ほんと、信じられないな……この女(ひと)が昨日の男(あいつ)と同一人物なんて……)


 そう、いまだに信じがたいが――この美女もフリードだった。

 女装などではなく、本当に女性の姿をしている。

(変身能力とか、マジで意味わかんないし……)


「昨夜はよく眠れたか?身体を調べている途中で意識を失ったので、別室に寝かせたのだが」


 そう話しかけられ、私はおずおずと返事する。


「わからない。気づいたら朝だったし……」

「随分不服そうだな。昼は少々、悪乗りが過ぎた。また泣かれると面倒だと思って、夜は女の姿になったのだが。それでも怖かったか?」

「こ、こわくなんてなかったし……どっちかっていうと……痛かった」

(ってゆーか、昨日のアレが悪ノリって……ふざけるのも大概にしてほしい……)


 強がってみても、正直、昨夜は結構、怖かった。

 魔術の指導を行うにあたり、素質を調べるとかなんとかで寝室に呼ばれ、何度もキスされた挙句、何故か全身を血が滲むほど噛みつかれて、血を啜られた。更にはリッター単位で採血され、最終的には貧血で気を失うという惨劇。

 痛いのはもちろんだけど、いくら美女とはいえ、好きでもない人間にそんなことをされるのは十七年の人生で初めてだったので、怖くない訳がない。扱いも、まるで人形かモルモットのようだった。


 魔術指導に必要といくら言われたところで、セクハラパワハラ以外の何モノでもないように思ったが、夜はフリードなりに気を遣ってくれたようで、今と同じ美女の姿をしていた。

 おかげで、昼間に首を噛まれたときよりはましだったのも事実だが……

(女だと思って油断してたら、こいつ、超マッドなんだもんなぁ……)

 昨夜は様々なことが容量(キャパ)超過(オーバー)で深く考えられなかったが、よくよく思い出すと、昼間は男だった人物が、夜には女の姿になっていたのが気になって仕方がない。


「あのさ……ほんとに女なんだね?昼間は確かに男だったのに。どういう仕組みなの?」

「めずらしいか」

「当たり前でしょ?どんな変な薬使ったのか知らないけど、性別を変えるなんてありえない」

「ほう、お前のいた世界では……ありえないのか?」


 フリードは興味深そうにこちらを見る。

 テンションが上がったせいなのか、顔色が先程よりも良くなり、瞳が輝いているように見える。

 連勤明けの寝起きのおねえちゃんに、朝食がホットケーキだと告げた時も、こんな表情をしていた気がする。――そんな顔をされると、昨日ひどいことをされたにも関わらず、不覚にも親近感を覚えてしまう。


「私の世界(とこ)だと、どんなに頑張っても身体を完全に別の性別にするのは難しい……と思う」

「ほう。こちらでも私を含め、一部の人間にしか出来る芸当ではないが、自身と異性の、強力な魔族と契約すれば出来るようになる」

「じゃあ、元はどっちかってこと?どっちだったの?男?女?」

「そんなに気にすることか?元の性別などどっちだっていい気がするが……まぁ、女だ」

「今の姿が本物ってこと?」

「失礼な。どちらも本物だ。生まれた時は女だったというだけのこと。男の姿でいる方が魔女狩りにも遭わないし、何かと都合がいいので、外出する際は男のことが多いが。お前が気にするなら――この姿の時は、フリージアと呼ぶといい」


 私の常識とはかけ離れたその話に、思わず心が躍る。

(魔族?契約?魔女狩り?まさに異世界って感じ!)

 馴染みのない世界に来て、痛い思いも怖い思いもしたが、以前から漫画などで慣れ親しんでいたそれら存在を目の当たりにすると、つい浮かれてしまう。


「それで、今日の魔術の指導って?」


 魔術という未知の存在への接触に、目の前にいる奴に酷い目に遭わされたことも忘れてわくわくしていると、フリードはおもむろに私の顎を持ち上げた。


「大きく口を開けなさい」


 逡巡する。嫌な予感しかしない。さっきまでのわくわくを返してほしい。しかしここで躊躇していても、凛とアンに会える日が遠退くだけだった。恐る恐る口を開ける。

 フリージアは、自身のゆるくウェーブした髪を耳にかけると、遠慮なく舌を入れてきた。

(――やっぱり……)

 嫌な予感は的中した。舌で舌をなぞり、まるで何かを味わっているようだった。


 しかし慣れとは恐ろしいものだ。昨日のような吐き気はもう襲って来なかった。自棄(やけ)になり、色々とどうでもよくなっているとはいえ、自分の適応力の高さに呆れを通り越して賞賛すら覚える。


「ふむ、やはり甘いな」

(……さっきプリンを食べたんだから、当たり前じゃね?)


