噴水
ほりこし
噴水
あの出来事が一夜の夢か、寒さの中で見た幻覚であったならどれ程良かっただろうか。
夕暮れはとうに過ぎていた。皇城を覆う空は深い縹色で星ばかりが輝き、初冬の澄んだ夜の中で帝都のビルディングは海底の秘宝であった。大通りを往く車のヘッドライトが文明をしめやかに照らしていた。
私は大学の友人である綾子と帝国劇場で或るフランスを舞台とした芝居—それは男女の愛憎渦巻く血みどろの物語であった—を観終え、日比谷公園の方向に歩いていた。
髪をなぶる風は身も凍る程に冷たい。私は外套の襟を整え、襟巻を締め直した。綾子は私に身を寄せ、触れ合った腕から温みが伝わって来た。
「今日はいい日だったわ。偶々だったけれど、貴方とお芝居が観られて」
「君が来てくれてよかったよ。チケットが無駄にならずに済んだ。それにしても咲子の奴、一体どうしたんだろう」
「咲子さんは急な用事が出来たそうよ。それで私に、代わりに行ってあげて欲しいって」
「うん。にしたって1時間も待たせて、おまけに僕に連絡の一つも寄越さないなんて」
「きっと本当は嫌われてんのよ、あんた」
綾子の言葉は私の胸の中で嫌な響きを立てて谺した。私が咲子の事を少なからず好いているという事を綾子はおそらく女特有の勘で悟っているのだろう。最後の言葉の後、綾子の口元が妖しげに微笑したのを私は見逃さなかった。
ホテル・ペニンシュラの前の大交差点を渡ると日比谷公園の入り口であった。私達は平日や休日、昼や夜などの感覚に縛られぬ大学生だけが持つ特権の気楽な足取りで公園に足を踏み入れた。
公園の中は、外とはうってかわって緑の香りで満たされていた。葉の落ちた樹々の頭上に望まれる都心は、それが蜃気楼であると見紛う程遠くにあるべき光景に思われた。一歩踏み出す毎に枯葉が切ない、しかし何処かメロウな音を立てた。斯様な場所に、友人とは言え、女性と二人でいるという事に、今更私はどぎまぎした。白い明かりのついたテニスコートの方から虚ろな笑い声が聞こえた。
真ん中に一羽の鶴の像が立っているこじんまりとした物寂しい池や、異国の偉人の銅像—彼はさる異国の独立運動の英雄であるらしい—などを廻ると何時しか西洋の庭園を思わせる瀟洒な広場に出た。季節が来ればさぞ華やかに咲き誇るであろう花壇の周りのベンチには何組かの老若の男女が睦まじげに腰掛けている。
綾子が口を開いた。
「まるで私達、恋人みたいね」
私はどう応えて良いのか判らなかった。何故と言って、そう言った綾子の口振が妙に意味ありげに—私の応えることの叶わぬある種の願いである様に—感じられたので。
星は一層、却って不気味なまでに煌めいている。私はそこに女がその裏側に偽りの秘密を隠すeyeshadowを見た。……
私達は黙ったまま歩みを進めた。
広場を抜けると、石造りの水溜りが現れた。それは普段なら夜になると時間毎に緑や青、紫などにライトアップされる噴水であった。然し今は放水は止まっているらしく、鮮やかな赤に色づいた水が静かに揺らめいているだけであった。強い光の所為で底までは見通せず、水は濁っている様にも見えた。
「この時間はもう放水はしていないのかな」
「そうなのかもね」
彼女の声音は妙に強張っていた。
「こんな真っ赤にライトアップされているのだから、水が出ていたらさぞ綺麗だったろうね」
彼女はもう何も言わなかった。赤い光の波紋が彼女の顔を照らした。不自然なまでに鮮やかな赤色が女の顔を夜の闇の中に映し出した。私はそれを見ると何故か恐ろしさを感じて、真冬であるにも関わらず嫌な汗が噴き出した。
—その後私達は大した会話もせぬまま、日比谷の駅で別れた。
別れ際に綾子は言った。
「ねえ。私貴方とお知り合いになれて良かったわ。本当よ。」
「急にどうしたの。まるで今生の別れみたいじゃないか」
「ねえ、聞いて……。私、ずっと黒島さんが羨ましかったの。いつも貴方の側にいられて。……」
私は何も返せなかった。暫く考えて、辛うじて
「君の事だって良い友達だと思ってるよ」
「そう。……ありがと」
「じゃあ、また」
彼女は何も言わなかった。
翌日、講義室には咲子の姿も綾子の姿もなかった。
昼になって学生食堂に行き、一人で昼食を食べていると、店内テレビの大画面にニュースが映し出された。
「日比谷公園の噴水の中から刺殺死体が発見されました。殺害されたのはw大学に通う黒島咲子さん。警視庁は出頭した同大学の西崎綾子容疑者を殺人の疑いで取調べています」
私は酩酊したように頭がクラクラするのを感じた。
窓の向こうの空遠く、烏の群が通り過ぎていった。……
噴水 ほりこし @hori_kikurage
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