第六話

 翌日、リリィは早速朝の掃除を始めた。

 ダベンポートはどうやらリリィがいない間ロクなものを食べていなかったらしい。生ゴミがほとんどない。紅茶の茶殻はいつものようにたくさん出ていたが、残飯と言えるものは牛肉のスジが少し捨ててあるくらいだ。

(やっぱり、わたしがいないとダメなんだわ)

 こんな食事ばかりしていたら早晩身体を壊してしまう。

(今日はご馳走にしよう。何がいいかな……)

 どうやら旦那様は肉ばっかりを食べていたようだ。

(じゃあ、お魚かな。鶏でもいいかも知れない。庭の行者ニンニクワイルド・ガーリックが旬だからガーリック・チキンなんていいかも)

 今日の献立を考えながらリビングにハタキをかけ、窓枠に雑巾をかける。

 開け放った窓から吹き込む風が心地よい。春の薫り。どことなく花の匂いがする。


 リリィが朝の掃除を終わらせ、朝食の配膳を始めたところでダベンポートが起きてきた。

「おはようリリィ。今日はゆっくりしていたらどうだい? 疲れただろう」

 もっぱら自分の都合で家を空けたのにダベンポートはリリィの体調を気遣ってくれる。

 旦那様はとても優しい。

 神父様の言うとおり、わたしはとても良い方に仕えているんだわ。

「おはようございます、旦那様」

 リリィは配膳する手を止めるとダベンポートに朝の挨拶をした。

「旦那様、わたしは大丈夫です。家事をしたくて帰ってきたのですから」

 そう言ってにこりと笑う。

「ならいいが……。リリィ、無理をしないでいいんだよ。リリィがちょっと家を空けただけでこの体たらくだ。居なくなられてはとても困る」

 ダベンポートが気遣わしげに言う。

「ニャーン」

 どこからともなく現れたキキが早速スカートの中に潜り込み、リリィの脚に身体を擦りつけ始めた。朝ごはんの催促だ。

「そうね、キキもお腹空いたわね。すぐにあげるからちょっと待って」

 キキをスカートの中から追い出し、人差し指を立てて言い聞かせる。

(ああ、幸せってこういう事を言うんだわ)

 そうやってダベンポートとキキの面倒を見ながら、リリィは言い知れない幸福感を感じた。

 優しい旦那様、可愛いキキ。

 他に欲しいものは何もない。

「すぐにお茶をお淹れします」

 リリィはダベンポートにそう告げると、甘えるキキを引き連れてキッチンへと降りて行った。

…………


 ダベンポートを送り出し、キキに食事を与える。

 きっとわたしがいない間はネズミとか雀とかばっかりを食べていたに違いない。もっとちゃんとしたご飯をあげないと。

 キキのメニューはパンを牛乳に浸したもの。それに猫肉屋さんから買った馬肉が添えられる。

 自分も朝ごはんを食べてから、リリィはキキを膝に乗せてぼんやりとダイニングに座っていた。

 さて、どこから手をつけよう。

 三日間も家を空けてしまった。洗濯物も溜まっているし、床もなんだか埃っぽい。それにキッチン! リビングとダイニングは一応掃除したけど、キッチンをちゃんと綺麗にしないと落ち着かない。

(あ、旦那様の書斎もだ)

 ふと、リリィは書斎も掃除しなければならないことに思い至った。

 ダベンポートは決して書斎を散らかす方ではなかったが、それでもゴミが溜まっているに違いない。集めてちゃんと燃やさないと。

(旅行の後片付けはどうしよう。合理服はタンスにしまったけど、まだトランクを空けてない……)

 両手で顎を支え、しばらく考える。

(やっぱり、お家のことが先だわ。荷物を解くのは夜にしよう)

…………


 その日の夕食が終わったお茶の時間。

 リリィはまた荷物のことを思い出した。

(そういえば、お祖母様が下さった『幸せの箱』には魔法がかかっているってマチルダさんが言っていたっけ。ちょっと旦那様にみてもらおうかな)

「あの、旦那様?」

 リリィの隣で美味しそうにお茶を飲んでいるダベンポートに思い切って訊ねる。

「ちょっと見て頂きたいものがあるのですが……」

「僕に見て欲しいもの?」

 ダベンポートはティーカップをソーサーに戻すと怪訝そうにした。

「『幸せの箱』というらしいんです。祖母の形見なのですが、魔法がかけてあるというので……」

「へえ、『幸せの箱』か!」

 驚いたようにダベンポートは眉を上げた。

「まだ残っていたのか。リリィ、それは有名な古い魔法だよ。どれ、見せてご覧?」


 リリィは急いで屋根裏に戻ると、トランクの中からずっしりと重い木製の箱を取り出した。箱を小脇に抱え、薄暗い屋根裏部屋からリビングに降りる。

「これです」

 リリィはリビングのソファで待っていたダベンポートに箱を差し出した。

「ふむ、僕も実物を見るのは初めてだよ」

 ダベンポートが箱の表面を丁寧に手のひらで触る。

「アンジェラ先生もこれをご覧になったんだろう? 何か言っていなかったかい?」

「いえ、特には」

「ふーん」

 ダベンポートが鼻を鳴らす。

 箱の上には大きく魔法陣が象嵌されていた。どうやら白蝶貝マザー・オブ・パールか何かのようだ。その象嵌の上から小さくサインが添えられている。

「……これは本物だ。リリィ、『幸せの箱』はね、この魔法陣に添えられたサインが特徴なんだ。こんな魔法陣は他にはない」

 顔を近づけ、食い入るようにサインを見つめる。

 ダベンポートはひとしきり観察した後に箱をティーテーブルの上に戻した。

「どれ」

 蓋に両手をかけ、箱を開ける。いや、正確には開けようとした。

 だが、箱は開かない。蓋を持ち上げると一緒に箱まで持ち上がってしまう。

「本当だ。これは面白いな」

 ダベンポートはしばらく箱を開けようと色々と試していたが、やがて諦めると箱をリリィに差し出した。

「ほら、開かないだろう? この箱は術者の想いを力にするんだ。だから術者が願った人以外には開けられない。象嵌されているのでは解呪も不可能だ」

「へえ……」

 そう言われてもリリィには良く判らない。

「これは古い魔法なんだよ。錬金術師の時代のものだ」

 ダベンポートはリリィに説明した。

「実はこれの作動原理もよくわかっていなくてね。罪のないただの骨董品アンティークだからあまり研究する人もいない。そもそも木製の箱だ。どうしても中が見たい人は箱を壊して開けてしまうんだろう。その程度の魔法なんだが、いや、これは珍しい」

「面白いですね」

 リリィの目が大きくなる。

「さあリリィ、開けてご覧? リリィになら開けられるはずだよ」

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