 ――にしても、自分の口の中を味見されるというのは、改めて考えると恥ずかしい。昨日捨てたはずの羞恥心が再び顔を出す。

 フリージアは、一応抵抗する私を意にも介さず『ふーむ』と何か考え事をしていた。


「昨夜散々吸い尽くしたと思ったが、一晩でこれだけの魔力回復を見せるとは。お前は何か特殊な生まれか?それとも、急に大きな力を授かったりしたことがあるか?」


(急にそんなこと言われても……)

 涙目で口を拭いながら、なんとか頭を整理する。


「あ――」


 一つだけ、心当たりがあった。


 野党に襲われた際、あのマセショタ――もとい、自称・カミサマの声が聞こえてきたことを話す。


「自称・カミサマのロ=キ・E……?神の噂なら耳にすることも多いが、そいつは聞いたことがないな。だが、仮にも神から授かったというならば、それは『ギフテッド』だろう。まさか聖女以外で、本物を目にする日が来るとは」

「『ギフテッド』?何ソレ。そんな凄いの?それに魔力回復って?」


 意味わかんない。けど、この世界の、意味わかんないことにも慣れてきた。


「教えてよ」

「ああ、お前にはそこからか……」


 呆れた様子のフリージア。残念なことに、この視線にも慣れてきた。


「お前、今、頭は働いているか?」

「それなりに」

「少し込み入った話をするが」

「大丈夫……だと思う」


 フリージアはシルキーに紅茶を頼むと、姿勢を改めて語りだす。


「まずはじめに、魔力と呼ばれるものは、生まれた時から個人に備わっていて、その量や濃度、質や味にはかなりの個人差がある。魔力は体内の至る所に存在しているが、唾液や血液などの体液はその濃度が著しく、魔術を行使する際には接吻などを用いるのが効率的だ。無論、それ以上の行為もな」


 それ以上、と聞いて動揺したのがバレたのか、フリージアは話を中断する。


「クク、意外と初心(うぶ)なのか?続けて大丈夫かな?」

(こいつ、舐めやがって……)


「へ、平気!続けて!」


 冷やかされてむきになった私は話を急かす。


「はいはい。――で、我々魔術師はその魔力を以てして術を行使する訳だが、使うなり奪われるなりすれば、当然魔力は減っていく。消耗した魔力は自然に回復していくが、その回復力にもまた個人差がある。お前の持つ魔力は、量が多く、濃度、質共に良い。昨夜散々口づけたのは、それらを確かめる為だ」

「なんだ。セクハラじゃなかったのか。――ん?それ、噛みつく必要あった?」

「特にないが。せくはら――は知らないが、契約している魔族の影響で、柔らかい肉を見るとつい血を啜りたくなる。趣味のようなものだ。まぁ、授業料だと思って、許せ」


(やっぱセクハラじゃん。よくもまあ、いけしゃあしゃあと……)

 そんな私の怒りは微塵も伝わっていない。フリージアは顔色一つ変えずに続ける。


「お前の魔力に関して驚くべき点は、回復速度と味だ。昨夜の時点で空(から)にしたと思ったのだが、今はもう全快に近い。私ですらゼロから全快まで三日はかかるのだから、その辺の小娘の所業とは思えない。『ギフテッド』と思われるのはそのせいだな。『ギフテッド』とは、超常的な存在から力や祝福を与えられた者のことだ」

「『ギフテッド』ねぇ……」

「もう一つ、味の話だが。基本的に魔力の味は普通の人間には感知できない。しかし私達魔術師が契約、使役する魔族らは魔力の味に関して人間の百倍以上の感度を持っている。簡単に言えば、お前のように美味い魔力の持ち主は魔族に好かれやすい、ということだ」

