第8話 電話での会話

 愛理はスマホの着信を見て硬直したまま、応答することも拒否することもできず、着信が切れるまでじっとスマホを眺めた。

 一度目の着信が切れ、ホッとして忠太郎に送るラインの文章を考えていると、再度スマホが鳴る。


 またもや大樹からだった。


 今さら、愛理に何の用があるのか?何を愛理と話そうと言うのか?

 るりと愛理は仲良しという訳ではないが、全く知らない仲という訳でもない。るりと関係を持っておいて、愛理にまだ連絡ができる神経がわからなかった。


 愛理の大樹への気持ちは、昨日忠太郎の上着に染み込んだ涙の分だけ軽くなっていたし、もうやり直して欲しいなんて感情は微塵もない。

 あんなに好きだと思っていたのに、今は熱病から覚めたように大樹に何であんなにこだわっていたのかわからなくなっていた。

 第一、もし大樹と初Hを体験しなければ、大樹とは付き合うこともなかっただろうし、まず普通にしていて接点を持とうと思わない人種だから。


 愛理は、忠太郎の電話番号をメモると、スマホの電源を落とした。


 この行為が、大樹を激怒させ、愛理に執着する原因を作ってしまったのだが、愛理はそんなことになるとは露程も思っていなかった。


 大樹にしたら、愛理は格下も格下。自分を無下になんてできる筈もなく、最後に一回くらい相手をしてやろうと、合コンの前に自分のテンションを上げるために連絡したのだ。それが、まさか電源をオフられるとは……と、自分勝手に怒り狂っていたのだった。


 家の電話を使おうとリビングダイニングに行くと、さっきまで洗濯物を畳んでいた母親はいなく、テーブルの上には、綺麗に畳まれた忠太郎の上着が置いてあった。


 母親がいないことに少しホッとしつつ、愛理は家電の受話器に手をかけた。


 昨晩のお礼を言って、迷惑をかけたことを謝って、洋服の返し方を尋ねる……と、頭の中でシミュレーションしてから番号を押す。


 スリーコールで、忠太郎が電話に出た。


『はい? 』


 知らない番号からだからだろうか、多少硬い忠太郎の声が受話器から響く。


『武田さんの携帯で間違いないでしょうか? 私、松岡愛理です』

『ああ、愛理さんか。知らない番号だったから、誰かと思った』

『昨日はご馳走さまでした。あの、私飲み過ぎてしまって、ご迷惑をおかけしちゃって、本当に申し訳ございませんでした』

『アハハ、なんかえらく丁寧だね。二日酔いにはなってない? 』

『はい。気持ち悪かったりとかはないです』

『じゃあ、思った以上に愛理さんは酒が強いのかな』


 穏やかな忠太郎の口調は、聞いていて耳に心地よかった。見た目怖い(不思議? )感じなのに、ちょうど良い低さのバリトンボイスと、ゆったりとした優しい喋り方で、良い意味でギャップがあった。

 男性の友人というものが存在しないから、比べる相手が大樹しかいないのだが、愛理の言葉を遮るような大樹の自分勝手な喋り方や、上から押さえつけるような喋り方しか知らなかった愛理にしたら、まるで家族と話しているような安心感を覚えた。


『そんなこと……。美味しいお酒 だったからです。きっと』

『じゃあ、また付き合ってくれると嬉しい』

『私で良かったらいつでも……。あの、私寝てしまって……、お洋服を汚してしまったみたいで』


 ヨダレをたらしたなんて、恥ずかしくて口に出せなかった。


『ああ、目は大丈夫? あんなに泣いたら、今日は目がパンパンになったんじゃないか? 』

『目……ですか? 』


 愛理は、壁にかかった鏡を覗き込んで、あまりに腫れ上がって、薄い二重がぼってりとした一重になってしまった自分の目に驚く。


『うわっ! 何でこんなことに?!』


 電話の向こうで、クックッと笑う声が聞こえる。


『きちんと冷やした方がいい。さすがに今回はハンカチじゃ足りないくらい泣いていたからな』

『あの……洋服を汚したのは? ヨダレ垂らしちゃったんじゃ? 』

『涙だよ。お母さんに泣いたなんて言ったら、心配すると思って言わなかったけど』

『涙……ですか。私、てっきりヨダレをつけてしまったんだと、もう恥ずかしいやら申し訳ないやらで』


 洋服を汚したことには代わりはないのだが、涙とヨダレではずいぶん違いがある。

 愛理が安堵したのを感じとったのか、忠太郎は申し訳なさそうに声のトーンを落とした。


『すまなかったかな……。年頃の女の子だし、泣き上戸だったとか、違う言い訳をすれば良かったね』

『とんでもない! 全然大丈夫です!! 武田さんのお洋服を汚してしまって申し訳ございませんでした。洗濯して乾いたみたいです』

『そうか、こっちはまだ洗濯できてないんだ。なかなか洗濯する暇がなくて。週に一回まとめて洗濯するくらいだから』

『父のシャツなんか、捨ててくださっても全然かまいませんから』


 そういえば、忠太郎が既婚者なのかどうか聞いていなかった。指輪もしていなかったし、洗濯物を週一で回すくらいなら、独り暮らしなのだろうか?