「私のが、美味しい……?」

「うむ。甘い。例えるなら、蜂蜜とか花の蜜のような感じだな」

「それ、さっき私が食べたトーストの味じゃなくて?」

「昨夜も同じ味だったぞ?」


 昨日も食べた、みたいに改めて言われると、ちょっと屈辱的だ。思わず顔を逸らして舌打ちする。


「ちょっと待って。なんであんたは味がわかるの?人間にはわからないって言ったじゃん」

「あんた、ではない。そうだな……今日から師弟なわけだから、先生、マスター、師匠。好きな呼び方を選ばせてやる」 


(えっ。どれもイヤなんだけど……)

 躊躇していると、ニヤつきながら顔を近づけてくる。


「おねえちゃん、でもいいぞ?昨夜はうわごとのようにそう呟いていたからな?」


(げっ。私そんなこと言ってたのか。――絶対イヤ)


「続きをお願いします。師匠」


 即答する。つれないなぁ、というように鼻をならすフリージア。


「――味がわかる件についてだが、私の魔力もまた、味が良いからだ。魔族の者曰く、並みの人間の魔力はまずいというより、無味らしい。だが、私やお前のように、優れた魔力の者は味がある。自身の魔力に味があるということは、その味を知覚することに慣れている、とも言えるからな」

「ふーん。師匠のはどんな味なの?」

「昨夜のでわからなかったか?」

「それどころじゃないの、わからなかったの?」

「質問に質問で返んすじゃない。まぁ、よく言われるのはブランデーだな」

「酒じゃん」

「酒だ。私が上位の魔族と契約できて、魔術師としての腕がいい要因のひとつだな。魔族は皆酒が好きだ。天使はそうでもないらしいが」


 天使というおとぎ話の存在に思いがけず胸がときめく。存在するなら、是非会ってみたい。私がうずうずしていると、師匠はおもむろに立ち上がり、ぬるくなった紅茶を飲み干した。


「座学はここまでだ。付いてきなさい」


 そう言って玄関に向かい、猫を呼ぶみたいにちょいちょいと手招きをした。

 なんだか完全にナメられている気がして苛ついたが、こいつの人を小ばかにしたような態度に逐一イラついてたら身がもたない。私は我慢してフリージアの背中を追った。

 いつか見返してやると心に誓いながら。

 

 屋敷の裏庭に案内されると、そこには色とりどりの草花や薬草が咲いていた。魔術師の屋敷というので、てっきり鬱蒼としたものだとばかり思っていたが、意外にも手入れが行き届いた美しい裏庭だった。


「――見ろ。ベラドンナだ」


 フリージアの指さす方に視線を向けると、薄紅色をした花畑の中心に、少女のような姿をした生き物がいた。

 真っ白い肌に薄紅色の長い髪。胸元と腰を同じ色の花弁で隠している。目を凝らしてよく見ると足は無く、腰から下の花弁の下は植物の茎の様に、地面から生えているようだった。

 ベラドンナと呼ばれたその生き物は、花の香りを楽しむようにゆらゆらと揺れていた。

 私が奇妙な生き物との邂逅にただただ驚いていると、フリージアはおもむろに私の背中を花畑に向かって押し出す。


「ものは試しだ。契約してみろ」

「ちょ、どうやって?契約って何?」

「我々魔術師が魔族と契約すれば、必要な時に魔族の力を借りることができる。協力を得る代わりに我々は、魔族が生きるのに必要な魔力を提供する。『呪(のろ)イノ絆(ほだし)』契約と呼ばれる、魔術のひとつだ」

「それってつまり……ギブアンドテイクな召喚術?」

「ぎぶあん……?――は知らんが。お前、召喚術を知っているのか。厳密には異なるが、一度契約すればどこにいても呼び寄せられるという点では似ているな」


 元の世界でソシャゲをしていたのが幸いし、なんとか理解はできる。

 しかし、具体的にどうしたらいいかは全くわからない。


「――で、何すればいいの?」

「魔力をベラドンナに譲渡するんだ。ベラドンナがお前の魔力を気に入って、今後も摂取したいと思えば契約を許されるだろう」

「契約を許される……」

「そうだ。契約を結ぶ上で、魔術師と魔族は対等だ。だが、人間も魔族も色々いるからな。魔族を使役していると勘違いする人間もいれば、人間は餌だといって家畜扱いする魔族もいる」

「魔術師と魔族は平等……」

「そうだ。お前が優秀な魔術であろうと思うなら、ゆめゆめ忘れるな」


 正直フリージアのその言葉は意外だった。真っ当なことを言っているように思えたから。

 今まで、フリージアは金の為ならなんでもする、悪い魔術師だと思っていた。しかし、今の言葉に嘘はなさそうだし、シルキーをはじめ、魔族に対する姿勢はどこか優しいように思える。

 それとも、それすら演技なのだろうか。私にはフリージアがよくわからない。


「どうした?何を呆けている。ベラドンナは待ちわびているぞ」


 声を掛けられ、ハッとする。ベラドンナの方を見ると、私のことを、期待するように見つめていた。本当に、私を待っているかのようだ。

 ベラドンナに会うのは今日が初めてだし、私が何かした記憶もない。

(なんでそんな、私に期待を……?)


「ねぇ、どうしてベラドンナは私を待ってくれてるの?私、何かしたっけ?」

「お前から美味しそうな匂いがするんだろう。朝も言ったが、魔術師の力量は魔力の質で決まると言っても過言ではない。その点、私もお前も恵まれているからな」

「じゃあ、なんで師匠じゃなくて私なの?」

「ふむ。よく気が付いたな。実は、昨夜お前から抜き取った血を精製して庭に撒いておいた。ベラドンナはその、お前の魔力の香りに誘われて来た。好みなんだろう」

「魔術師は、魔力が美味しいとモテるから優秀……?」

「身も蓋もないがその通りだ。よかったな。ベラドンナは大人しくて優しい種族だ。初契約にはうってつけだぞ?」

「えっと……契約してもらうには、魔力をあげる……んだっけ?」

「ああ。接吻でも吸血でも構わない。好きにしろ」


 フリージアにそう言われ、私はベラドンナに近づく。ベラドンナは両腕を後ろで組んで、機嫌が良さそうに左右に揺れていた。揺れるたびに甘い花の香りが辺りに漂う。

 私はベラドンナの前に立ち、戸惑っていた。


「キスか吸血か選べっていわれてもな……」


 フリージアのせいでキスすることに耐性はついていたが、全て昨日今日の出来事だ。少しは抵抗がある。どちらかというと血を分けてあげる方が無難に思えた。

 私はフリージアに持たされた小さなナイフを取り出し、自分の指を傷つけようとする。


 すると、ベラドンナは私の手を両手で包み、首を横に振ったのだ。


「――え?ダメ……なの?」


 驚いてそう尋ねると、ベラドンナは優しく微笑んで私の手を唇に持っていく。


「そっちがいい……ってこと?」


 少し戸惑っていると、フリージアが口を開く。


「ベラドンナがそう言うなら接吻の方がいいんじゃないか?本来、彼女達は血生臭かったり暴力的なことは好まないからな」

「そっか……」


 少し抵抗はあるものの、ベラドンナが綺麗な顔をしているからだろうか、別に嫌というわけではなかった。それに、彼女からはなんだかいい香りが漂っている。

(優しいから、そう言ってくれるんだもんね……)

 私がそんなことを考えていると、ベラドンナは私の首筋に顔を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ始める。ふわふわと風に揺れる薄紅色の髪の毛がくすぐったい。

 ひとしきり匂いを嗅いで満足したのか、ベラドンナは私に向き直るとにこにこと笑顔でこちらを見つめていた。ひょっとすると、ベラドンナにとっては、私の魔力が良い匂いに感じるのかもしれない。


「あんまり焦らすと嫌われるぞ」

「わかってるよ……余計な茶々入れないで」


 フリージアは、初めての契約に緊張して戸惑う私を見て、にやにやしている。授業参観でもあるまいし、いつまでもああして見られているのはなんだか癪だ。

(大丈夫。なんてことない。一思(ひとおも)いにやってしまおう)