『武田さんは、ご結婚はされてないんですか? 』

『残念ながら、機会がなくてね。だから、掃除も洗濯も一人でやらないとだから、もう家はぐちゃぐちゃだよ』

『あの、私、お礼とお詫びも兼ねまして、お掃除とかお洗濯に伺ってもよろしいでしょうか? 』


 感謝の気持ちから出た言葉だったのだが、忠太郎の言葉にならない躊躇いが伝わってきて、愛理は「はしたないことを言ってしまったのでは?! 」と、パニックになる。


『あの、その、出過ぎたことを言ってしまって! 男性の独り暮らしのお部屋にお邪魔しようとするなんて、非常識な娘だって思われますよね。それに、彼女さんにしたら、不愉快このうえない話しでした』

『いや、彼女もいないからそれは問題ないんだが、誰にも彼にもそんな人の良いことを言っていたらと思ったら、人様の娘さんながらちょっと心配になっただけで』

『誰にもとかないですから。武田さんだからです』


 忠太郎は、その言葉の意味を勘違いしそうになり、久しぶりに鼓動が速くなった気がした。


『武田さんは紳士ですし、私なんか子供にしか見えないですよね。一緒にいても安心感があるっていうか……』

『ありがとう。でも、はダメだな。愛理さんはきちんとしたお嬢さんだし、十分魅力的な女性だから、危機感はちゃんと持っていた方がいい。だからって、俺が君に危害を加えようとかはないからね』

『もちろんです! 』


 そこを即答されると、逆に忠太郎が男として見られていないのでは? という疑問が湧かないでもなかったが、人の良い愛理のことだから、他意はないのだろうと受け取った。


『掃除と洗濯とかをしてくれるのは正直助かる。本当に頼んでいいのだろうか? 』

『もちろんです。あの、お住まいは? 』


 住所は、前にもらった名刺に書いてあるということだった。てっきり会社の住所だと思っていたが、住まいも兼ねているらしい。

 後で調べて分かったが、バスと電車を乗り継げば、愛理の実家から二十分くらいでつく場所だった。


 とりあえずお昼に約束をし、愛理はそれまでひたすら目を冷やし続け、家を出る時には、何とか二重が薄ぼんやりと復活するくらいには戻っていた。


 ★★★


 住所にあったビルは、住宅専用というよりは、多数の会社が集合して入っている雑居ビルで、一階のテナント一覧を見ても、個人の住宅は書いていなかった。


 愛理は、そこで初めてスマホの電源を入れ、忠太郎に電話を入れると、忠太郎はすぐにエレベーターで下りてきた。


「やあ、早かったね」

「ええ。乗り継ぎがうまくいったんで」

「そう。じゃあ、上なんだけどお願いできるかな」


 エレベーターに乗り、忠太郎はRボタンを押す。


「屋上ですか? 」

「そう。帰るのが面倒でね、屋上のプレハブを借りて、そこで住んでるんだ」

「ペントハウスですね」

「……まあ、そんなお洒落なもんじゃないけどね」


 忠太郎は若干口ごもりながら、ついたらわかるよと言った。


 屋上につくと、エレベーターを下りて重いドアを開けて外に出た。風が強く、思った以上に涼しい。


「ここはね、回りに高いビルが多いから風が強いんだ。おかげさまで、洗濯物は一瞬で乾くけどね」


 屋上の出口の横に、倉庫のようなプレハブが建っていた。窓は小さく、換気のために上の方についているだけで、よく体育館の横にある道具置き場のような物だった。


「ここね」


 そのプレハブの引き戸を上げると、十畳くらいの一間で、置いてある家具はベッドと勉強机のようなものが一つ。床は衣類や紙などが散乱し、流しがついているがキッチンなどはなかった。

 物がないのに雑然とした様子に呆気にとられ、愛理はしばらく声を出せずに部屋を見ていた。


「その、住もうと思わず住みついちゃったものだから、収納とか皆無で。トイレは会社まで下りていって使うし、風呂は簡易シャワーが会社にあるから、それで使ってて。洗濯はコインランドリーに。えっと、こっちは着てない洋服で……いや、着てるかな? 」


 忠太郎は匂いを嗅いで首を傾げる。


 デザイナーでお洒落なイメージが、ガラガラと崩れる。しっかりした大人の男性だと思っていたが、どうやら日常生活はかなりズボラでいい加減らしい。


「あの! 掃除始めてもいいですか」


 愛理のやる気がムクムクと湧き上がる。


「もちろん。でも、落ちている紙は捨てないで。大切な書類もある筈だから」

「了解しました」

「じゃあ、俺は下で仕事してていいかな? コインランドリーの場所はわかる? これ、洗濯のお金ね。足りなかったら後で言って」

「はい、来る途中で見かけましたから」


 忠太郎から二千円預かると、愛理はきちんと畳んでポケットにしまった。


「この中、かなり暑くなるから、エアコンつけてね」

「はい」


 愛理は、靴を脱いでプレハブに入ると、まずは床に散らばった物の分別から開始した。

 明らかに捨ててよさそうなペットボトルや、お弁当のから箱はゴミ袋へ、紙類はゴミかゴミじゃないか判別できないから、違う袋にまとめる。洋服は、とりあえずベッドの上に置いて、後で洗える物とクリーニングに出す物を分別することにした。


 テキパキと働き出す愛理の後ろ姿を、忠太郎は穏やかな表情で見つめていたが、とにかく今は仕事をしなければと、プレハブのドアを閉めて会社のデザイン部に戻った。

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