 私はベラドンナの頬に手を添えると恐る恐るその唇にキスをした。

 昨日教えられたとおりに、少しだけ舌を入れて唾液を受け渡す。ベラドンナは大人しくそれを受け取った。


 唇を離すと、ベラドンナはにこりとし、花が咲いたように笑った。始終にこにこはしていたのだが、それは間違いなく、一番のいい笑顔だった。

 その笑顔になんだか私まで嬉しくなり、つられて私も微笑む。

 そうしてしばし和んでいると、ベラドンナは私の右手を掴んで人差し指に唇を触れさせた。ゆっくりと離された人差し指をみると、爪の部分に花の形をした紋章の様なものが浮かび上がっている。


「これは……」

「『妖魔の許し』だ。それは契約の証。ひとによっては『悪魔のくちづけ』や『精霊の祝福』と呼ぶ者もいる。無理矢理契約させられたとか、一方的に協力を得たとか、理由は多々あるようだが、根本的には同じものだ。なにはともあれ、契約は成功だな」


 私はベラドンナの方を振り返る。ベラドンナは私に向かって肯定するようにこくこくと頷くと、次の瞬間、大量の花びらに包まれて姿を消した。

 その場に紫色の一輪の花が残る。


「ライラック……花言葉は『大切な友達』。お前、随分と気に入られたようじゃないか」

「お礼、言い忘れちゃった……」


 私が何とも言えない達成感に包まれてぼんやりと立っていると、フリージアがやってきた。おもむろに私の頭を自分の胸に押し付けると、優しい手つきで頭を撫でる。


「わっ……ちょ、なに……」

「まぁ上手くいかない理由はなかったが、初めてにしては上出来だ。ベラドンナを、よろしく頼む。彼女達は恩を仇で返す様な種族ではない。真摯に向き合ってやってくれ」


 その声は、今まで聞いたことのない優しい声だった。


(うう……調子狂うな……)

 昨日まではあんなに悪い奴だと思っていたのに、私は現金な奴だ。ちょっと優しくされただけで、なんだか少し、気を許してしまう。


「――そうだ。師匠、屋敷に花言葉の本ってある?」

「地下の書庫にあるが……」

「あとで貸して。ベラドンナのいいたいこと、わかるようになりたいから」

「――驚いたな。お前、そんな表情ができるのか」

「え?なに?」

「頬の筋肉が緩んでいるぞ」


 知らぬ間に私は微笑んでいた。思わずほっぺを触る。

 力を得られたことは勿論、それ以上に自分が誰かに認めてもらえたことが、私は嬉しかったようだ。

 なんだか気恥ずかしくなって、フリージアの手を振り払う。


 それに、『そんな表情ができるのか』はこっちの台詞だ。

 魔族に関する話をするときの優しい表情と、金の為なら野党にも手を貸す非道さ。どちらがフリージアの本当の姿なのだろうか。

 私が再びぼんやりしていると、フリージアは屋敷に向かって歩き出す。


「少し疲れただろう。午後は休むといい。昼食、茶菓子が欲しければシルキーに言いなさい」

「あ、ありがと……」


 思いがけない気遣いに少し驚く。礼を言いかけていると、何か忘れものをしたのか、『ああそうだ』とフリージアは振り返った。


「夜の指導は私の部屋で行う。例え魔力が極上でも、お前の技量では、上級の魔族をモノにするのはまだまだかかりそうだからな。私が直々に教え込んでやろう」


 そう言い放つと、薄笑いを浮かべて屋敷に戻っていった。


(ほんと、アゲてから、サゲるんだよなぁ……)

 さっきまでの優しい表情は何処へいったのか。再び絶望する。


 あの薄ら笑いから察するに、どうせ碌な指導ではない。昨夜の惨劇を思い出す。

 まだ塞がっていない首元の傷口が疼き、身体がぎしぎしとこわばるのを感じた。


「うう、逃げちゃダメだ……ここに居ればいいことだってあるし……」


 私はライラックの花を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟く。

(痛くても……大丈夫……大丈夫……)

 確実に力は身についている。今は、もっと力をつけて、生き延びないと。マナバーストの対処法も、『お前にはまだ早い』と言われ、結局教えて貰えていない。

 凛とアンに再開するためにも、今はただ、目の前のことを乗り越えていくしかない。

 どんなに痛くて、辛くても。ふたりの力になるために。


「強く、ならなきゃ……ダメだ……」


 私はその言葉を、何度も何度も、呪文のように呟いた。

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